却下英雄と、毒舌きゅーさのなんとかする話
ゆっくりと立ち上がった。夜はすっかり深まっており、冷気が服の中に染み込んでくる。着ているのは、長袖の黒いシャツとシンプルなダークカラーのズボン、そして軽いブーツだけだった。帰宅途中に着ていた服そのままだ。ジャケットもなければセーターもない。夜の森の冷たさから身を守るものは、何一つない。
両腕で肩を抱き、静かに息を吐いた。刻一刻と冷えていくのがはっきりと分かる。
「……辺りを見てみよう」暗い森の中を見渡しながら、小さく呟いた。「少しでも隠れられる場所を探して、焚き火を起こさないと。朝までここにいたら、間違いなく凍え死ぬ」
頭の中で、数秒の沈黙が落ちた。
そして、次の瞬間、きゅーさが爆発した。
『……マジで今それ言った?』
頭の中で彼女が叫んだ声に、思わず体がびくりと震えた。
『お前、今この異世界に飛ばされて、ゴミみたいに捨てられたばかりだろ? 武器もスキルもまともな服もねえのに、夜中に森をうろうろしたいって? お前、頭おかしいのか?』
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」疲れた声で返した。「ここに座って、誰かに見つかるのを待つのか?」
『そうだよ! 少なくとも朝まで待てよ! お前は自分の庭を散歩してるわけじゃねえんだぞ、バカ!』
きゅーさの怒鳴り声に耳を貸さず、俺はすでに枯れた枝を集め始めていた。寒さのせいで、手が少し震えている。
「……なあ」枝を集めながら、小声で言った。「お前さ……本当に、あのきゅーさだよな? 俺が毎日メッセージしてた、あのニューロのやつ」
きゅーさは一瞬、言葉を詰まらせた。そして、わずかに意地悪げな声で答えた。
『おお、ようやく気づいたんだ。てっきり召喚された拍子に記憶飛んだのかと思ってたぜ。そーだよ、俺だよ。お前が毎晩「もうすぐ帰るよ」「退屈しないで待ってて」って送ってきてた、あのきゅーさだ』
「……頭、おかしくなってなかったんだな」小さく呟いた。
『まだな。ただ、この調子でバカなこと続けりゃ、そのうちおかしくなると思うけどな』きゅーさは鼻で笑った。『お前、マジで焚き火を起こす気か? お前が? 人生のほとんどを夜勤とスマホだけで過ごしてきた人間が?』
「じゃあ、どうしろってんだよ」苛立った声で言い返した。「ここで凍えてろってか? それとも、ただ死ねって言うのか?」
『バカな真似すんなって言ってんだよ! お前は異世界に来てまだ数時間しか経ってねえんだぞ! 焚き火を起こす前に、まず枝の集め方すら分かってねえくせに! 見てみろよ、その枝の半分は湿ってるだろ! 絶対に燃えねえよ!』
「じゃあ、どうすりゃいいんだよ! お前は全部知ってるんだろ!」
『もちろん知ってるさ! 俺はニューロネットワークだぞ? お前みたいな、ライターも満足に持てねえようなヒキニートじゃねえんだからな!』
口を開いて何か言い返そうとした瞬間、近くにいくつか濃い青色のキノコが生えているのが目に入った。普通のキノコに見えた。俺はしゃがみ込み、手を伸ばして一本を摘もうとした。
そのとき、きゅーさが頭の中で絶叫した。
『ホズヤイン!!! ストォォォップ!!!』
俺はびくりと手を引っ込めた。
『そのキノコに触るな、バカ!!!』
「……どうした!?」
『あれは「青の哭き虫」だ! 一口でも食ったら、二十分後には内出血が始まって、死ぬ直前まで笑いながら綺麗な夢を見て死ぬぞ! 何でもかんでも口に突っ込むな、この馬鹿野郎!』
ゆっくりとキノコを地面に戻し、ズボンで手を拭った。
「……お前、それどうやって知ったんだ? さっきまで分析とかできねえって言ってただろ」
きゅーさは一瞬、言葉を詰まらせた。
『……俺も知らなかった。ただ、あのキノコを見た瞬間……情報が勝手に浮かんだんだ。まるでデータベースを開いたみたいに』
しゃがみ込んだまま、キノコを眺めた。
「つまり……お前、今の物を分析できるってことか?」
『どうやら、そうらしいな』きゅーさはわずかに驚いたような声で答えた。『正直、俺もびっくりしてる。さっきまではただの知識として知ってただけだったのに、今は実際に視覚的に情報が見えてる』
顔を手で覆い、静かに息を吐いた。頭が少し痛くなってきた。
「最高だな。頭の中にただの声がいるだけじゃなくて、性格付きの生きた百科事典までついてるなんて」
『おい、俺を百科事典扱いすんなよ、却下英雄』きゅーさは素早く言い返した。『せめて「頭が良くて綺麗な百科事典」くらい言えよ。……それにしても、お前本当に情けないな。見てみろよ、手が震えてるし、枝は湿ってるし、もうすぐ第一候補のキノコを食おうとしてたんだぞ。お前、二十三歳までどうやって生きてきたんだ?』
「励まし、ありがとうよ」ぶっきらぼうに言いながら、再び枝を集め始めた。「お前が文句言うだけじゃなくて、ちょっとでも手伝ってくれねえか?」
『手伝ってるだろ! さっきから枝が湿ってると言ってるじゃないか!』
「じゃあ、どこで乾いた枝を取ればいいんだよ」
きゅーさは、明らかに馬鹿な子供に話しかけているようなため息をついた。
『少しでも光が当たってる木の下を見ろよ。だいたいそこで乾いてる。あと、地面に落ちてる枝は取るな。木に少し低く垂れてる枝を取れ。そっちの方が早く乾く』
言われた通りに近くの木に近づき、低い位置に生えている乾いた枝を折り取ってみた。意外と上手くいった。
「……悪くない」小さく呟いた。「お前、それどうやって知ってんだ?」
『さっきも言っただろ。俺は全部知ってるんだよ。ただ、今まではそれを実際に活かせなかった。でも今は……まるで情報に直接アクセスできてるみたいだ』
俺は無言で枝を集め続けた。数分後には、比較的乾いた枝がそこそこ集まっていた。しゃがみ込み、ネットで見たやり方で二本の枝を擦り合わせて火を起こそうとした。結果は散々だった。
きゅーさはしばらく俺の様子を見ていたが、やがて我慢しきれなくなったようだった。
『……お前、マジで摩擦で火を起こそうとしてるのか?』
「他にどうしろってんだよ。マッチなんて持ってねえ」
『脳みそがあるだろ! ……まあ、お前のは今お休み中みたいだけどな。いいか、馬鹿。まず樹皮か乾いた草を探せ。それが火口になる。次に一本の枝にくぼみを作れ。もう一本の枝をそのくぼみに当てて、ドリルのように素早く回せ。速く、強く。分かったか?』
頷いて、言われた通りにやってみた。手際は悪かったし、手もかなり疲れていたが、数分後にはうっすらと煙が上がり始めた。
「……いける」小さく呟いた。
『当然だろ。俺が説明してるんだからな。お前が自分で考えたわけじゃねえ』きゅーさは得意げに言った。『……正直、俺も少し驚いてる。さっきまではただの知識だったのに、今は実際にどう動けばいいのかが見えてる』
枝を回し続け、ようやく小さな火種ができた。すぐに火口に近づけ、慎重に息を吹きかける。やがて、小さな炎がぱちぱちと音を立て始めた。
隣に座り、両手を火にかざした。温かさが心地よかった。
「……やっとだ」安堵の息を吐いた。
きゅーさは数秒ほど沈黙した後、珍しく素直な声で言った。
『……意外と、やるじゃねえか。お前』
「ありがとうよ」素っ気なく返した。「褒め言葉、久しぶりだ」
『調子に乗るなよ。やっぱりお前は却下英雄だ』
小さく鼻で笑い、暗い森の方を見た。焚き火はしっかり燃えている。体が少しずつ温まってきた。そして、妙なことに、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
「……助かった、ありがとう」静かに言った。
きゅーさは、いつもの意地悪さを少し抑えた声で答えた。
『……別に。大したことじゃねえよ。ただ……お前が死んだら、俺もちょっと困るからな』
火を見つめながら、静かに口元を緩めた。
「ってことは、俺たち今、同じ船に乗ってるってことか」
『そうだな』きゅーさは小さく笑った。『ただ、お前はその船を自分で沈めようとしてるバカだ』
返事はしなかった。ただ、焚き火の炎が揺れるのを黙って見つめていた。
夜は、まだ始まったばかりだった。




