第三話 距離が、縮まる理由
エルザの家に来て、二週間が経った。
毎朝練習して、昼は村を少し歩いて、夕方にまた練習して、夜は一緒に夕食を作る。そういうリズムができていた。
力の制御は、少しずつうまくなっていた。
最初は「流す」という感覚がよくわからなくて、毎回どこかの草が光ったり、地面に紋様が浮いたりしていた。それが今は、手の中だけで光をある程度収められるようになってきた。
エルザは毎回「そうだ」と言った。
それだけだった。でも、私にはそれで十分だった。
問題は別のところにあった。
エルザが、近い。
練習中に手の位置を直してくれるとき、後ろから腕ごと動かされることがある。並んで台所に立つとき、肩が触れる距離になる。夕食のあとにテーブルで話すとき、気づいたら向かいじゃなくて隣に座っている。
本人は何も言わない。意識している様子もない。
でも私は、そのたびに少しだけ心拍数が上がった。
これは、何だろう。
拾ってくれた恩人だから、大切に思っている。それはわかる。でも、恩人に対してこういう感覚を持つものだろうか。
答えが出ないまま、今日も朝の練習が始まった。
家の裏の広場に出ると、今日はエルザが木の的を立てていた。
「今日は目標物に当てる練習をする」
「狙いを定めるんですか」
「流すだけじゃなく、方向を選ぶ。それができれば実用になる」
実用、という言葉が少し引っかかった。
「実用というのは、戦闘でということですか」
「それだけじゃない。治癒にも使えるし、結界も張れる。聖女の力は応用が広い」
「私の力が、そんなことに使えるんですか」
「使えるように練習する」
エルザが当たり前みたいに言った。
神殿では、聖女の力は儀式のためのものだと教わった。決まった作法で、決まった目的のために使う。それ以外には使わない。だから制御の仕方も、本当の意味では教えてもらっていなかったのかもしれない。
「構えろ。的に向かって、少しだけ光を飛ばしてみろ」
「少しだけ、というのが難しくて」
「多くていい。まず方向だけ合わせろ」
私は的に向かって立った。
力を呼んで、流して、方向を意識した。
光が飛んだ。
的からは大きく外れて、隣の柵に当たった。柵が少し光って、それから消えた。壊れてはいない。
「方向が違う。もっと右」
「右、ですか」
「利き手がどっちだ」
「右です」
「なら右の方が制御しやすい。左手は補助に使え」
言われた通りにやってみた。
少しだけ、的に近づいた。
「いい。もう一回」
繰り返した。
十回目でようやく的の端に当たった。ちゃんとした命中ではなかったけど、当たった。
「当たりました」
「そうだ」
エルザが少し的の方に歩いていって、傷の深さを確認した。
「力が強い。当たったところがへこんでる」
「すみません、壊してしまいましたか」
「壊れてない。それだけ出力があるということだ」
「強いのはいいことなんですか」
「扱えれば、な」
エルザが戻ってきた。私の隣に立って、また腕を組んで的を見た。
「リリア」
「はい」
「お前の力は、神殿が言うほど制御不能じゃない。ただ、量が多すぎて、今までの器に収まらなかっただけだ」
「器、というのは」
「作法とか儀式とか、決まった型だ。型が小さすぎた。お前の力の量に型が合ってなかっただけで、力そのものは問題じゃない」
私はしばらく考えた。
型が小さすぎた。
合わない型に無理やり収めようとするから、溢れていた。それを制御不能と判断された。
「……私は、無能じゃなかったんですか」
「無能とは正反対だ」
エルザが即答した。
その言葉が、どこか遠くに刺さった。
無能じゃない。制御できなかったのは私のせいじゃなかった。神官長は間違っていた。
そう言葉にすると、何かがじわじわと溶けていく感じがした。ずっと自分のせいだと思っていたものが、少しずつほぐれていく感じ。
「リリア」
エルザの声で我に返った。
「泣いてるか」
「泣いてないです」
「目が赤い」
「風のせいです」
「無風だが」
そんなことまで把握しているのか、この人は。
私は少し目元を拭いてから、前を向いた。
「続けましょう、練習」
「無理するな」
「無理してないです。続けたいんです」
エルザはしばらく私を見てから、うなずいた。
「わかった。もう五回やれ」
「はい」
五回練習した。四回は外れて、最後の一回だけ的の真ん中に当たった。
エルザが「そうだ」と言った。
今日一番うれしかった。
昼になって、家に戻った。
今日はエルザが昼食を作る前に、私が台所に立った。
「私が作ります」
「できるのか」
「この二週間で上手くなりました」
「二週間の話をするな。昨日も玉ねぎで泣いていた」
「それは仕方ないです、玉ねぎは誰でも泣きます」
「俺は泣かない」
「それはエルザが特殊なんです」
エルザが少し眉を上げた。言い返されると思っていなかったのかもしれない。
「……好きにしろ」
台所を使わせてもらった。
野菜のスープを作った。人参と玉ねぎと、昨日エルザが買ってきた豆が入っている。切り方は二週間前
よりだいぶましになった。玉ねぎはまだ泣いたけど、エルザには言わなかった。
スープが煮えてきたとき、エルザが台所の入口に寄りかかって見ていた。
「見ていますか」
「別に」
「見ていますよね」
「……偵察だ」
「料理の偵察ですか」
「お前が変なことをしたら止めなければいけないから」
変なこと、というのが何を指すのかよくわからなかったけど、見ていてくれているのはわかった。
スープを器によそって、テーブルに運んだ。
「どうぞ」
エルザが席についた。一口飲んだ。
何も言わなかった。
「おいしくないですか」
「……悪くない」
また「悪くない」だ。
でも今日は、「悪くない」の前に少し間があった気がした。
「本当ですか」
「うそをついてどうする」
「じゃあ本当においしかったということですね」
「悪くないと言った」
「それがおいしいという意味ですよね」
エルザが少しだけ視線を外した。
「……そういうことにしておけ」
照れているのかもしれない、とふと思った。
この人はなんでも短く言うから読みにくいけど、たまにこういう反応をする。感情がないわけじゃなくて、表に出すのが苦手なだけなんじゃないか。
午後になった。
今日は練習の代わりに、村を歩いた。エルザが「たまには外を歩け、体に悪い」と言い出したからだ。
村の人たちはエルザのことを知っていて、すれ違うたびに会釈してきた。エルザも短く返した。
「エルザは村の人たちと仲いいんですね」
「仲がいいわけじゃない」
「でもみんな、エルザのことを知っていますよね」
「ここに三年ほど来ているから」
「三年も。気に入っているんですか、この村」
「静かだから」
エルザが前を向いたまま言った。
村の端まで歩くと、小さな川があった。水が澄んでいて、底の石が見えた。
「きれいですね」
「ここは空気もいい」
エルザが川の近くの石に腰を下ろした。私も隣に座った。
しばらく川の音だけがしていた。
「エルザ、聞いていいですか」
「なんだ」
「守りたいものがあった、と言っていましたよね、昔」
エルザが少し間を置いた。
「言ったな」
「何だったんですか」
「……妹だ」
短く答えた。
「妹さんが?」
「病気だった。治癒魔法が使える騎士がいれば助かると言われて、俺が騎士になった」
「それで間に合いましたか」
「間に合った」
「よかった」
エルザが川を見たまま言った。
「今は元気にしている。王都で仕事をしている」
「エルザが守ったんですね」
「そうかもしれない」
「そうですよ」
エルザが少し私を見た。
「リリアは、そういうことをはっきり言うな」
「おかしいですか」
「おかしくはない。ただ、慣れない」
「慣れてください」
エルザが少し目を細めた。
笑っているのかもしれない、と思った。声には出ない、目の端だけが動く、そういう笑い方をたまにする。
「お前は、これからどうしたい」
急に聞かれた。
「これから、というのは」
「力が使えるようになったら。王都に戻るのか、別のところへ行くのか」
私は川を見ながら考えた。
王都には戻りたくなかった。追放した場所に戻る理由がない。では別のところへ。どこへ。
「まだわからないです」
「そうか」
「エルザは、どうしてほしいですか」
聞いてから、少し変な質問だったかもしれない、と思った。
エルザは少し間を置いてから、川の方を向いたまま言った。
「行きたいところに行けばいい」
「それが答えですか」
「俺の希望を言う必要はない」
「聞いているんです」
エルザが私を見た。
切れ長の目が、少し真剣だった。
「……ここにいてもいい」
静かに、でもはっきり言った。
「それは、エルザの希望ですか」
「そうかもしれない」
「そうかもしれない、じゃなくて」
「……そうだ」
川の音がしていた。
エルザがここにいてほしいと思っている。それを聞いて、胸の中がじんわりとあたたかくなった。
憧れだと思っていた。拾ってくれた恩人だから、大切に思っている。そう説明していた。
でも、今この瞬間に感じているのは、それよりもっと近い何かだった。
「わかりました」
「何が」
「もう少し、ここにいます」
エルザが少し視線を外した。
「……好きにしろ」
「いつもそう言いますね」
「他に言いようがない」
「ありがとうございますって言えばいいんですよ」
「お前のセリフをなぜ俺が言う」
思わず笑ってしまった。
エルザが少し驚いた顔をした。笑われるとは思っていなかったのかもしれない。
「なんだ」
「エルザが面白いことを言うから」
「面白いことは言っていない」
「言っていましたよ」
エルザがため息をついた。
でも、怒った様子はなかった。むしろ、川を見る横顔が少しだけ穏やかだった。
夕方になって、村を出て家に戻った。
二人並んで歩く道が、もう自然になっていた。
エルザの歩くペースに、私の足が合っている。エルザも私のペースを知っている。二週間で、そういうことが積み重なっていた。
家の前に着いたとき、エルザが言った。
「明日の練習、少し難しいことをやる」
「何をやるんですか」
「力の持続。今は瞬間的に出せるようになってきたが、一定時間維持する練習だ」
「難しそうですね」
「できる」
断言だった。
「エルザ、そんなに私の力を信じてくれるんですね」
「見てきたから信じる。根拠なく言っているわけじゃない」
「それが、うれしいです」
エルザが少し止まった。
「……そうか」
「はい」
「なら、早く寝ろ。明日に備えて」
話を切り替えた。
でも、耳が少し赤かった。
私はそれを指摘しなかった。
心の中だけで、少しだけうれしかった。




