識
女は、少しだけこちらを見た。
視線がぶつかった気がした。
だが次の瞬間には、透真の奥の、まだ自分でも気づいていない違和感を読まれている気がした。
女は、ごく自然に名乗った。
女
「識と呼ばれています」
透真
「呼ばれています、なんですね」
識
「はい。自分でそう決めたわけではありませんから」
透真
「それは……少し寂しい言い方ですね」
識は、少しだけ目を伏せる。
識
「寂しい、ですか」
透真
「違います?」
識
「……まだ、わかりません」
透真は一度、雨の交差点を見た。
それから、なるべく失礼にならないように言葉を選んだ。
透真
「すみません」
「たぶん大事な話なんだと思うんですが、今の俺には少し難しいです」
識は、責めるでもなく、ただ静かに頷いた。
識
「ですが、今は名前より、あちらの話をしましょう」
識は大型ビジョンを見上げた。
剥がれかけた白い文字。
その裏にいる、空っぽな顔。
識
「あれは、空語です」
透真
「くうご……ですか」
識
「はい」
透真
「初めて聞く言葉です」
識
「普通は、聞かなくていい言葉です」
透真は少し困ったように笑った。
透真
「できれば、聞かないまま済ませたかったですね」
識
「多くの人は、済ませています」
透真
「でも、俺は見てしまった」
識
「はい」
透真は、大型ビジョンを見上げた。
自由。
成長。
本質。
その裏に、白いものがいる。
透真
「空語って、何なんですか」
識
「意味を失った言葉です」
透真は少し黙った。
透真
「中身のないスローガンとか、バズワードとか」
「そういう話に近いですか」
識
「入口としては、近いです」
透真
「入口、ですか」
識
「はい」
透真
「さっきから、その“入口”という言い方が少し気になります」
識
「気になるなら、向いています」
透真
「何にですか」
識
「この先を見ることに」
透真は返事に困った。
冗談のようにも聞こえた。
けれど、識の声には冗談の響きがなかった。
透真
「……正直、全然わかっていません」
識
「はい」
透真
「でも、あれがただの広告じゃないことは、わかります」
識
「それで十分です」
透真
「十分なんですか」
識
「最初は」
透真は、もう一度白い異形を見上げた。
透真
「じゃあ、最初のところからお願いします」
「あれは、意味を失った言葉なんですね」
識
「はい」
透真
「でも、意味を失っているのに、人を動かしている?」
識は、ほんのわずかに目を細めた。
識
「そうです」
透真
「それは……なんだか嫌ですね」
識
「ええ」
識は静かに言った。
識
「だから、空語は危険です」




