喪失と記憶㈢
「混沌」の魔女と「秩序」の堕天使。最悪で最強な二人の狂気の共闘劇!
地獄の底で負った傷よりも遥かに深い、存在の根幹を次元の断層に削り取られたようなダメージ。彼がかつての強大な力を完全に取り戻すには、人間界の基準で言えば、まだ数百年という途方もない時間が必要になるだろう。
「……ええ。完璧な温度ですわ、ガーディ。あなた様が淹れる紅茶は、相変わらずこの世のどの茶葉よりも美味しいですのよ」
孝子は、ティーカップをソーサーに静かに音を立てずに置き、ふう、と小さく美しい溜め息をついた。
「ですが……どうにも、味が薄く感じてしまいますの。この一ヶ月、何を食べても、何を飲んでも、まるで無機質な砂を噛んでいるようで……。ひどく退屈で、無味乾燥な毎日ですわ」
「……」
ガーディは、顔の半分を覆う影を微かに揺らめかせ、無言で主の言葉に耳を傾けた。
「あなた様のお加減は、どうですの? そんなノイズ混じりの見苦しい姿でうろちょろされると、わたくしの優雅なティータイムの視界が穢れてしまいますわよ」
孝子が、扇子で口元を隠しながら、相変わらずの毒々しい言葉を投げつける。
「へっ。ご心配をおかけしやす、お嬢様。……地獄の底に引きずり戻されることだけは免れやしたが、どうやら、以前のように無茶な空間跳躍や、大規模な呪詛を展開することは、当分難しそうですぜ」
「無様ですわね。わたくしの最も有能な下僕であるあなた様が、あのような空間の歪み程度に負けるなんて。……お稽古の準備に手間取るようなら、新しい番犬を地獄から喚び出さなくてはなりませんわね」
孝子は冷たく言い放つが、ガーディはその言葉の裏にある、孝子なりの不器用な「安堵と労い」を正確に読み取っていた。彼女は、地獄の底で自らを見出し、絶対的なルールを破ってまでこの地上へと連れ出してくれた唯一の理解者を失わずに済んだことを、強烈なサディズムの仮面で必死に覆い隠しているのだ。
だが、孝子の心を真に支配し、苛ませているのは、ガーディの負傷に対する憂いなどではない。
彼女の魂にぽっかりと空いた、あまりにも巨大な喪失感であった。
「……本当に、つまらない。美しくない世界ですわ」
孝子は、アンティークのデスクの上に置かれた『千枚通し』を指先でなぞりながら、窓の外の雪景色を虚ろな目で眺めた。
「あの『神託』のバケモノが消滅して、この地上の裏社会もすっかり大人しくなってしまいましたわ。……どこを見渡しても、ただ欲望に流されるだけの豚どもばかり。わたくしの極上の芸術を披露するに足る、骨のある獲物が見当たりませんのよ」
それは、裏社会が平和になったことへの安堵ではなく、絶対的な「退屈」への絶望であった。
自分と対極に位置する、最も強大で、最も憎み、そして最も自分を理解していた『唯一の標的』を、永遠に失ってしまったことによる、狂気的なまでの喪失感。
混沌は、対極にある強固な秩序が存在してこそ、その破壊の快楽を極限まで高めることができる。完璧な鏡を失った孝子の地獄の炎は、対象を焼き尽くす圧倒的な熱量を持ちながらも、その矛先を見失って、ただ自らの内側で黒く燻っていたのである。
「……わたくしの許可なく、勝手にあの極上の舞台から降りるなんて。本当に、万死に値する、不愉快で礼儀知らずなお人形ですわ」
孝子は、自らの右手を見つめた。
あの虚無の庭園で、最後に彼女の身体を次元の崩落から守ってくれた、青白い雷光の防壁。その冷たく、無機質で、しかし絶対的な安心感をもたらした「秩序」の感触が、今でも右手に微かな火傷の痕のような残響としてこびりついている。
『……ダボが。私がせっかく計算して作った帰還ルートなんやから、最後までキッチリ通り抜けなさいな。……ほな、またな、地獄のネズミさん』
消滅する直前に脳裏に響いた、あの憎らしくも誇り高い声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
「……ええ、そうですわ。あいつは、わたくしがじっくりと時間をかけて恐怖と絶望のどん底に叩き落とし、その綺麗な仮面を剥ぎ取って、最高の悲鳴を上げさせてやるはずだったのに……。それを、あんな一方的な自己犠牲などという、最も不格好で非論理的な形で終わらせるなんて……!」
ピシッ。
孝子がギリッと奥歯を噛み締めた瞬間、彼女が握りしめていたマイセンのティーカップに、無意識に漏れ出した赤い地獄の業火の熱によって、ヒビが入った。
「絶対に、許しませんわ。わたくしの芸術を未完成のまま放置して逃げるなんて、地獄の閻魔よりもたちが悪いですわ。……だから、わたくしは、ひどく不愉快なのですのよ」
孝子は、記憶も力も失ったであろう高清水凉子が、今、遠く離れた関西の地でどのような顔をして生きているのか、調べようとはしなかった。
論理を失い、ただの平凡な少女に成り下がったあいつは、もはや自分が壊すべき『極上のおもちゃ』ではない。翼をもがれたかつての宿敵を無様に弄ることは、孝子の気高い美学とプライドが絶対に許さなかったのである。
「……せいぜい、その退屈で凡庸な日常の中で、平和ボケして生き長らえることね、堕天使様」
孝子は、ヒビの入ったティーカップを乱暴にソーサーに戻し、冷たい粉雪が舞う窓の外を見上げながら、決してもう交わることのない青い稲妻の幻影に向けて、孤独で、そしてドロドロとした執着に満ちた宣戦布告を呟いた。
「……いつか必ず、あなた様がその完璧なシステムを再起動させて、再びわたくしの前に現れるその日まで。……わたくしは、この地上でわたくしの芸術を研ぎ澄ませながら、永遠に待ってさしあげますわ」
赤い業火の魔女は、自らの魂に開いた巨大な空白を抱えたまま、窓ガラスに映る自分自身の漆黒の瞳を、静かに、そして狂気的に睨み据えていた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




