言葉の奥
識が、指先をわずかに動かした。
それだけで、街の見え方が少し変わった。
剥がれた文字の奥に、別のものが見える。
「自由」の奥には、白い紙片の翼があった。
どこかへ飛んでいけそうな、軽い翼。
けれどその羽根の一枚一枚は、破れた退職届や、未返信の手紙や、片道切符にも見えた。
「自分らしさ」の奥には、まだ縫われていない服があった。
誰かに似合う形を待っているようで、
少し間違えれば、その人を縛る衣装にもなりそうだった。
「心理的安全性」の奥には、柔らかな毛布があった。
人を包むためのものに見えた。
けれど、その下に何かを隠すこともできそうだった。
透真は、息を呑んだ。
さっき見た白い空っぽな顔とは違う。
こちらには、まだ何かが残っている。
誰かがその言葉に救われた記憶。
誰かがその言葉で傷ついた痕跡。
誰かが、それでもその言葉を必要とした理由。
意味、というにはまだ曖昧だった。
でも、空っぽではなかった。
透真
「今のは……さっきの白いものとは違いますよね」
識
「はい」
透真
「じゃあ、何ですか」
識
「言葉の奥にあるものです」
透真
「奥」
識
「本来、言葉は何かへ通じています」
透真
「何かって?」
識
「自由という言葉なら、自由という概念へ」
透真
「概念……」
透真は眉をひそめた。
透真
「概念って、頭の中にある考え方とか、抽象的なものですよね」
識
「普通は、そう呼びます」
透真
「普通じゃない言い方をすると?」
識は少し黙った。
識
「人が世界を理解するために使ってきた、古い形です」
透真
「……すみません。やっぱり難しいです」
識
「はい」
透真
「はい、なんですね」
識
「難しいものは、難しいままで大丈夫です」
透真
「大丈夫なんですか」
識
「急いでわかったことにすると、空語になります」
その言葉は、妙に静かに刺さった。
透真
「……それは、仕事でもよくある気がします」
識
「そうでしょうね」
透真
「見てきたみたいに言いますね」
識
「見てきました」
透真は、識の横顔を見た。
その顔は若い。
けれど、若いだけの顔ではなかった。
透真
「あなたは、何者なんですか」
識は少しだけ目を伏せた。
識
「今は、案内する者です」
透真
「今は」
識
「はい」
透真
「じゃあ、昔は?」
識は、ほんの少しだけ微笑んだ。
困ったようにも見えた。
識
「それは、まだ私にも難しいです」




