魂の汚染㈠
「混沌」の魔女と「秩序」の堕天使。最悪で最強な二人の狂気の共闘劇!
富士の裾野に広がる青木ヶ原樹海で、あの悍ましい「融合」の暴走を生き延びた二つの魂は、夜明けの冷たい空気と共に、それぞれの偽りの日常へと帰還を果たした。
だが、東の魔女と西の堕天使が、あの巨大な地下要塞からそれぞれのホームグラウンドへと持ち帰ったものは、過酷な任務を完遂したという達成感でも、共通の敵を退けたという勝利の凱歌でもなかった。それは、自らの存在理由そのものを根底から激しく揺るがし、ひび割れさせる強烈な「違和感」と、魂の最も純粋な部分に深く刻み込まれてしまった「汚染」の記憶であった。
神奈川県横浜市中区、山手。
北條家の豪奢な浴室では、湯船に張られた熱い湯から、乳白色の湯気と高級な薔薇の香油の匂いが立ち上っていた。北條孝子は、富士の泥と返り血、そして『虚無』の番人に命を吸われかけた生気のない青白い肌を清めるため、一時間以上もバスタブに身を沈めていた。
だが、何度肌をこすり洗っても、何度熱い湯を浴びても、あの感覚だけが消えない。
孝子は、湯からすくい上げた自らの右手を、ひどく忌ま忌ましげに見つめた。白魚のようなその美しい指先には、今もまだ、青白い電撃のスパークの残滓が、パチパチと微かな幻影となって纏わりついているように見えた。
(……気持ちが、悪いですわ。吐き気がいたします)
地獄の混沌たる、対象に灼熱の「苦痛」をゆっくりと与える赤い炎。それこそが、わたくしが地獄の底で見出した絶対的な美学であり、わたくしという存在の全て。だが、あの瞬間、あの忌まわしくも鼻持ちならない堕天使の力と強引に共鳴させられた時、この右手に流れ込んできたのは、秩序の、あの冷たく、無機質で、苦痛を与えることすら放棄した「浄化」の雷だった。
(美しくない。どこまでも非効率で、無粋な力。地獄の住人たるこのわたくしの気高い魂が、あんな血の通わない人形のような天の力に汚されてしまった。わたくしの芸術の中に、一滴の不純な青いインクが垂らされてしまった……!)
その事実が、孝子の完璧であった精神の結界に、初めて「焦燥」という名の醜いヒビを入れていた。
湯浴みを終え、上質なシルクのガウンを身に纏った孝子は、自室のアンティークな鏡台の前に深く腰を下ろした。鏡に映る自分の姿は、いつも通りの、古風で非の打ち所のない美しき女学生である。だが、その漆黒の瞳の奥には、自らの魂が「犯された」ことへの強烈な怒りが、どす黒いマグマのように渦巻いていた。
「……ガーディ」
孝子が低く冷たい声で呼ぶと、鏡台の足元に落ちていた影がズルリと這い上がり、長身痩躯の執事の姿を成した。
「へっ。お呼びでございやすか、お嬢様。お加減はいかがで……」
「気分は最悪ですわ。わたくしの魂の中に、あの女の薄気味悪い青いノイズがこびりついて離れませんのよ」
孝子は、銀細工のヘアブラシで黒髪を強く梳かしながら、ギリッと歯噛みした。
「昨夜のあの『融合』……あれは、一体何ですの? わたくしとあの女の力が混ざり合い、あのようなデタラメな破壊の竜巻を生み出すなんて。理屈に合いませんわ」
ガーディの顔の半分を覆う影が、恐怖と畏れに激しく揺らめいた。彼の声は、いつになく深刻な響きを帯びていた。
「お嬢様。昨夜のあの現象……あれは、この宇宙において、決してあってはならぬ事象にございやすぜ。冥府の最奥深く、閻魔大王様すらも口にすることを忌み嫌う古文書にのみ記された、最大の禁忌でさァ」
「禁忌、ですって?」
「へっ。光と闇、秩序と混沌、生と死。相反する二つの絶対的な理を無理やり交わらせ、この次元に新たなる『神』を創り出す、禁断の神造術。……あの『神託』と名乗るバケモノは、最初から、これがお目当てだったのですぜ。我々は、奴らがその禁忌を証明するための、モルモットにされたんでさァ」
「……分かっておりますわ。わたくしたちが、あの得体の知れない輩の掌の上で踊らされていたことなど」
孝子は、ヘアブラシを鏡台の上に叩きつけるように置き、その冷徹な目で鏡越しのガーディを睨みつけた。
「ですが、そんなことは今のわたくしにとってはどうでもいいことですの。最大の問題は、わたくしの純粋な魂に、あの堕天使の『色』が混じってしまったこと。……あの、全てを冷たく見下すような、氷のような瞳」
孝子は、千枚通しが入ったアタッシェケースに視線を向け、右手を強く握りしめた。
「早くあの女を『懲らしめ』、その綺麗な顔が絶望と苦痛に醜く歪むのを特等席で眺めなければ、わたくしの魂の純粋性は、永遠に取り戻せませんわ。ええ、必ず……あの女を、わたくしの針で串刺しにしてさしあげます」
時を同じくして、兵庫県神戸市垂水区。
高清水家の広大な敷地の奥、完全な防音設備が施された音楽室の空気は、張り詰めた氷のように冷え切っていた。
高清水凉子は、朝のシャワーを浴び終え、清潔な純白のローブを纏った姿で、部屋の中央に立ち、数億円の価値がある名器ストラディバリウスを構えていた。彼女は、自らの魂にこびりついた不浄な感覚を洗い流すかのように、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番『シャコンヌ』を奏でようとしていた。
彼女の演奏は、常に完璧な数学的調和と、寸分の狂いもない論理の結晶であるはずだった。
だが。
キィィィィィン……ッ!
美しいはずの旋律が、突如として耳障りな不協和音となって歪んだ。
「……ッ!」
凉子は、忌ま忌ましげに弓を止め、自らの左手を見下ろした。
弦を押さえる彼女の左腕には、火傷の痕など物理的には一切存在しない。だが、彼女の研ぎ澄まされた精神の目には、あの日、孝子の電光剣から迸った地獄の「赤い炎」の残滓が、まるで醜いケロイドのように肌にこびりつき、チロチロと不快な熱を放っているのがはっきりと知覚されていた。
(……ごっつい、美しくないわ)
凉子の美しい顔が、これまでにないほどの激しい嫌悪感に歪んだ。
論理と秩序の絶対的な体現者であるべき私の魂に、あの非論理的で、感情的で、ただ相手を嬲るためだけの獣のような「混沌」の熱が混じり込んでしもうた。あんな残忍で下品な女と、一瞬とはいえ、魂の最も深い部分で共鳴してしもうた。
その事実が、凉子が天界を捨ててまで守り抜こうとした完璧な美学を、根底からドロドロに汚染していたのである。
「――凉子様。お加減はいかがですか」
音楽室の扉が開き、詫間亨が静かに足を踏み入れた。彼の腕には、幾つもの分厚いデータファイルが表示されたタブレットが抱えられている。
「……最悪やわ、亨さん。私のシステムの中に、あの赤い炎のバグが常駐しとう。シャコンヌの完璧な和音すら、まともに弾けへんのやから」
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魅力的なキャラクターたちが躍動する物語をお楽しみください。




