第十八話『神谷正司』
正司が、透たちの前に再び姿を現すより少し前のこと──。
正司はワンルームマンションの部屋に閉じこもっていた。
彼は高校入学時から、学校近くのマンションで一人暮らしをしており、生活費や学費は祖母の支援でまかなわれていた。そのおかげで、学業にも生徒会活動にも打ち込むことができた。しかし今は、昼間だというのにカーテンを閉め切り、照明もつけず、薄暗い部屋で小さく丸まって床に座っていた。
正司の部屋にはあまりモノが置かれていない。ぱっと目につくものといえば、シンプルな折りたたみテーブルと敷布団、あとは教科書の入った通学カバンくらいだ。そんな殺風景な部屋だからこそ、壁に貼られた一枚の大きなポスターが目立っている。ポスターは色褪せ、かどがめくれ上がっていた。何度も貼り直してきたのか、テープの跡があちこちについている。
ポスターに大きく写っているのは、五人の特撮戦隊ヒーローの姿だ。レッドを中心にグリーン、イエロー、ブルー、ピンクが横並びでポーズを決めている。ポスターの下には『超越戦隊オーバーレイヤーズ』とタイトルがあり、そのすぐ横に『〜正司くんへ〜グリーン・デルタ』とペンで書かれたサインがある。カーテンのせいで日の光が当たらず、ヒーローたちもなんだか弱々しく見える。
正司は特になにをするでもなく、ぼーっと床を見つめている。しかし、頭の中では迷い人となったワンピースの女性と、それを取り囲む見物人の声が、今もサイレンのように鳴り続けていた。
『誰も…私に近づくなぁー!!』
『お前が行けよ…使えねー』
『所詮はただの『ごっこ遊び』じゃん』
(俺は……俺は……)
そして、あのときに湧き上がった恐怖が再現される。肺の周りにドロドロとした粘度の高い『なにか』が、重たくまとわりついた。ドロドロの『なにか』は肺を締めつけ、呼吸がどんどん浅くなる。正司は徐々に生気を奪われていくような感覚がした。
今の正司は勉強のためにノートも開くことも、盆踊りの太鼓練習に参加することもしていない。コンビニで最低限の食料を買う以外は、外を出歩かず、誰とも連絡を絶っていた。
(こういうとき、他の人ならどうするんだろうな……)
気づくと、他人と比較し、より自分を追い込んでしまっていた。
(仲間にも、家族にも頼れない。助けを求める資格なんて俺にはない……)
そのとき、ある人物が一瞬頭に浮かんだ。それは弟の蒼の顔だった。
(蒼も俺のせいで今頃は……)
正司は自分の過去を思い出していた。
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正司は、代々続く由緒ある歌舞伎役者の家系だ。現当主である父の宗正は厳格な人物で、長男である正司は幼少期より、次期当主として厳しい教育のもとで宗正に育てられてきた。
正司は父であり、師匠でもあった宗正に一切逆らえなかった。特に歌舞伎の稽古になると、鬼のような恐ろしさを宗正に感じていた。母も祖母も、宗正の恐怖には誰も逆らえなかった。
正司の屋敷の近隣には透や日和の家があったが、学校に行っている以外の時間のほとんどは稽古を強いられていたため、彼らと遊べる時間は限られていた。
そんな息苦しい生活のなかで、正司にとっての唯一の癒しは、一歳年下の弟、蒼の存在だった。蒼は健康が取り柄の正司とは対照的に、生まれつき虚弱体質で体も小さかった。不器用で物覚えも悪く、宗正からは歌舞伎の才能が無いと、早くから見限られていた。
蒼はとても心の優しい子で、自然や動物が大好きだった。体調のいいときはいつも屋敷の庭園に出て、いろんな草花に触れ、虫や鳥を眺めて過ごしていた。正司も稽古の休憩時間には一緒に庭園で遊んだ。純粋な蒼の姿を見ていると、自分の心が澄んでいくように感じられた。
正司が小学三年生にあがったばかりの頃、宗正がニューヨークへ発つことになった。歌舞伎の海外公演が決まったためだ。
神谷家の長い歴史のなかでも、海外での公演は初めてのことで、宗正の功績は賞賛されるものだった。しかし、正司からすると、父が海外で活躍することよりも、恐怖の支配から一時的にでも逃れられることの安堵のほうが強かった。宗正は自分の不在中、外部から師匠を呼んで正司に稽古をつけさせるよう母に命じておいた。それでも、母はせっかくの機会に息子を稽古づけにしてしまうのを不憫に思い、たまの稽古を依頼するくらいに留めておいてくれたのだった。
こうして、人生で初めて正司は『普通の子ども』として遊べるようになった。透や日和と毎日のように遊んだ。体の弱い蒼は外で活発には遊べないため、正司は屋敷にいる間は蒼と一緒に遊んで過ごした。家族ぐるみの付き合いがあった日和は、たまに屋敷を訪れては蒼と遊んでくれていた。
宗正の海外公演は好評で、予定の数ヶ月が一年半に延長されたと知らされた。
自由を手にした正司はある日、祖母に連れられ日向野町にあるデパートへ。その屋上で生まれて初めて『ヒーローショー』を見た。スーツに身を包んだヒーローが悪を倒す姿は新鮮で、こんなかっこいいヒーローがいる世界があるのだと感動した。そして、すっかりヒーローに魅了された正司は、ポスターやグッズを買ってもらい、蒼とヒーローごっこでたくさん遊ぶようになった。そのうち正司は、自分も彼らのように人びとを守る存在になりたい。なにより、立場の弱い母や祖母、そして弟を守ってあげたいと強く願うようになったのだった。
ヒーローショーには何度も足しげく通い、ポスターにサインまでしてもらった。本当はレッドのサインが欲しかったが、人気が高くて近づくことすらできなかった。そのとき、代わりに手の空いていたグリーンが「僕のでよければ」と笑って書いてくれた。彼のヘルメットの下から聞こえた優しい声は、とても印象的で、それから正司は、グリーンのファンになった。
あっという間に月日が流れ、宗正が日本に帰国。屋敷に戻った宗正は、正司が稽古をおろそかにしていたことを知り、激怒した。頭に血がのぼった宗正は、正司が持っていたヒーローグッズを片っ端からゴミ箱へ放り込んだ。そしてそれを止めようとした母に、「いいつけを守らなかったお前が悪い」と罵声を浴びせた。そして勢い余った宗正は、正司の目の前で母をぶった。
そのとき、正司の中でなにかが弾けた。正司は母を守ろうと、宗正に思いっきり飛びかかった。その勢いで宗正はタンスの角に頭をぶつけ、五針を縫う怪我をしてしまう。
この一件で、正司は屋敷から追い出され、隣の祖母の家に預けられた。事実上の破門だった。以降、母が毎日のように様子を見に来てくれていたが、自分に懐いていたはずの蒼が一度も顔を見せないことを、正司は疑問に思っていた。あるとき、母になぜ蒼は来ないのかと聞くと、渋々口を開いた。
正司を破門にした直後、宗正は蒼を次期当主として育てようと、鞍替えしていたのだ。そして、宗正は蒼を稽古で縛り、正司に感化されないよう、会いに行くのを禁じていたのだった。
体の弱い蒼が父の元で苦しむのはわかっていた。心配した正司は、何度か屋敷の前まで様子を見に行くも、それ以上は踏み込むことができず、結局はなにもしてやれなかった。
ときは過ぎ、中学校にあがった正司は、道でばったり蒼と出くわす。相変わらず華奢な体だが、身長は一気に伸び、正司に追いついていた。
「蒼、久しぶり……」と正司は声をかけた。しかし、蒼は表情ひとつ変えず、無視して通り過ぎて行ってしまった。
きっと、蒼は人生を変えてしまった自分を恨んでいるに違いない。正司は自分を責める毎日を過ごした。結局、屋敷を追い出されたあとも、窮屈な生活は変わらない。そんな状況から逃げたかった。
そして正司は、高校にあがるタイミングで、ひとり暮らしを決断。祖母の理解と補助を受け、新たな生活を始めたのだった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
──ぎゅるるる……
(腹減った……。そういや、朝からなにも食ってなかったな。……コンビニ行くか)
正司は空腹に耐えられず、重い腰を上げて外に出た。
コンビニに向かう途中、正司は後ろから声をかけられた。
「兄ちゃん」
振り返ると、そこには蒼が立っていた。身長はすでに正司を超え、体格もしっかりしている。けれど、顔は昔のあどけない面影が残っていた。
「……蒼」
「ずっと家に引きこもってるんだって?事情は日和ちゃんから、いろいろ聞いたよ」
久しぶりに聞く蒼の声は、すっかり男らしい低い声になっていた。
「日和のやつ……余計なことを」正司はため息をついた。
「違うよ。兄ちゃん、母さんやばあちゃんの連絡もずっと無視してるだろ?心配した母さんが、日和ちゃんに聞いたんだ」
「そうか……。でも、なんで蒼が?」
「兄ちゃん、まだ自分のこと責めてるんだろ?自分のせいで俺が親父のあとを継がされてるって」
「……」
正司は、ただ地面を見つめることしかできない。
「──俺、兄ちゃんのこと恨んでないよ」
「……え?」
正司は顔を上げた。
「確かに最初はキツかったよ。でもさ。今は俺、歌舞伎が好きなんだ。中学卒業して親父に正式に弟子入りしたよ──自分の意思でね」
蒼は晴れやかな顔で、話を続けた。
「それに、兄ちゃんが、うちの前まで様子見に来てたのも知ってるよ。俺のこと、心配してくれてたんだろ?」
そして、少し間をおいて蒼は言った。
「──兄ちゃん、うちに帰っておいでよ」
「俺が実家に?」
「みんな兄ちゃんに帰って来て欲しいんだよ」
「でも、あの人が……許さないだろう?」
「親父だろ?あの人さ、兄ちゃん出て行ってからだいぶ変わったんだ。それまでのうちでの振る舞いも反省してね」
「あの人が……?」
正司は目を丸くした。
「信じられないだろ?…まぁ歳のせいで丸くなってるのかもしれないけど。とにかく、もう誰も兄ちゃんのこと責めたりしてないよ」
「……」
「まぁ、急がないから。兄ちゃんが帰りたくなったらいつでも帰っといで」
蒼はそう言うと、くるっと正司に背を向け、去っていった。
マンションの部屋に戻ってきた正司は、自分が手ぶらなのに気づいた。
「コンビニ……行くの忘れてた」
不思議と空腹は感じなくなっていた。
正司は部屋の床にあぐらをかいて座り込み、天井を見つめて考えていた。
──蒼は誰かを恨むような人間ではない。自分のことだって恨んではいないと、本当はわかっていた。ただ理由が欲しかっただけだ。自分が『なにもしなくていい』理由が。
いつもそうだった。逃げる言い訳ばかりたくさんつくって、なにもしない。それでも初めてヒーローを見たとき、人をピンチから救うために、すぐに駆けつける姿に強く惹かれた。彼らのまっすぐな姿勢が、かっこいいと思った。しかし、彼らには『正義』があって、それに従って動いている。それに対し、自分は周りの目を気にして、他人の真似事をしていたに過ぎなかった。その体裁を『正義』と呼んでしまっていた。本当の正義とはなんなのか。それが、わからなくなっていた──。
(蒼……やっぱ俺、実家には帰れないよ。今さら、どの面下げて帰ればいいんだ……)
──カタッ
物音に驚いた正司は、音がしたほうを見た。すると、壁のポスターが剥がれて床に落ちていた。仕方なく立ち上がり、ポスターを拾って、剥がれたテープを指で触ってみる。どうやら何度も貼り直してきたため、粘着性が弱まっていたようだ。
新しいテープを用意し、丸まったポスターを手で広げ、シワにならないようにしっかりと壁に押さえつける。そのとき、ポスターのサインに目がいった。
しばらくサインを凝視する正司。そして、なにかを思いついたようにポスターを丸め、脇に抱えて急いで部屋を出た。
正司は日向野町のデパート屋上に来ていた。今日は日曜日。日中のこの時間ならもしかしたらと思ったが、案の定、中央にあるステージに子どもたちが集まっていた。
正司は子どもたちの後ろに立ち、ステージを見た。後方の巨大スクリーンには『量子戦隊ネオクオンタム〜夏の大決戦!〜』と映し出されている。
しばらくすると、ステージ両脇の巨大なスピーカーから軽快な音楽が鳴り、それに合わせて五人のヒーローたちが登場した。子どもたちの黄色い歓声が湧き上がる。
世代が違うとはいえ、登場したヒーローたちを見た途端、正司の心は跳ね上がった。
ステージで活躍するヒーローを見て喜ぶ子どもたちを、正司は小学生の頃の自分に重ねていた。そして、最後までしっかりショーを楽しんだ。ステージの上の彼らは、今でも『かっこいいヒーロー』だった。
ショーが終わり、ヒーローもステージ袖へと去って行った。子どもたちも一斉に散り散りになり、あとには閑散としたステージが残った。正司はその場に残ったまま、誰もいない観客席に腰掛けていた。
するとどこからか、「ちょっと僕、探してきます!」と声が聞こえ、ステージ袖から一人の私服姿の男性がステージに上がってきた。周りをきょろきょろと見回しているが、観客席の正司には気づいていない。
正司は焦った。男性がヒーロー役の役者さんの可能性がある。偶然とはいえ、素顔を見てしまうのは申し訳がなかった。
「おっ!あったあった〜!よかったー」男性はそう言うと、床から怪人役のコスチュームの一部を拾った。戦闘シーンで取れてしまったのだろう。「ありましたー!」男性はうれしそうにステージ裏に向かって言った。
正司はその声に聞き覚えがある。──間違いない。
(昔サインをくれたグリーンだ……!)
気づくと正司は、席から立ち上がっていた。さすがの男性も正司の存在に気づく。
「あれ?まだお客さん残ってたんだ」
「すっ!すみません!」
正司は頭を下げ、慌てて立ち去ろうとした。
「あ、いえいえ!いいんですよ。──もしかして、サイン待ちされてたとか?」
男性は物腰柔らかく言った。
「あ、まぁ……」
「じゃあ、ちょっと待っててくださ──」
「あの!これ……」
正司は男性の言葉に被せるように声をかけ、ずっと脇に抱えていたポスターを、男性に向けて突き出した。
「?」
男性はステージから降り、正司のところまで歩いてポスターを受け取った。そして、それを開いた。
「このポスター……!うわぁ、懐かしいなぁ……」
ポスターを見つめる男性の顔がほころんでいる。
「ずっとファンでした。グリーンの!」
「え?なんで僕がグリーンだったって知ってるの?」
「声で分かります!小学生の頃、何回も見に来てましたから!」
「うれしいなぁ。僕のファンって少ないから。ははっ」
男性は笑った。その笑い声がまた当時のグリーンを鮮明に思い出させた。
そして男性は「ちょっと座っていいかい?」と言って、座席に腰を下ろし、もう一度、ポスターを広げた。正司も男性の横の席に座る。
正司は興奮する気持ちを抑えきれずに、男性に話しかけた。
「まだステージでご活躍されていたとは!──今日は公演中に声が聞こえませんでしたが、体調不良だったのでしょうか?代役さんだったとか?」
すると男性は、爽やかな笑顔で答えた。
「いや、僕は今、ステージには立ってなくてね。裏方役としてヒーローたちを支えているんだ。もう動き回れる歳じゃないからね」
「え!?そう……だったんですか」
正司は少し寂しさを感じた。それと同時に、どうしても聞いてみたくなった。
「あの!つかぬことをお伺いしてもいいでしょうか?すごく失礼な質問かもしれませんが」
「いいよ。なんだい?」
「小学生の頃からずっと思っていたんですが、グリーンはレッドに憧れたりはしなかったんでしょうか?」
男性は少し驚いた顔をした。そして、静かに話し始めた。
「憧れかぁ。んー……そうだね。最初の頃はそんな風に考えたこともあったけど。でも、途中でそれは諦めたよ」
「諦めちゃったんですか……」
『諦める』。それは今の正司にはあまり聞きたくない言葉で、なんだかやるせない気持ちになった。
その気持ちを察したのか、男性は座ったまま、正司のほうへ体を向けた。
「確かにレッドは花形だけど、僕を見に来てくれている子もいたからね。君のように。ある日、レッドにはなれなくても、僕のグリーンは僕にしかできないって気づいたんだ。だから『自分という正義』を貫こうと思ってね。それからはなにも気にならなくなった」
「自分という正義……」
「今だってステージに立たなくなったけど、僕は僕にしかできない裏方での役割があるからね!これも自分という正義のかたちさ。よく言われるんだ。『いつも細かなところに気がきいて、助かるよ!』ってね!」
そう言って、男性は片目を閉じ、先ほど拾ったコスチュームの一部を手でつまんで、ひらひらさせた。
このとき、正司は心の奥深くが、じんじんと熱くなっているのを感じた。その熱はあっという間に体中に広がり、肺の周りにまとわりついていたドロドロの『なにか』すら、簡単に溶かしていった。
男性は席から立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと待っててね。まだ残っているヒーローを呼んでくるよ」
ステージのほうへ体を向けた男性の背中に、正司は叫んだ。
「あの!『あなたのサイン』をもらえませんか?」
「え……?僕のでいいの?」振り返った男性は、目を丸くしていた。
「はい!それと、ひとつわがままを言っていいでしょうか?」
正司は帰宅すると早速、カーテンと窓を全開にした。部屋に日の光が差し込み、一気に明るくなる。
そして、ポスターをピンと伸ばして丁寧に壁に貼り、満面の笑みでそれを眺め、「よしっ!」と声を出した。
貼られたポスターには新たに加えられたサイン。そして、その横に大きく『自分という正義』と添えられていた。
正司はずっと放置していたスマホを、コードでつないで充電した。しばらくして画面に光が走り、スマホが起動すると、通知音が連続で鳴り響いた。恐る恐る画面を見た正司は、思わず「げっ!」と声に出してしまった。山のように溜まった留守電とメッセージ。その半分は日和からだった。正司はいろんな意味で恐ろしくなって、一旦スマホをゆっくり床に置いた。
しばらく床のスマホを見つめ続けた正司は、ようやく覚悟を決めて手に取り、日和に電話をかけたのだった──。




