青海の灯姫編 水鏡に映るもの
夢魔族の里にある離宮――水鏡宮。
いくつもの殿舎を渡り廊下で結ぶその宮域の一角、夢御殿を、リアは当座の御座所と定めていた。
その窓辺――広縁の籐椅子に腰掛けてリアは庭を眺めていた。
未だ修行らしいことはしておらず、ただゆっくりとした時間が過ぎていた。
この里に来てから、すでに二日が過ぎていた。
「落ち着くなぁ……この日本庭園」
そう言ったリアの視線の先には、苔むした大小の岩と、鯉の泳ぐ池、そして水面に映る花菖蒲。
手入れの行き届いた庭園を、緑茶片手に眺める王太女である。
「これで浴衣だったら、完璧なのになぁ」
前世の記憶をもつリアは、かつて日本のサラリーマンだった。
そんな彼――いや、彼女は自らの装いを眺めては、ため息をついていた。
なぜなら、リアの理想とは真逆と言ってもいい服装だったから。
それは――肌にピッタリフィットする、際どいカットの、赤い革の……ボンテージだった。
「この老舗旅館のような離宮に……似合わないなぁ」
「でしたら、渡り廊下の向こう側に、古アイジア様式の御殿もございます。移られますか?」
黒のボンテージを着た仲居さん……ではなく、離宮付きの夢魔族の侍女が畳に手をついて伺いを立てた。
「いえ、ここがいいんです。ただ、この服装がこの景色になじんでいなくて」
侍女は首をかしげる。
「そうですか? 私にはとても調和がとれているように思いますけど」
「……そうなの?」
「ええ。庭の静、人の動。これにより全体の調和がとれています」
「……調和」
リアが思う調和とは大きくかけ離れていた。
「私たちも世界の一部なので、私たちがここにいて、はじめて里の景観が完成します」
「郷に入っては郷に従えっていうからね……しょうがないけどさ……こんなに肌を露出して平気な人……ああ、あいつなら喜んでこの格好になるかもな」
リアは前世での親友である『彼』を思い出していた。
そういえば、少し前に出した人探しの勅も前世に関わることだった。
「……ふふ、あいつが今の俺を見たらなんていうかな」
心の声が漏れ出ていた。
「?なんとおっしゃいましたか」
「え?あ、何でもないわ。……ありがとう。すこし、ひとりにしてくれるかしら」
侍女はその言葉を受けて恭しく退室していく。
障子の向こう、さらに廊下へ通じる扉が閉まる音がした。
……なぜだかその音に、リアの心臓は僅かに締め付けられた。
リアは王太女である。
アイジアの頂点に就くべき人物である。
もちろん礼儀作法は、その立場に相応しく身につけている。
しかし、どうしても気は緩む。
リアは行儀が悪いと分かっていながら、籐椅子に胡坐をかいて座りなおした。
――あたりを見渡せば、『日本』なのだ。
頭ではわかっている。
帰って来たわけではない。
この離宮を建てたご先祖様も、祖国への想いが強かったのだろう。
微に入り細に入り……『日本』だった。
「……目が覚めたら、日本だった……なんてことにはならないかな」
その声には、三十代後半のおじさんだった頃の――今の姿には似つかわしくない、重い想いが込められていた。
徐に頬をつねってみる。
「あんまり痛くないな……やっぱり夢、だったりする……のかな」
その痛みとも言えない感覚は、まるで現実味を感じなかった。
夢であってほしい、でもせっかくの異世界転生だし――そんな思いを胸に、頬以外も色々とつねってみた。
――ちゃんと痛かった。
「なんだ、やっぱり夢じゃないのか……残念なような、ほっとしたような……」
ふと赤いボンテージから伸びた白い脚が、自分のものとは思えないほど、妙に艶めかしく目に映った。
思えば、転生してから今日に至るまで、落ち着いて一人だった瞬間というのがなかったように感じる。
それもそのはずで、リアの立場からは常に護衛や側仕えが身近にいるのだ。
でも今は……。
思わず、太ももを撫でる。
細くしなやかな指は、月光を宿したかのように白く、絹のような柔肌を這う。
体の中を、電気が走ったかのような感覚。
それは前世、男だった時には経験したことのない感覚だった。
ただ、肌に触れただけなのに。
リアはその感覚を驚きと好奇心、ほんのわずかな恐怖、そしていけないことをしているかのような――背徳感と共に受け入れた。
――生きている実感を得た気がした。
紅をひかない唇を、ぬらりと濡れた赤い舌が這う。
もう一度、先ほどの感覚が幻ではないことを確認するため、同じように指を這わす。
「……あれ?……なんでだろう?」
今回は特別なことはなかった。
ただ太ももを触っただけ。
この世界にいることも、肌感覚もなんだか夢か幻のように思えてくる。
「生きて……るんだよね?」
転生してからというもの、思えば色々ありすぎて、実感が湧かなかった。
だから、なんでもよかった……今ここにいるという実感が得られるなら。
ここにいる実体を確認するかのように、身体をさわっていく。
それはまるで暗闇で形を確認するかの如く。
やがて、触った感覚と触られた感覚が、徐々に一致していくようだった。
夢心地の中、いつのまにか甘い香がしていた。
庭の花だろうと、リアは気に留めなかった。
障子の向こうで、誰かが小さく咳払いをした。
けれどリアの意識は――自分の指先と、肌の感覚に……沈んでいった。
「リアちゃん」
「んあ!?」
驚きのあまり、リアは椅子から転げ落ちた。
「あーね……まぁここは夢魔族の里だからね、そんな気分になるのも仕方ないよ」
視線を合わせないまま、梓月がフォローともつかないフォローをする。
リアは何もまずいことはしていないのに、まずいところを見られたような心地で言い訳を始めてしまう。
「こ、これは違くて!体がどうなってるか知りたかっただけで!」
「あはは……リアちゃんもお年頃ってわけだよね」
「違うの!そうじゃなくって!」
「大丈夫。ルーには黙っててあげるから」
「ほんとにそんなんじゃないからぁ!」
恥ずかしさ
岩にしみいる
リアの声
どこかで蝉が鳴いていた。




