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第二十話『柚木日和』

正司が、葵や元グリーンの男性と再会していた日と同日──。


「ただいまー」


バイトから帰ってきた日和は、玄関の扉を開けた。日曜日の今日はフルタイムで働いたため、全身に疲労が溜まっていた。日和はどさっと玄関の段差に腰を下ろし、ふぅーと大きく息を吐いた。


すると、家の奥からタタタッと足音が近づいてくる。軽いリズムからして、子供の足音だ。日和は音だけで、それが誰かすぐにわかった。


「おねーちゃん!おかえりー!」


足音の主の小さな女の子が、勢いよく玄関に飛び出てきた。


うた〜!ただいま〜!」


日和は靴を揃えて脱ぎ、女の子を両腕で抱きしめた。「いい子にしてた〜?」


「うん!詩、今日もたくさんお絵描きした!」


詩と呼ばれた女の子は元気に答えた。日和の腕の中で頭をごそごそ動かすたび、ツインテールで括ったさらさらの髪先が日和の頬をくすぐった。詩は日和の妹で、先月六歳になったばかりだ。


「そっかそっか!詩もお絵描き好きだもんねー」


「うん!おねーちゃんと同じガッコ行くんだー!」


日和の顔を見上げる詩は、満面の笑みを浮かべている。


日和は少し複雑な気持ちになった。しかしこの笑顔を見るだけで、どんな悩みや疲れも吹き飛んでいくような気がした。


すると、玄関とつながる廊下のかどから、すっと男の子が顔を出した。背は詩よりもだいぶ大きい。


「あ、ねーちゃん帰ってたんだ…」


『別に興味ないけど』。と言わんばかりの淡々とした言い方だ。


陽真はるま〜!ただいま〜!」日和は男の子に向かって両手を広げた。


「は?なに?」


「おかえりのハグ〜」日和は両手を広げたまま、待ち構えている。


「するわけねーじゃん、バカじゃねーの」


陽真と呼ばれた男の子は、照れた様子でぷいっと顔を背け、奥の部屋へと行ってしまった。


陽真は日和の弟で、年は詩の四つ上だ。ギザギザ髪が特徴的で、数年前までは日和にベッタリだったが、ここ最近は少しでも近づくと恥ずかしそうに距離を取るようになった。


日和がリビングに入ると、甘辛くて香ばしい香りがふわっと漂ってきた。


「おかえりー。飯もうできるぞ。今夜は豚の生姜焼きだ」


リビング奥のキッチンで調理しながら、日和にそう言った男性は父の剛志ごうしだ。


柚木家は父子家庭だ。土木作業員の剛志は平日は遅くまで働くため、家事は日和の担当。休日の日曜日だけは剛志が台所に立つのが恒例だった。そして日曜日の夕飯は決まって、豚の生姜焼きだった。


「やった!生姜焼きっ!」


毎週食べているが、まるで久しぶりかのように日和は喜んだ。


リビングに詩も陽真も集まってきた。


「しょーがやっき!しょーがやっき!」


詩は自分専用の小さな椅子の上でぴょんぴょんはねている。陽真が全員分の箸とコップをテーブルに並べ、パックの牛乳をコップに注ぐ。


「よーし、できたぞ〜!」


剛志と日和がキッチンから豚の生姜焼きと白飯、味噌汁とサラダを運んできた。


「全員席について〜。いただきます!」剛志の掛け声に、「いただきます!」と全員で声を揃えた。


日和の家は築四十年の古い賃貸アパート。狭くても、日和にとっては世界一温かい場所だった。


「ねーちゃん、風呂沸いたって」


夕飯のあと、日和の部屋の扉を開け、陽真が顔をのぞかせた。


部屋では日和が床に大量のクロッキー帳を重ね、ビニール紐で括っているところだった。


「……それ捨てるの?」


「あ、うん。まーね。もう絵を描くのやめたから」


「ふーん。やめちゃったんだ。もしかして学校もやめるの?」


「そのつもり……」


「父ちゃんには?」


「もう言った。『日和が本当にやめたいなら止めない』だって。あ…この話、詩にはナイショね」


「そうなんだ。好きなんだったら続けりゃいいのに、もったいねー。……ま、俺にはカンケーねーけど」


「とにかく風呂、沸いたから」陽真はさっと顔を引っ込めて扉を閉めた。


部屋には静寂が残る。


日和は手を止め、括りかけのビニール紐の先を黙って見つめていた。


──絵をやめる……。


自分でもこれが正しい判断かわからなかった。


しかし、高校二年生で日和はあることに気づいてしまった。


『自分には個性も志もない』


それは十七年の日和の人生において最大の発見であり、同時に最大の挫折でもあった。


とはいえ、薄々わかってはいた。『ぼんやりとした焦り』だけがいつも頭の片隅にあった。まるでそれから逃げるように、見た目にこだわるようになり、高校に入ってからは派手なメイクやファッションで自分を飾るようになった。


透や正司、ハコ、そしてナツメ。みんなそれぞれの個性を活かし、目的を持って進んでいる。でも自分はどうだ?絵が好きという気持ちはあっても、高みを目指そうとはしていない。置いていかれないようにと必死だっただけだ。そこに志はない。


ただなんとなく今日まで生きていただけ。無駄に過ごしてきた時間。そのことが恥ずかしい。

悔しいのではない。ただ、恥ずかしいのだ……。


だからこそ、東京で新しい生活をと考えた。


ところが──そう考えはじめた途端、心の奥がざわめき始めた。


絵なんていつだってやめられる──そのはずだったのに。


《いいじゃん、東京!新しいチャレンジってのも日和らしくて。応援するよ!》


透の言葉が頭から離れない──。


「結局、私ってなにがしたいんだろう…?」


日和は静まり返った部屋でぼそっとつぶやいた。


突然、床に置いていた日和のスマホの画面が、淡く光って振動し始めた。どうやら着信のようだ。手にとって画面を確認する。


「正司!?」


日和は慌てて通話に出た。


「……もしもし?」


「あー。日和か?正司だけど」


「……」


「そのー……なんだ。いろいろとすまなかった」


「……ズズッ」


「……日和?」


久々の正司の声を聞いたことで、日和の中で張り詰めていたなにかが一気に崩れ、全身の力が抜けていく感覚がした。鼻の奥が熱い……。気づくと日和は泣いていた。


日和は一旦深呼吸をしてから声をだした。


「…ズズッ……あ、あんたもう大丈夫なの?」


「あぁ……本当に迷惑かけた。今から少し、会って話せるか?」


「ねーちゃん!いつになったら風呂入んだっ……って、あれ?」


日和の部屋の扉を勢いよく開けた陽真が見たのは、部屋の床に残された、括りかけの大量のクロッキー帳だけだった──。


「ふーん……なるほどね。蒼くん、そんなこと言ってくれたんだ」


夜の公園。ベンチに腰掛けた日和は隣に座る正司から、これまでの経緯を聞いていた。


「あぁ。蒼が人を恨むようなやつじゃないってわかっていたんだが、恨まれていると思い込むことで、なにもしないための、言い訳にしていたんだ」


正司はふふっと笑って、こう付け加えた。


「蒼はそれもお見通しって感じだった…まったく、どっちが兄貴なのかわからないな」


「まぁ……そういう不器用さが、あんたらしいっちゃあんたらしいけど」


そう言った日和も微笑んだ。


「それで、帰んの?実家」


「……まだ、わからない。正直まだ帰るには、なにかやり残したことがある気がしているんだ」


「そう。じゃあそれ、とっとと終わらせよう」


「そうだな」


日和は明日が『夏の思い出づくり』の日であることを思い出し、正司に来るように言おうかと思ったが、喉まで出かかって言葉を飲み込んだ。


「今日は突然呼び出してすまなかった。話、聞いてくれてありがとう」


正司はお礼を告げ、ふたりは別れた。


翌日。いつもどおり、県展の制作のために登校した日和は、ひとり美術室にいた。この制作を最後に、学校側にも退学の意思を伝えるつもりだった。──そのつもりだった。


「………」


日和のキャンバスは相変わらず真っ白のままだった。まったく頭にビジョンが浮かんでこなかった。


(なんで!?これが最後だってのに!最後くらいちゃんと働いてよ、私の頭!)


そのとき、冷たい物が日和の頬に触れた。


「ひゃっ!なに!?」


振り返ると、ナツメがアイスの袋を両手に持って立っていた。


「はははっ!相変わらず引っかかりやすいねー、日和は!」


ケタケタと笑っているナツメを見ていると、さすがの日和も少し腹が立ってきた。


「もう!邪魔しないでっ!」


「まぁまぁ。ちょっと休憩しようじゃないか。もうお昼過ぎてるし。ほい、差し入れ!」


ナツメはそう言って、片方のアイスを差し出した。


日和は壁にかかっている時計を見た。確かに針は十一時五十分を指している。キャンバスに向かってから、すでに二時間が経過していた。


「あ、ありがとう……」


アイスを受け取った日和は、仕方なく窓側に椅子を並べて座った。


しばらく黙ってアイスを食べ進めていると、窓の外の入道雲を眺めていたナツメが、唐突に口を開いた。


「……日和さぁ。学校やめるつもりでしょ?」


「──!なんで、それ……」


「うわぁ……当たっちゃったかー……」ナツメは頭をぽりぽりとかいた。


「どうしてわかったの?」


「夏休みにはいって三週間。日和まだ一度もまともに描いてないよね」


「……うん」


「日和がさー。絵を描けなくなったのって、迷ってるからだよ。迷えば迷うほど、手は止まるし、なにも見えなくなる。ここまで迷うっていったらさ、大体絞られてくるよ。特に日和はマジメだからねー」


日和の体は、かぁーっと熱くなった。ずっと閉じ込めていた感情が、一気にあふれてきた。


黙り込んでいる日和をよそに、ナツメの話は続いた。


「そんな難しく考えずにさぁ。もっとリラックスしてこーよ」


日和は思わず言葉が漏れた。


「……いじゃん」


「ん?」


「ナツメにわかるわけないじゃん!!私の迷いなんてっ!!」


「……日和」


「ナツメはいいよ!『なにもしなくても』いつも賞が取れるし、天才だもん!」


(違う……)日和は心の中で思った。


(私が言いたいのはこんなことじゃない……)


そんな日和の心の声とは裏腹に、嫌な言葉ばかりが口から漏れた。


「私には才能も個性も志も……なにもないの!空っぽなの!昔っからずっと……だから迷うに決まってんじゃん!」


「……」ナツメは黙り込んでいた。


「だからナツメと私は違うの!そもそも住む世界が!だから──」


日和はそこまで言ってはっとした。


窓のほうへ顔を向けたナツメの肩が、小刻みに震えていた。


「そうだね……。私には日和の迷いなんてわかるわけないよね……」


ナツメは声も震えていた。そして日和に顔を向けこう言った。


「住む世界……違うもんね……」


その顔は笑っていたが、目からこぼれた大粒の涙が頬を伝った。


「……ナツメ、その…ごめ──」


日和が言い終わる前に、ナツメは勢いよく立ち上がり、教室を飛び出して行ってしまった。


少しの間、その場に立ち尽くしてしまう日和。すると──


(なにしてんの!追いかけなさい!)


心の声が聞こえ、気づくと日和は駆け出していた。


美術室を飛び出し、廊下を駆け抜けて中央階段に出たところで、ナツメの姿を見つけた。階段の段差に腰を下ろし、背中をこちらに向けたまま、ひとり泣いていた。


日和はそっと背後からナツメを抱き寄せた。震える肩の感触が腕に伝わる。


「……ごめんね、ナツメ」


日和は耳元でそっとささやいた。


「……ひっぐ。私もごめん……」


ナツメの両手が、日和の腕を手繰り寄せるように強く握った。


ふたりのあいだに、それ以上の言葉は必要なかった。ナツメの体温が腕からじんわり伝わる。その温もりが自分の体温と溶け合い、心にのしかかっていた重たいものが静かにほどけていくようだった。


「──絵を描くこと、もうちょっとだけ続けてみようかなって思う」


ナツメと一緒に下校しながら、日和は自分から打ち明けた。


「今は見えなくてもいいから、その先になにが見えるのか──それだけ確認しておきたいかな。……なんてね」


それを聞いて、ナツメは笑顔で頷いた。


「──実は私もさ、描けないことあるんだよ」


「ウソ!?」日和は目を丸くした。


「嘘じゃないって」ナツメは笑った。


「だって……そんな素振り見せないじゃん!」


「見せないだけ。うちの部屋にボツになったの山のようにあるんだから」


「え〜!?ウソだ〜」


「本当だって!今度見せたげる!」


珍しく真面目になったナツメの顔を見て、日和は思わず吹き出した。


「ぷっ……あははっ!──じゃあさ、私のボツ作品と見せ合いっこしよーよ」


「おっ!いいねー、やろう!」


ふたりの笑い声は、夏の青空に共鳴するように響き渡った。


その日、バイト終わりの日和はその足で、『夏の思い出づくり』集合場所のバーガー店に向かうつもりだったが、本屋を出てすぐに立ち止まった。


そして、バーガー店とは反対方向に駆け出した。


着いたのは正司のマンション。これまで何度もマンションの前までは来ていたが、今日はついにエントランスに入り、インターホンで正司の部屋の番号を押した。


「……はい」


「正司。私」


「え……日和か?どうした?」


「今日、『夏の思い出づくり』の日だから。それだけ」


「それだけ……って」


「あとはあんたが決めなさい。じゃあね」


マンションの敷地から出た日和は、来た道を全速力で引き返した。こんなに全力で走ったのはいつぶりだろう?元々体力には自信があるほうだったが、最近はすっかり体を動かしていなかった。それにもかかわらず、体は羽のように軽く感じた。そのまま、ふわりと雲の上まで駆け上がっていけそうな感覚に包まれていた。

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