第3話 劇薬のシナリオ
高精細な大型モニターの画面越しに浮かぶ薄ら笑いには、自身が引き起こした事態に対する一切の反省や、危機感といったものは見受けられなかった。
「いやー、佐藤さんマジですげえっすわ。この台本通りに喋れば、俺のアンチども完全に黙るってことっすよね?」
「ええ、その通りです。炎上というのは、いわば世間の『期待』が暴走している状態です。彼らは今、あなたが窮地に陥り、涙ながらに謝罪して頭を下げる哀れな敗者の姿を期待している。しかし、そこで圧倒的な『正当性』を提示して堂々と反撃に出れば、アンチの期待は裏切られ、逆にあなたのブレない姿勢やカリスマ性に熱狂する新たな信者が生まれます」
佐藤任三郎は、アンチフレアの広大な執務室の中央に立ち、モニターに向かって淀みない、そして慈愛すら感じさせるような穏やかな口調で語りかけていた。
画面の向こう、悪趣味なネオン管が輝く高級マンションの一室から通信を繋いでいるのは、迷惑系YouTuber「ジャック・ザ・バズ」こと山田健太と、その所属事務所のマネージャーだ。
3日前に佐藤が提示し、ジャックが快諾した緊急生配信の企画。いよいよ今夜に迫ったその本番に向けた、これは「最終確認」という名の、致死量の毒を盛る作業だった。
佐藤が作成した台本の内容は、あけぼの食堂の店主が倒れたことへの道義的責任は形式的に「遺憾の意」として示しつつも、「そもそも不衛生な店を放置していた側にも問題がある」「自分は視聴者に真実を伝えるために、あえて嫌われ役を買って出たのだ」という、彼自身の自己正当化と歪んだヒロイズムを極限まで強調するものだ。
「なるほどねー。俺はダークヒーローだから、常識の枠には収まらないってことか。めっちゃイイっすね、それ! 謝ってばっかの他のYouTuberとは格が違うってところ、見せつけてやりますよ!」
ジャックはすっかり有頂天だった。
彼の浅はかな脳内では、すでに自分がネット世界の絶対的な覇者になり、全てのアンチを平伏させたかのような錯覚が起きているのだろう。
「ただし」
佐藤はわずかに声を潜め、画面越しにジャックの濁った目を真っ直ぐに見据えた。
「このシナリオを完璧に成功させるには、圧倒的な『熱量』が必要です。生配信のピーク時、視聴者が最も跳ね上がったタイミングで、あなた自身の言葉で、アンチや世間の常識に対して『もっと過激に』吠えてください。中途半端な態度は命取りになります。あなたが自信に満ち溢れ、己の正義を1ミリも疑わない姿を見せつけることこそが、彼らを魅了する最大のエンターテインメントになるのですから」
それは、彼を破滅の崖っぷちから自ら飛び降りさせるための、甘く危険な囁きだった。
「もっと過激に、っすか……。よし、分かりました! 任せてくださいよ、俺の天才的なトークスキルで、アンチども全員俺の信者にひっくり返してやりますわ!」
ジャックは下品な笑い声を上げ、傍らに控えるマネージャーも「さすがプロですね」と安堵したような表情を浮かべていた。
「期待しています。では、本番の成功を祈っております」
通信を切断し、モニターの画面が真っ暗になった瞬間――佐藤の顔から営業用の温和な笑みがすっと消え去り、絶対零度の氷のような冷徹な処刑人の顔へと戻った。
「馬鹿ね。高く持ち上げられれば持ち上げられるほど、落とされた時のダメージが致死量になることも分からないなんて」
佐藤の背後から、ピンヒールが大理石の床を叩く硬質な音が響いた。
振り返ると、体にぴったりとフィットしたダークネイビーのスーツを完璧に着こなした女性が、湯気を立てるブラックコーヒーの入ったマグカップを手に立っていた。
渡辺千尋、28歳。
アンチフレアの副社長であり、専属の凄腕弁護士。佐藤の「表の顔」における最強の右腕であり、法的知識を武器にターゲットを追い詰める冷酷な狩人でもある。
「千尋か。あけぼの食堂側の法的手続きの最終確認は?」
「ええ、完了しているわ」
千尋は冷たい美貌に微かな笑みを浮かべ、手に持っていたタブレットを佐藤のデスクに滑らせた。画面には、分厚い訴状のデータが表示されている。
「ジャックおよび所属事務所に対する、名誉毀損および威力業務妨害での高額な損害賠償請求。そして警察への刑事告発状。すべての準備は水面下で終え、あとは提出のトリガーを引くだけよ」
「水面下、というのが重要だ」
「ええ。もし今、私たちが法的措置の準備をしていると奴らが知れば、警戒して配信を中止するか、あるいは本当にしおらしい謝罪動画を出して逃げに走るかもしれない。だから、奴らが完全に油断し、あの『自己正当化の配信』を全世界に向けて大々的に行うまで、こちらの動きは完全に伏せておく」
千尋はコーヒーを優雅に一口すすり、鋭い眼差しをモニターに向けた。
「大事なのは、社会的な抹殺を『不可逆』なものにすることよ。あの馬鹿が何十万人もの視聴者の前で『自分は正義だ』『捏造なんてしていない』と嘘に嘘を重ねてくれればくれるほど、あとで事実が暴露された時の偽証の悪質さが際立つ。その瞬間に奴の足場を完全に崩せば、法廷での心証は最悪。裁判官も世間も、もう二度と奴の言葉を信じない。スポンサー企業にも即座に内容証明を送りつけて、違約金で奴を金銭的にも丸裸にしてやるわ」
「完璧な包囲網だな」
「当然よ。私の仕事を誰だと思っているの?」
千尋が自信たっぷりに艶やかな髪をかき上げたその時、執務室の重厚なドアが乱暴に開いた。
スケートボードを小脇に抱え、片手で真っ赤な缶のエナジードリンクをストローで啜りながら、田中襟華が入ってきた。
「千尋ネエの方も準備万端みたいだね。こっちも、地下の特等席のセッティングは終わってるよ。いつでも奴の配信回線をジャックできる」
「あら、襟華。またそんな糖分だらけのエナジードリンクなんて飲んで。若いうちからそんなものばかり飲んでいると、脳細胞が溶けるわよ」
「はいはい、インテリおばさんは言うことが怖いねー。だいたいそのコーヒーだってカフェイン中毒じゃん」
「お・ば・さ・ん?」
千尋の整った眉がピクリと動き、室内の温度が急激に数度下がったように感じられた。
襟華は舌を出して、素早く佐藤の広い背中に隠れる。
「まあいい。二人とも、準備は抜かりないな」
佐藤が静かに声をかけると、二人のヒロインは即座に無駄口を叩くのをやめ、プロの顔に切り替わった。
「……よし。それでは、ショーの開演を待とう」
★★★★★★★★★★★
そして、運命の夜。
午後9時55分。ジャックの緊急生配信の開始まで、あと5分と迫っていた。
東京都内の高級タワーマンションの一室。
ジャックは、背後にハイブランドの空箱をわざとらしく山のように積み上げ、瞳の中に白い輪ができるほどリングライトの強い光を浴びながら、高級なゲーミングチェアに深く腰掛けていた。
画面端のコメント欄は、すでに異常な速度で滝のように流れている。
『逃げるなよクズ』
『ジジイを殺しかけた感想は?』
『人殺し!』
といったアンチの痛烈な罵詈雑言に混じり、
『ジャックは悪くない!』
『老害店を潰した俺たちのヒーロー!』
『アンチは嫉妬乙』
という盲目的な信者たちのコメントが入り乱れ、配信の待機人数はすでに10万人を突破していた。
「おいおい、すげえ数じゃん。最高記録更新だな」
ジャックは画面を見つめながら、下卑た笑いを抑えきれずにいた。彼の手首には、昨日買ったばかりの数百万円の高級時計が光っている。
傍らに立つマネージャーも、興奮気味に身を乗り出して頷く。
「佐藤コンサルの言う通りでしたね。これだけの注目を集めた上で、あの完璧な台本で反論すれば、今日の広告収益も投げ銭も桁違いになりますよ。まさに炎上商法の極みです。この配信だけで、1000万円は軽く超えるんじゃないですか?」
「だろ? やっぱ俺、天才だわ。あのジジイが運良くぶっ倒れてくれたおかげで、最高のビッグウェーブに乗れたぜ。むしろ俺に感謝してほしいくらいだな」
悪びれる様子など微塵もない。
他人の不幸や命の危機を、単なる自分を輝かせるための「バズの種」や「金」に換えることへの罪悪感は、とうの昔に完全に麻痺してしまっていた。
「よし、そろそろ時間だ。カメラ回せ」
午後10時ジャスト。
ジャックは不敵な笑みを浮かべ、配信開始のボタンをクリックした。
★★★★★★★★★★★
同じ頃、アンチフレアの地下深くに作られたハッキングラボ。
薄暗い室内で、佐藤、千尋、襟華の三人は、大型モニターに映し出されたジャックの生配信画面を無言で見つめていた。
『えー、みんな、待たせたな! ジャック・ザ・バズだ!』
画面の中のジャックは、神妙な顔つきを作ることもなく、むしろいつも以上に傲慢でハイテンションな態度で語り始めた。
配信を視聴している人数を示すカウンターの数字が、凄まじい勢いで跳ね上がっていく。
『今日はな、あのあけぼの食堂の件について、俺の口から真実を語らせてもらう! アンチどもは俺が悪いみたいに言ってるけどな、そもそもあんな不衛生でマズい飯を出してる店が悪いんだよ!』
ジャックは佐藤が渡した台本通り、いや、己の万能感に酔いしれ、それ以上に過激な言葉で自己正当化を始めた。
『俺はな、世の中の腐った部分を清掃するダークヒーローなんだよ! 俺がゴキブリのいる店を暴露してやったおかげで、これ以上被害者が出ずに済んだんだ! 捏造? するわけねえだろ! 俺はいつだって真実しか映してねえよ! 俺を叩いてる奴らは、全員現実が見えてないただの馬鹿だ!』
ジャックの煽りに呼応するように、信者たちからの高額なスーパーチャットが次々と画面に表示されていく。数万円単位の赤い帯や黄色い帯が画面を埋め尽くす。
佐藤は腕を組み、モニターの光に照らされた瞳を細めた。
すでに「救いようのない怪物」として処刑の判決を下している彼にとって、画面の向こうで踊る対象を改めて『眼』で観察・評価する必要などない。
ただ、完全に肥大化した自尊心が、自重に耐えきれずに破滅へと転がり落ちていく様を、氷のような瞳で冷酷に見下ろしているだけだ。
『俺は絶対に間違ってない! 俺の言うことが世界の真実だ! これからも俺についてこい、お前ら!』
ジャックが両手を広げ、30万人を超える視聴者に向かって自身の完全なる勝利宣言をした。
同接数がピークに達し、アンチと信者の熱狂が最高潮に達し、本人の承認欲求が極限まで満たされたその瞬間。
「……今だ。やれ、襟華」
佐藤の静かで、死神のような冷たい声がラボに響いた。
「了解。処刑執行」
襟華の細い指が、エンターキーを力強く叩いた。
その瞬間、30万人以上が見つめるジャックの配信画面が、不気味なノイズと共に一瞬にして暗転した。
そして次の瞬間、全世界に向けて『絶対に世に出てはならない真実』が強制ブロードキャストされ始めた。




