送信しなかった言葉
朔は、スマホを見つめていた。
退職します。もう行けません。連絡しないでください。
その文章は、まだ画面に残っている。
送信はされていない。
透真は、何も言わなかった。
何かを言えば、また自分の言葉で朔を動かしてしまいそうだった。
だから、待った。
白い紙片が、ゆっくり床に落ちていく。
さっきまであれほど軽かった紙片が、今は少しだけ重く見えた。
しばらくして、朔は画面に指を置いた。
そして、一文字ずつ消し始めた。
「連絡しないでください」が消える。「退職します」が消える。「明日から行けません」が消える。「もう無理です」が消える。
最後に、「すみません」だけが残った。
朔はその文字を見て、苦しそうに笑った。
朔「すみません、だけ残っちゃいました」
透真「残りやすい言葉ですよね」
朔「癖みたいなものです」
透真「わかります」
朔「辞めたい気持ちは、消えてないです」
透真「はい」
朔「明日、会社に行けるかもわかりません」
透真「はい」
朔「でも、今この文章を送ったら、たぶん……戻れないものまで切る気がします」
透真「そう思えたなら、今はそれで十分だと思います」
朔「十分なんですか」
透真は少し笑った。
透真「俺も、今日ずっと“少しだけ”で進んでるので」
朔「少しだけ」
透真「はい。少しだけでいいと思います」
朔は、しばらくスマホを見つめた。
それから、新しい文章を打ち始めた。
朔「明日、体調不良で休みます」
透真「はい」
朔「その後、上司じゃなくて、人事か産業医に相談します」
透真「いいと思います」
朔「辞めるかどうかは、その後考えます」
透真「はい」
朔「……これでも、逃げてますか」
透真「逃げてると思います」
朔の表情が一瞬こわばる。
透真「でも、逃げ方が少し変わったと思います」
朔「変わった?」
透真「全部を燃やして逃げるんじゃなくて、火元から離れる感じです」
朔は、ゆっくり息を吐いた。
朔「それなら、いいんですかね」
透真「いいかどうかは、たぶん後で考えるんだと思います」
ジユウが、上空で小さく呟く。
ジユウ「つまんないの」
その声は軽かった。
けれど、どこか安心したようにも聞こえた。
朔は、送信ボタンを押した。
今度の文章は、退職届ではなかった。
ただの休みの連絡だった。
それでも、朔の手は震えていた。
識「黒瀬さん」
透真「はい」
識「今の言葉は、彼自身のものです」
透真は、小さく息を吐いた。
透真「……よかった」
識「はい」
ジユウは、少し不満そうに羽根を揺らした。
ジユウ「休むだけの自由か」
透真「今日は、それでいいと思います」
ジユウ「真面目だね」
透真「さっきも言われました」
ジユウ「うん。何度でも言いたくなる」
朔は、スマホを胸元に下げた。
朔「黒瀬さん」
透真「はい」
朔「僕、まだ自由じゃないです」
透真「はい」
朔「でも、さっきより少しだけ、息はできます」
透真「それなら、来た意味はありました」
朔は、小さく頷いた。
その時、ホールの白い広告が一瞬だけ揺れた。
FREE YOUR LIFE
もう縛られない生き方へ。
その文字の奥で、ジユウの翼が静かに閉じた。




