第四話 守る、という言葉
異変に気づいたのは、朝の練習中だった。
力の持続練習を始めて四日が経っていた。光を手の中に一定時間とどめておく、それだけのことが思っていた以上に難しくて、最初の二日は三十秒も持たなかった。三日目にようやく一分を超えた。今日はもう少し伸ばしたかった。
目を閉じて、力を呼んで、流す量を調整しながら維持する。
一分。二分。
そこで、エルザの気配が変わった。
練習中は少し離れたところで腕を組んで見ているのがいつものエルザだ。でも今日は、その気配が急に張り詰めた。
目を開けると、エルザが広場の入口の方を向いていた。
背筋が伸びて、手が剣の柄に触れていた。
「エルザ?」
「練習を止めろ。家に入れ」
低い声だった。いつもより低い。
「何かあったんですか」
「いいから入れ」
有無を言わさない声だった。私は従った。
家に入って、窓から外を見た。
広場の入口に、三人の人影があった。黒い外套を着ていて、顔が見えない。旅人の格好じゃない。どこかの組織の人間だ、と直感でわかった。
エルザが彼らの前に立っていた。
「何の用だ」
「エルザ=ヴァルト殿とお見受けします。我々は王都より参りました」
「見ればわかる。だから何の用だ」
真ん中の人間が一歩前に出た。
「元聖女リリア=ソレイユの身柄をお預かりしたく」
私の名前が聞こえた瞬間、体が冷えた。
「お前たちが来るような場所じゃない」
「我々は正式な命令を受けております。元聖女の力は王国にとって危険であり、管理下に置く必要があると」
「管理というのは幽閉のことか」
「そのような言い方は」
「違うのか」
エルザの声が、一段低くなった。
「追放した人間を今更引き戻す理由は一つしかない。利用するか、消すかだ」
消す。
その言葉が耳に刺さった。
「物騒な話をしないでいただきたい。我々は合法的に」
「合法的な追放をした相手を、今度は合法的に引き渡せと言いに来た。随分と好都合な法律だな」
三人が互いに目を合わせた。
「エルザ殿。彼女を庇うつもりですか」
「庇うというより、邪魔をするつもりだ」
エルザが剣を抜いた。
三人が同時に構えた。
私は立ち上がった。
このまま見ていられなかった。エルザが三人を相手にするのは、私のせいだ。私がここにいるから、エルザが危険な目に遭っている。
窓から出ようとしたとき、後ろで声がした。
「出てくるなと言ったはずだ」
振り返ると、エルザが窓の外に立っていた。
「え、でも三人いて」
「問題ない」
「問題あります。私のせいで」
「リリア」
エルザが私の目を見た。
真剣な目だった。いつもの切れ長の目が、今日はどこか違う。
「俺はお前を守ると決めた。だから出てくるな」
「でも」
「出てくるなと言っている」
その声が、有無を言わさなかった。
私は窓の前で立ち止まった。
エルザが向き直った。
三人が同時に動いた。
エルザは速かった。最初の一人の剣をいなして、体を回して、次の一人を壁際に追い込んだ。動きに無駄がない。見ているだけで、この人が何年も戦ってきたのだとわかった。
ただ、三人目が回り込もうとしていた。
エルザは気づいていなかった。
私は反射的に窓から手を出した。
力を呼んだ。
的に向かって飛ばす、方向を定める、あの練習だ。
三人目の足元に光を叩きつけた。
地面が光って、三人目が体勢を崩した。
エルザが振り返った。三人目の剣を弾いて、腕を取って地面に押さえ込んだ。
静かになった。
三人が全員、動きを止めていた。
「……来るなと言ったが」
エルザが静かに言った。
「出ていってはいないです。窓から手を出しただけで」
「屁理屈を言うな」
「言ってないです、事実を言っています」
エルザが少し私を見てから、地面の三人に向き直った。
「王都に帰れ。次に来たら容赦しない」
三人は何も言わずに立ち上がって、来た道を戻っていった。
エルザが剣を収めた。
私は窓から出て、広場に駆け寄った。
「怪我はないですか」
「ない」
「本当に?」
「かすり傷一つない」
確かめたくて、エルザの腕を掴んだ。鎧の上からでは正確にはわからないけど、血は出ていないようだった。
「よかった」
「リリア」
「はい」
「手」
掴んだままだったことに気づいた。慌てて離した。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
エルザが私を見た。
「さっきの、よかった」
「え?」
「三人目のやつを止めたの。咄嗟によくやった」
「役に立ちましたか」
「立った」
短い言葉だった。でも、それがうれしかった。
役に立てた。ただ守られているだけじゃなかった。
「エルザ、あの人たちはまた来ますか」
「来るかもしれない。三人では無理だとわかったから、次は違う手を使う可能性がある」
「私がいるから、エルザが危ない目に遭う」
「それが嫌なら出ていくか」
「嫌じゃないです、でも」
「じゃあいい」
エルザが家の方に歩き始めた。
「お前がここにいることで俺が危険になるなら、俺が強くなればいい。それだけだ」
それだけだ、と言ってのけた。
私は少しの間、その背中を見ていた。
守ると決めた、と言っていた。
いつから、そう決めていたんだろう。拾った日から。それとも、もっと後から。
聞けなかった。
家に入ると、エルザが水を出してくれた。
「飲め。力を使ったあとは水分を取れ」
「はい」
受け取って飲んだ。
エルザが椅子に座って、鎧を点検し始めた。傷がないか確かめているらしい。
「エルザ」
「なんだ」
「守るって、言いましたよね」
「言った」
「なんで私を守ろうと思ったんですか」
エルザが鎧から目を上げた。
少し間があった。
「道端に倒れていたから拾った。それはそうだ」
「はい」
「でも、それだけじゃない」
エルザが鎧の点検に戻りながら、続けた。
「お前が力を出した最初の日、泣きそうな顔をしていた」
「……気づいていましたか」
「見ていたから。壊れなかったときの顔も見ていた。あの顔を見たら、もっと見ていたくなった」
もっと見ていたくなった。
私は少し黙った。
「練習するたびに少しずつ変わっていく。自信がなかったのが、だんだん前を向くようになる。それを見ていたかった」
「それが、守る理由ですか」
「理由というより、結果としてそうなった」
エルザが鎧を脇に置いた。
「俺はお前が自分の力を信じられるようになるまで、隣にいると決めた」
静かに、はっきり言った。
私は返事ができなかった。
神殿にいたとき、誰かにそういうことを言ってもらったことがなかった。力を使えと言われたことはあった。制御しろと言われたことも。でも、信じられるようになるまで隣にいる、とは、誰も言ってくれなかった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
「言いたいので言います」
エルザがため息をついた。
いつものため息だ。でも今日は、なんかいつもより優しい感じがした。
夕方になった。
夕食の準備を始めようとしたとき、エルザに止められた。
「今日は俺がやる」
「なんでですか」
「力を使ったあとは疲れるだろ」
「疲れてないです」
「疲れてる顔をしている」
「してないと思います」
「してる」
エルザに台所を取られた。
仕方なく椅子に座って、エルザが料理をしているのを眺めた。
今日は何か、じわじわと考えていることがあった。
守ると決めた、という言葉。隣にいると決めた、という言葉。
私はエルザのことを、最初は無愛想な人だと思っていた。次に、不器用に世話を焼く人だと思った。今は、もっと違う何かを感じている。
守ってもらうだけじゃなくて、私も守りたい、と思っている。
今日、窓から手を出したのは反射だったけど、その反射の奥にあったのはそれだと思う。エルザが危ないなら、私も動く。そういう気持ちが、いつの間にかできていた。
「エルザ」
「なんだ」
「私も、強くなります」
エルザが手を止めた。
「エルザが守ってくれるのはうれしいです。でも、私もエルザの隣で戦えるようになりたい」
「焦らなくていい」
「焦ってないです。ただ、そうなりたいと思っています」
エルザが少し私を見た。
「なんで」
「守ってもらうだけじゃ嫌だから、ですかね」
「お前は十分やっている。今日だって」
「今日みたいなことが、もっとちゃんとできるようになりたいということです」
エルザはしばらく何も言わなかった。
鍋を火にかけながら、背中を向けたまま言った。
「……そうか」
「だから練習を続けます。エルザと一緒に」
「好きにしろ」
いつもの言葉だった。
でも今日の「好きにしろ」は、少し違う温度があった気がした。
夕食ができた。
テーブルに並べて、向かい合って座った。今日はエルザが全部作ったシチューだった。
「いただきます」
一口食べた。
やっぱりおいしかった。
「エルザの料理、毎回おいしいですね」
「普通だ」
「普通じゃないと思います。ちゃんとおいしいです」
「お世辞はいらない」
「お世辞じゃないです」
エルザが少し視線を外した。
耳が赤かった。
この三週間で、エルザの耳が赤くなるタイミングが少しわかってきた。褒めたとき、感謝されたとき、それから、名前を呼ばれたとき。
そのたびに、私は少しだけ心拍数が上がった。
「エルザ」
「なんだ」
「今日、ありがとうございました」
「礼はいいと言っている」
「守ってくれて、ありがとうございます」
エルザが黙った。
「隣にいてくれて、ありがとうございます」
「……いいから食え」
「食べながら言っています」
エルザがため息をついた。
でも、口の端が少し動いた。
声には出ない、目の端が細くなる、あの笑い方だ。
私はシチューを食べながら、今日のことを思い返した。
守ると言ってくれた言葉。隣にいると決めたという言葉。
この人は、言葉が少ない。でも言った言葉は全部本当のことだ。嘘をつかない。飾らない。
それが、好きだと思った。
エルザのことが、好きだと思った。
憧れとか、感謝とか、そういうものを通り越した先に、ちゃんとあった。
言えるかどうかは、まだわからなかった。
でも、気づいた。
窓の外で、夜風が木の葉を揺らしていた。
今日の騒ぎが嘘みたいに、静かな夜だった。




