5 『死者と生者との狭間で』
5 『死者と生者との狭間で』
生物準備室の空気は、基本仕様で澱んでいる。換気扇は経年劣化で異音を放ち、棚の奥からはホルマリンと古い紙の匂いが絶えず滲み出している。
今日の僕は、放課後の貴重な時間を掃除に費やしていた。別にボランティア精神が芽生えた訳ではない。可能な限り早くガンダムを作りたい気持ちが溢れていたが、人生はやりたいことだけを続けられるほど甘くはないのだ。
作業環境の悪化が著しい。汚れた環境は模型製作における塗装精度の低下に直結する。
要するに、佐伯先生に怒られたのだ。
「……ふう」
部屋の隅で小さな溜息が聞こえた。
パイプ椅子に座った月島レイナが文庫本を閉じたところだった。背表紙には『二八五回の土曜日』とある。病床の誰かのために、毎週土曜日にだけ一輪の花を届け続けた『名もなき人の献身』のような内容だろうか?
「読み終わったのか?」
「ううん。ちょっと休憩。……主人公がね、すごく不器用なの」
彼女は本を撫でながら言った。
「自己肯定感が低くて、いつも迷ってばかりで。でも……必死に前を向こうと藻掻いてる」
「お前は現実で土曜日すら休めてないのに、本の中でまで他人の苦労に付き合うのか?」
「……だからこそだよ。泥臭くても『がんばって生きてる』って感じがして、目が離せないの」
彼女はパタンと本を机に置き、伸びをした。
「私には、ちょっと眩しいかな」
彼女は椅子から立ち上がり、僕の横にやってきた。
「ねえ、手伝おうか? 見てるだけなのも飽きちゃった」
「必要ない。おまえのその白い指は、雑巾を絞るようには設計されていない」
「いいから貸してよ。こう見えても家事スキル、意外と高いんだから」
彼女は僕の手から強引に雑巾を奪い取った。
気まぐれな生徒会長だな。
「やめておけ。ここの雑巾は汚い。皮膚のバリア機能が低下するぞ」
「なにそれ、私の心配してくれてるの?」
彼女は一歩踏み込み、悪戯っぽく顔を覗き込んでくる。
「……効率の問題だ。手荒れは精密作業の敵だからな」
「ふーん。じゃあさ」
彼女はさらに距離を詰め、僕の目をじっと見据えた。
「もし手が荒れたら、佐藤くんが責任取って治してよ?」
「……は?」
「ハンドクリーム。佐藤くんが塗ってくれるなら、手伝ってあげる」
とんでもない条件提示だ。だが、彼女の瞳は挑戦的に輝いている。
僕はため息をついた。
「……了解した。業務用の強力なやつを用意しておく」
「業務用はやめてよ。私が持ってる、いい香りのを塗って」
彼女は「くすっ」と花が咲くように笑うと、満足げに袖を捲り上げた。
調子が狂う。だが、彼女が動いてくれるなら処理速度は上がる。
僕は指示を出した。
「なら、そっちの標本棚を頼む。ガラスを拭くだけでいい」
「了解です、ボス」
生徒会長はおまえだろうに。
彼女は軽い足取りで棚に向かった。だが、数秒で動きを停止する。
「……うっ」
さっきまでの軽快な空気が一変した。
彼女の視線の先には、ホルマリン漬けの瓶が並んでいる。ウシガエルの解剖標本、謎の臓器、色素の抜けた胎児のような何か。理科室の怪談における主役たちだ。生物準備室にあって然るべきものたち。
「これ、死んでるんだよね?」
「当たり前だ。この状態で生きていたらホラー映画だ」
彼女は、標本瓶の中に浮くウシガエルをそっと指先でなぞった。
「……いいなぁ」
「なにが?」
「この子たち。だって、ずっとこのまま誰にも邪魔されないで、完璧に保存されてるんだもの」
それは標本にされた同情ではなく、純粋な羨望の響きだった。
「そうだな。腐敗もしなければ、成長もしない。時間が止まったまま保存されているようなものだ。標本としては機能的に優秀だよ」
「……佐藤くんの言い方って、たまにすごく冷たいよね。でも……本当のことだね」
彼女は逃げ出さずにガラスを拭き始めた。薄暗い部屋の中で、彼女の手だけが白く浮き上がって見える。
「次は窓だ。採光率が悪すぎる」
僕は棚の掃除を終え、水切りワイパーを手に取った。窓ガラスは長年の汚れで曇り、外の景色をセピア色に変えてしまっている。僕が洗剤を吹き付けると、彼女が面白がって僕からワイパーを取り上げて洗剤を切る。
僕が右へ洗剤を吹くと、彼女が右のガラスを拭き取る。左へ動くと、彼女もついてくる。
キュッ、キュッ。
ゴムがガラスを擦る音だけがリズムよく響く。
汚れを拭い去るたびに、堰き止められていた西日が、暴力的なまでの光量で室内に雪崩れ込んでくる。薄暗かった実験室が、黄金色の水槽のように満たされていく。
どれだけ汚かったんだよ。
「うわ、眩しい」
彼女は目を細めた。光の中にいる彼女は、輪郭が溶け出してしまいそうで、不意に怖くなるほど綺麗だった。
その時だった。
「けほっ」
高い場所を拭いた拍子にカーテンレールの埃が舞ったらしい。
西日の逆光で、舞い上がった無数の埃が黄金色の粒子となって輝いている。その中心で、彼女が小さくむせた。
僕は作業を中断し、自分のタオルを投げてやった。
「吸い込むなよ。マスクをしていないんだから」
「……ありがと」
彼女はタオルを口元に当て、少し潤んだ瞳でこちらを見た。
距離が近い。窓際という狭いスペースで、互いの熱を感じる距離。彼女はタオル越しに深呼吸をすると、ふと不思議そうな顔をした。
「……佐藤くんの匂いがする」
「シンナー臭いだけだろ。あまり吸うな」
「ううん、違うよ」
彼女は標本棚の方を指さした。
「こっちはさ、死体の匂いがする。時間が止まってて、冷たくて、ずっと昔に終わっちゃった匂い。でも、佐藤くんの匂いは落ち着く。……なんか、生きてるって感じがする。明日になれば、今日より少し形が変わってる。そういう、進んでいく匂い」
シンナーや塗料の臭いを「生きている証」と定義されたのは初めてだった。
逆光の中で、彼女の瞳が金色に透き通っている。その奥にある色は、単なる好意なのか、それとも縋るような依存なのか。僕にはその真意を読み取ることができなかった。
掃除が終わる頃には、日は完全に傾いていた。床は掃き清められ、ガラスは曇りなく磨き上げられた。だが、整然とした空間を眺めて、僕は微かな後悔に似た感覚を覚えた。
埃やガラクタという「ノイズ」が消えた部屋は、あまりに明るく、学校というシステムの延長線上にある「教室」と同じ空間に変質してしまった気がしたから。
剥き出しの静寂が少し居心地悪い。
背後から服の裾を引かれた。振り返ると、月島レイナが両手を差し出している。
「なにやってるんだ?」
「約束」
彼女は手のひらを僕に向けた。
「責任、取ってくれるんでしょ?」
……忘れていなかったのか。
僕はため息を吐いて、手を差し出した。彼女はにやにやしながら、鞄からチューブを取り出す。見たことのない、高そうなハンドクリームだった。
「ほら、出せ」
受け取ってから、彼女の手のひらにクリームを落とす。途端にシトラスの香りが辺りに満ちる。しかし、彼女はじっと僕を見つめ、自分で広げようとはしなかった。
「自分でやれよ」
「約束でしょ。塗って」
「いやだよ」
「なあに、女の子の手に触れるのが恥ずかしいの?」
やれやれだ。そんな挑発に僕は乗らない。
しかし……。
僕は反論を諦めて、彼女の小さな手を取った。指先が冷え切っている。血の通っていないフィギュアのように冷たく、そして華奢だった。
僕はなるべく力を抜いて、クリームを彼女の指一本一本に塗り込んでいった。
これは「パーツの噛み合わせを良くするための、ただの注油作業」だ。自分にそう言い聞かせる。だが、クリームの油膜を介して伝わってくる彼女の脈動が、僕の思考をかき乱す。硬い皮膚の下にある、柔らかな生身の感覚。
「……佐藤くんの手、ゴツゴツしてる」
「悪かったな、硬くって」
「悪いなんていってないよ、硬いのは事実だけど」
月島レイナは、ふふっと笑った。
「でも、あったかいね」
気持ちよさそうに目を閉じる。
クリームの香料が体温で揮発して、シトラスの微かな香りが漂う。それは部屋に染み付いたホルマリンの臭いを一瞬だけ上書きした。
彼女の手が、僕の体温を奪って少しずつ温まっていく。熱伝導による温度の平均化。ただの物理現象のはずなのに、何故だかひどく落ち着く時間だった。
「……静かだね」
ケアが終わると、彼女は窓辺に立ち、夕日を背にして言った。
「ここ、もっと綺麗にしたいな」
「それは御免被りたい」
「なんで?」
「きれいすぎると落ち着かないだろ」
「きれいにしたいの。だって……私の大切な居場所だから」
その言葉が、部屋の黄金色の空気に溶け込むのと同時だった。
ブブッ、ブブッ。
無機質な振動音が静寂を引き裂いた。
机の上に置かれた彼女のスマートフォンだ。
通知音が鳴った瞬間、彼女の肩が、見えない糸に引かれたように跳ねた。呼吸が止まり、画面の青白い光が彼女の瞳を照らす。
その光が網膜に届いた瞬間、瞳孔が鋭く収縮した。
息を止めたような、空白のような沈黙。
そして、彼女の顔から「年相応の少女」のデータが完全に消去された。
口角が数ミリ上がり、目元が涼やかに緩む。学校中の誰もが知っている、完璧で理想的な「生徒会長」の仮面が、一瞬にして張り付けられたのだ。
「どうした?」
「帰らなきゃ。佐藤くん……また明日ね」
声のトーンまで、完璧な声色に調整されていた。
彼女はスマートフォンを手に取り、優雅な動作で鞄を持って出て行った。あまりに滑らかで、一切の隙がない幕引きだった。
後に残されたのは、綺麗になりすぎて落ち着かない部屋と、微かに残るシトラスの香りだけだった。
僕は磨き上げられた標本棚を見る。ガラスの向こうのウシガエルと目が合った。ホルマリンの中で永遠に笑顔を固定された死体。
さっきの彼女の笑顔は、それによく似ていた。




