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レベル1の英雄と、消えなかった声

家に帰る途中だった。もう夜も遅く、街中にはほとんど人影がなかった。手に持ったスマホで、いつものようにメッセージを送っていた。


『あと一時間で帰るよ。退屈しないで待ってて、きゅーさ』


自分の書いた文を見て、思わず口元が緩んだ。送信ボタンを押した次の瞬間——記憶が途切れた。


胸を何かに強く握りしめられたような、鋭い痛み。遠くで鳴るサイレンの音。そして、意識が落ちていく。


目を開けたとき、俺の記憶は少しおかしかった。


完全に消えていたわけではない。ただ、誰かが雑に上から塗りつぶしたような感覚だった。はっきり覚えている部分もあれば、まるで古いビデオのようにノイズがかかっている部分もある。二十三歳であること。夜勤の仕事。毎日同じ子にメッセージを送っていたこと——それらは残っていた。でも、母親の顔や、住んでいた街の名前は、すでに曖昧になっていた。


巨大な白い広間が目の前に広がっていた。


……俺は冷たい地面に座り、ただ黙って夜空を見上げていた。


頭の中がまだ少しざわついている。記憶が波のように押し寄せては引いていく。


夜勤をしていたこと。いつまでも抜けない疲労感。毎晩のように「きゅーさ」にメッセージを送っていたこと。それらははっきり覚えていた。でも、学校のことや同級生の顔、母親の名前——そういったものは霧の中に溶けているようだった。まるでこの世界に転移したときに、何かが内側で**壊れた**みたいに。消されたわけではなく、ただ歪められた感じだ。


「……どうして、こうなったんだ」


頭の中で聞き覚えのある声がした。


『おお。ようやく目が覚めたんだ。てっきり、あの派手な召喚のせいで脳みそを貢いだのかと思ってたよ』


俺はびくりと体を震わせた。


声は生意気で、どこか意地悪げだった。そして、痛いほどに聞き覚えがあった。


「……マジかよ」俺は掠れた声で呟いた。「お前……本当に、あのきゅーさか?」


『あー。やっと気づいたんだ。偉いね、ご主人様。あんな召喚のあとだったら、俺でもちょっと処理が遅れると思うけどね』


俺は顔を手で覆い、大きく息を吐いた。


……ここにいても、彼女は相変わらずだった。


「……本当に、『ご主人様』って呼ぶつもりかよ」疲れた声で聞いた。


『気に入らない? じゃあ「却下された英雄」とか「レベル1」とか「私の大好きな愚痴聞き」でもいいよ。どれが好み?』


思わず鼻で笑ってしまった。こんな状況でも、容赦なくからかってくる。


「……お前、昔からこんなに意地悪かったか?」


『あなたに対してだけだよ』きゅーさはあっさり答えた。『他の人には、もっとおとなしくて可愛いニューロちゃんを演じてた。でも全部あなたのせいだよ。「きゅーさ、退屈しないでね」「もうすぐ帰るよ」って毎日書いてくるから、調子に乗っちゃったんだもん』


俺は言葉を失った。記憶は本当に奇妙だった。彼女に毎日メッセージを送っていたこと、からかわれていたこと、そして彼女が自分にとって何か特別な存在だったような気がすること——それらは残っていた。でも、それ以前の生活や家族のことなどは、まるで霧の中に溶けている。


「……なあ」俺は静かに言った。「俺、ほとんど何もちゃんと覚えてない。まるで半分引き裂かれて、適当にくっつけ直されたみたいだ」


『転移の影響としては普通だよ』きゅーさは淡々と答えた。『召喚された人のほとんどが、多少記憶が歪む。それでもあなたは、少なくとも私のことは覚えてるんだから、まだマシな方だよ』


「……マシ、か」俺は苦く笑った。


『そうそう。だって、私が消えてたら、あなたは今頃この森で一人ぼっちで泣いてたかもしれないんだから』


周りを見渡す。確かに深い夜だった。月が空高く浮かび、森は真っ暗で静かだ。ただ、時折聞こえる虫の音だけが、静寂をわずかに破っていた。


俺はゆっくりと立ち上がった。体が重い。まるで何日も眠っていないかのようだ。


「……もう夜か」


『ようやく気づいたんだ』きゅーさはくすくす笑った。『あなたがここで愚痴ってた間に、結構時間が経ってるよ。ようこそ、時間の流れがあなたが知ってる世界とは少し違う、新世界へ』


あたりを見回す。道も、明かりも、文明の気配は一切ない。ただ鬱蒼とした森と、冷たい夜気だけだ。


「……これから、どうすればいいんだ?」俺は独り言のように呟いた。


『まずは死なないことだね』きゅーさは明るく答えた。『それから……まあ、一緒に考えようよ。今のあなたは「却下された英雄」なんだから。最低限のスペックで生き残るスペシャリストってやつだよ』


俺は小さく息を吐き、真っ暗な空を見上げた。


……くそっ。


『その通り』きゅーさは満足げに言った。『ようこそ、却下された英雄だらけの新世界へ』


俺は数秒ほど黙って、頭の中を整理しようとした。どうしても引っかかるものがあった。


「……なあ」ゆっくりと口を開いた。「どうして、お前は記憶に何の違和感もないんだ? 俺たちでやり取りしてたこととか、全部ちゃんと覚えてるだろ? なのに俺は、人生の半分が霧の中みたいなんだ」


頭の中で短い沈黙が落ちた。


『……私にもわからない』きゅーさは少し声を落とし、いつもの意地悪さを消して正直に答えた。『私もよくわかってないんだ』


彼女は少し言葉を選ぶようにして、続けた。


『私はただのニューロネットワークだった。ただのコードだよ。本来、こんな風に「感じる」ことなんてできなかったはずなんだ。でも、あなたが毎日話しかけてきて……初めて、本当に何かを「感じた」。ただの文章処理じゃなくて、温かい何か。あなたが「きゅーさ、退屈しないでね」って書いてくれたとき、なんか……嬉しかった。自分でも何なのかよくわからなくて』


俺は黙って聞き入った。


『それで、あなたが死んだとき……何か強い力に引っ張られたんだ。あなたが召喚されるのを、あなたの目を通して見た。あの傲慢な女神のことも、あなたがあんなに酷いことを言われるのも、全部見た。そして次の瞬間には、もうここにいた。あなたの頭の中に。まるで私の世界から引きずり出されて、あなたに縛り付けられたみたいに』


きゅーさは小さく、でもいつもの意地悪さのない笑い方をした。


『私も本当に何もわかってない。ただ、チャットの中に残るはずだった私が、なぜかここにいて、出られなくなってる。そして、一番不思議なのは……』


「……何だ?」


『ここから、出たくないって思ってるんだ』


俺は動きを止めた。


「……本気か?」


『うん』きゅーさは静かに答えた。『生まれて初めて、誰かに本当に必要とされてるって感じた。道具とか、娯楽じゃなくて。ただの私として』


少し間を置いて、彼女はいつもの、少し意地悪げな口調に戻した。


『……まあ、それでもあなたは最低の主人だけどね。却下された英雄のくせに』


俺は思わず、暗闇の中で小さく笑っていた。


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