喪失と記憶㈡
「混沌」の魔女と「秩序」の堕天使。最悪で最強な二人の狂気の共闘劇!
その口から紡がれた声は、いつも通りの、少し気の抜けたような神戸・播州の言葉であった。だが、かつてのように相手を「ダボ」と見下し、感情を「バグ」として切り捨てるような、あの鋭い刃のような響きは完全に失われている。
「……私、なんやごっつい長く眠っとったような気がするんよ。ここは……ラボ? なんでこんな、病院みたいになっとんの?」
凉子は、周囲の真っ白な壁と、自らの腕に繋がれた点滴のチューブを不思議そうに見つめながら、首を傾げた。
「……ええ。ひどい高熱を出されて、数日間、意識を失っておられたのです。……もう、大丈夫ですよ」
亨は、自らの両腕の痛々しい火傷の痕を背中に隠すようにして、優しく微笑みかけた。
彼の胸の奥で、巨大な安堵と、それと同等に巨大な絶望が同時に音を立てて崩れ落ちていた。
亨の狂気的なサルベージ作業によって、高清水凉子という「肉体」と「自我」は確かに救い出された。だが、彼女の内部にあった「天使としての異能の力」と、天界を追放されてから裏社会で血を流し続けた「西の堕天使としての記憶」の全ては、あの青白い光の自爆と共に、次元の狭間へ完全に燃え尽きてしまっていたのである。
今の彼女は、ただ少し頭が良く、美しいだけの、ごく普通の「十六歳の少女・高清水凉子」であった。
「……そっか。亨さんに、ごっつい心配かけたんやね。ごめんな」
凉子は、温かい紅茶の入ったカップを亨から受け取ると、両手で大切そうに包み込み、ふわりと微笑んだ。
それは、狂気と殺戮の裏世界で、彼女が一度も見せることのなかった、年相応の、純粋で無邪気な笑顔であった。
「……ねえ、亨さん」
凉子は、紅茶を一口すすると、少しだけ眉をひそめ、不思議そうな顔をして自らの右手を見つめた。
「私、熱にうなされとる間……なんや、ごっつい変な夢を見とったような気がするんよ」
「夢、ですか?」
「うん。暗くて、冷たくて、怖い場所で……私、誰かと背中合わせになって、一生懸命何かと戦っとう夢なんやけど」
凉子の青い瞳が、失われた記憶の底をまさぐるように揺らぐ。
「その人の背中が、ものすごく熱くて……真っ赤な炎が燃えとって。めっちゃ口が悪くて、高飛車で、ホンマに腹立つ女の人なんやけど……」
凉子は、自らの胸元をギュッと握りしめた。
「なんでか、その熱さが……その人の怒ってる声が、今でもこの胸の奥に、チリチリと焼け焦げみたいに残っとんのよ。……あれ、ホンマにただの夢なんやろか?」
魂の器からは、「異能」も「記憶」も、綺麗さっぱり消去されている。
だが、魂の最も深い、システムの初期化すらも及ばない基盤の底に。あの虚無の庭園で、最後に背中合わせに戦い、互いの命と美学を極限までぶつけ合った「赤い業火の魔女」の熱量だけが、微かな『色』として確実に残響していたのだ。
「……気のせいです。ひどい熱のせいで、悪夢をご覧になったのでしょう」
亨は、声の震えを必死に抑え込みながら、きっぱりと、しかし限りなく優しい声でその夢を否定した。
「凉子様は、どこにも戦いになど行っていません。……貴女の背中には、誰もいませんよ」
「……そっか。気のせいやね。私、喧嘩なんかしたことないもんね」
凉子は、自らクスリと笑って、窓の外の青空を清々しい表情で見上げた。
その穏やかな横顔を見つめながら、亨は、唇を噛み締め、深く、静かに一礼した。
かつての「完璧な秩序」を体現するシステムの構築は、完全に失敗に終わった。あの冷徹で、美しく、誰よりも気高かった『西の堕天使』は、もう二度と戻ってこない。
だが、亨は全く後悔していなかった。異能と記憶を失い、ただの無力な少女となった彼女の、この美しく脆い「新しい日常」を、自らの命に代えても、いかなるバグからも守り抜く。
それが、彼女の『翼』としてこの世に遺された自分の、新たなる、そして永遠の論理なのだと、彼は強く心に誓ったのである。
一方、神奈川県横浜市中区、山手。
枯れ葉が舞う石畳の道が続く高級住宅街の一角、重厚なレンガ造りの塀に囲まれた北條家の広大な敷地は、何事もなかったかのように、完璧で優雅な日常の静寂に包まれていた。
二階にある北條孝子の自室。豪奢なアンティーク家具に囲まれたその部屋の出窓のそばで、孝子は深く腰を下ろし、特注のマイセンのティーカップを静かに傾けていた。
琥珀色のダージリンティーから立ち上る芳醇な香りが、部屋の冷たい空気を微かに温めている。外は、鉛色の重い雲から粉雪が舞い散り、洋館の庭を白く染め上げていた。
彼女は、漆黒のベルベットで仕立てられた重厚なルームドレスに身を包み、陶器のように白く滑らかな肌を冬の柔らかい日差しに晒していた。その姿は、どこからどう見ても、由緒正しき良家で大切に育てられた、非の打ち所のない完璧なお嬢様そのものであった。
だが、その漆黒の瞳の奥には、以前のような、極上の獲物をいたぶる前特有の「狂気的なサディズムの熱」は完全に鳴りを潜め、代わりに、どこか底知れぬ退屈さと、決して埋めようのない巨大な『空白』がぽっかりと口を開けていた。
「……お嬢様。本日のダージリンの温度は、いかがでございやすか」
部屋の隅、最も色濃い影の中から、ズルリと粘着質な音を立てて長身痩躯の執事が姿を現した。
元・地獄の番人、ガーディである。
あの次元の崩壊の際、自らの魂の残量を使い切り、権能を限界突破させて孝子を現世へと引きずり戻した代償は、決して軽いものではなかった。彼の影の身体は、以前のようなどす黒い圧倒的な瘴気の密度を失い、所々が古いテレビの砂嵐ノイズのように薄く明滅していた。
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




