表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
プラスチック・ブルー  作者: いわたとおる


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/11

5 『死者と生者との狭間で』

 


 5 『死者と生者との狭間で』


 生物準備室の空気は、基本仕様デフォルトで澱んでいる。換気扇は経年劣化で異音を放ち、棚の奥からはホルマリンと古い紙の匂いが絶えず滲み出している。

 今日の僕は、放課後の貴重な時間を掃除に費やしていた。別にボランティア精神が芽生えた訳ではない。可能な限り早くガンダムを作りたい気持ちが溢れていたが、人生はやりたいことだけを続けられるほど甘くはないのだ。

 作業環境の悪化が著しい。汚れた環境は模型製作における塗装精度の低下に直結する。

 要するに、佐伯先生に怒られたのだ。

「……ふう」

 部屋の隅で小さな溜息が聞こえた。

 パイプ椅子に座った月島レイナが文庫本を閉じたところだった。背表紙には『二八五回の土曜日』とある。病床の誰かのために、毎週土曜日にだけ一輪の花を届け続けた『名もなき人の献身』のような内容だろうか?

「読み終わったのか?」

「ううん。ちょっと休憩。……主人公がね、すごく不器用なの」

 彼女は本を撫でながら言った。

「自己肯定感が低くて、いつも迷ってばかりで。でも……必死に前を向こうといてる」

  「お前は現実で土曜日すら休めてないのに、本の中でまで他人の苦労に付き合うのか?」

「……だからこそだよ。泥臭くても『がんばって生きてる』って感じがして、目が離せないの」

 彼女はパタンと本を机に置き、伸びをした。

「私には、ちょっと眩しいかな」

 彼女は椅子から立ち上がり、僕の横にやってきた。

「ねえ、手伝おうか? 見てるだけなのも飽きちゃった」

「必要ない。おまえのその白い指は、雑巾を絞るようには設計されていない」

「いいから貸してよ。こう見えても家事スキル、意外と高いんだから」

 彼女は僕の手から強引に雑巾を奪い取った。

 気まぐれな生徒会長だな。

「やめておけ。ここの雑巾は汚い。皮膚のバリア機能が低下するぞ」

「なにそれ、私の心配してくれてるの?」

 彼女は一歩踏み込み、悪戯っぽく顔を覗き込んでくる。

「……効率の問題だ。手荒れは精密作業の敵だからな」

「ふーん。じゃあさ」

 彼女はさらに距離を詰め、僕の目をじっと見据えた。

「もし手が荒れたら、佐藤くんが責任取って治してよ?」

「……は?」

「ハンドクリーム。佐藤くんが塗ってくれるなら、手伝ってあげる」

 とんでもない条件提示バーターだ。だが、彼女の瞳は挑戦的に輝いている。

 僕はため息をついた。

「……了解した。業務用の強力なやつを用意しておく」

「業務用はやめてよ。私が持ってる、いい香りのを塗って」

 彼女は「くすっ」と花が咲くように笑うと、満足げに袖を捲り上げた。

 調子が狂う。だが、彼女が動いてくれるなら処理速度は上がる。

 僕は指示を出した。

「なら、そっちの標本棚を頼む。ガラスを拭くだけでいい」

「了解です、ボス」

 生徒会長ボスはおまえだろうに。

 彼女は軽い足取りで棚に向かった。だが、数秒で動きを停止する。

「……うっ」

 さっきまでの軽快な空気が一変した。

 彼女の視線の先には、ホルマリン漬けの瓶が並んでいる。ウシガエルの解剖標本、謎の臓器、色素の抜けた胎児のような何か。理科室の怪談における主役たちだ。生物準備室にあって然るべきものたち。

「これ、死んでるんだよね?」

「当たり前だ。この状態で生きていたらホラー映画だ」

 彼女は、標本瓶の中に浮くウシガエルをそっと指先でなぞった。

「……いいなぁ」

「なにが?」

「この子たち。だって、ずっとこのまま誰にも邪魔されないで、完璧に保存されてるんだもの」

 それは標本にされた同情ではなく、純粋な羨望の響きだった。

「そうだな。腐敗もしなければ、成長もしない。時間が止まったまま保存されているようなものだ。標本としては機能的に優秀だよ」

「……佐藤くんの言い方って、たまにすごく冷たいよね。でも……本当のことだね」

 彼女は逃げ出さずにガラスを拭き始めた。薄暗い部屋の中で、彼女の手だけが白く浮き上がって見える。

「次は窓だ。採光率が悪すぎる」

 僕は棚の掃除を終え、水切りワイパーを手に取った。窓ガラスは長年の汚れで曇り、外の景色をセピア色に変えてしまっている。僕が洗剤を吹き付けると、彼女が面白がって僕からワイパーを取り上げて洗剤を切る。

 僕が右へ洗剤を吹くと、彼女が右のガラスを拭き取る。左へ動くと、彼女もついてくる。

 キュッ、キュッ。

 ゴムがガラスを擦る音だけがリズムよく響く。

 汚れを拭い去るたびに、堰き止められていた西日が、暴力的なまでの光量で室内に雪崩れ込んでくる。薄暗かった実験室が、黄金色の水槽のように満たされていく。

 どれだけ汚かったんだよ。

「うわ、眩しい」

 彼女は目を細めた。光の中にいる彼女は、輪郭が溶け出してしまいそうで、不意に怖くなるほど綺麗だった。

 その時だった。

「けほっ」

 高い場所を拭いた拍子にカーテンレールの埃が舞ったらしい。

 西日の逆光で、舞い上がった無数の埃が黄金色の粒子パーティクルとなって輝いている。その中心で、彼女が小さくむせた。

 僕は作業を中断し、自分のタオルを投げてやった。

「吸い込むなよ。マスクをしていないんだから」

「……ありがと」

 彼女はタオルを口元に当て、少し潤んだ瞳でこちらを見た。

 距離が近い。窓際という狭いスペースで、互いの熱を感じる距離。彼女はタオル越しに深呼吸をすると、ふと不思議そうな顔をした。

「……佐藤くんの匂いがする」

「シンナー臭いだけだろ。あまり吸うな」

「ううん、違うよ」

 彼女は標本棚の方を指さした。

「こっちはさ、死体の匂いがする。時間が止まってて、冷たくて、ずっと昔に終わっちゃった匂い。でも、佐藤くんの匂いは落ち着く。……なんか、生きてるって感じがする。明日になれば、今日より少し形が変わってる。そういう、進んでいく匂い」

 シンナーや塗料の臭いを「生きている証」と定義されたのは初めてだった。

 逆光の中で、彼女の瞳が金色に透き通っている。その奥にある色は、単なる好意なのか、それともすがるような依存なのか。僕にはその真意を読み取ることができなかった。

 掃除が終わる頃には、日は完全に傾いていた。床は掃き清められ、ガラスは曇りなく磨き上げられた。だが、整然とした空間を眺めて、僕は微かな後悔に似た感覚を覚えた。

 埃やガラクタという「ノイズ」が消えた部屋は、あまりに明るく、学校というシステムの延長線上にある「教室」と同じ空間に変質してしまった気がしたから。

 剥き出しの静寂が少し居心地悪い。

 背後から服の裾を引かれた。振り返ると、月島レイナが両手を差し出している。

「なにやってるんだ?」

「約束」

 彼女は手のひらを僕に向けた。

「責任、取ってくれるんでしょ?」

 ……忘れていなかったのか。

 僕はため息を吐いて、手を差し出した。彼女はにやにやしながら、鞄からチューブを取り出す。見たことのない、高そうなハンドクリームだった。

「ほら、出せ」

 受け取ってから、彼女の手のひらにクリームを落とす。途端にシトラスの香りが辺りに満ちる。しかし、彼女はじっと僕を見つめ、自分で広げようとはしなかった。

「自分でやれよ」

「約束でしょ。塗って」

「いやだよ」

「なあに、女の子の手に触れるのが恥ずかしいの?」

 やれやれだ。そんな挑発に僕は乗らない。

 しかし……。

 僕は反論を諦めて、彼女の小さな手を取った。指先が冷え切っている。血の通っていないフィギュアのように冷たく、そして華奢だった。

 僕はなるべく力を抜いて、クリームを彼女の指一本一本に塗り込んでいった。

 これは「パーツの噛み合わせを良くするための、ただの注油作業」だ。自分にそう言い聞かせる。だが、クリームの油膜を介して伝わってくる彼女の脈動が、僕の思考をかき乱す。硬い皮膚の下にある、柔らかな生身の感覚。

「……佐藤くんの手、ゴツゴツしてる」

「悪かったな、硬くって」

「悪いなんていってないよ、硬いのは事実だけど」

 月島レイナは、ふふっと笑った。

「でも、あったかいね」

 気持ちよさそうに目を閉じる。

 クリームの香料が体温で揮発して、シトラスの微かな香りが漂う。それは部屋に染み付いたホルマリンの臭いを一瞬だけ上書きした。

 彼女の手が、僕の体温を奪って少しずつ温まっていく。熱伝導による温度の平均化。ただの物理現象のはずなのに、何故だかひどく落ち着く時間だった。

「……静かだね」

 ケアが終わると、彼女は窓辺に立ち、夕日を背にして言った。

「ここ、もっと綺麗にしたいな」

「それは御免被りたい」

「なんで?」

「きれいすぎると落ち着かないだろ」

「きれいにしたいの。だって……私の大切な居場所だから」

 その言葉が、部屋の黄金色の空気に溶け込むのと同時だった。

 ブブッ、ブブッ。

 無機質な振動音が静寂を引き裂いた。

 机の上に置かれた彼女のスマートフォンだ。

 通知音が鳴った瞬間、彼女の肩が、見えない糸に引かれたように跳ねた。呼吸が止まり、画面の青白い光が彼女の瞳を照らす。

 その光が網膜に届いた瞬間、瞳孔が鋭く収縮した。

 息を止めたような、空白のような沈黙。

 そして、彼女の顔から「年相応の少女」のデータが完全に消去された。

 口角が数ミリ上がり、目元が涼やかに緩む。学校中の誰もが知っている、完璧で理想的な「生徒会長」の仮面が、一瞬にして張り付けられたのだ。

「どうした?」

「帰らなきゃ。佐藤くん……また明日ね」

 声のトーンまで、完璧な声色に調整されていた。

 彼女はスマートフォンを手に取り、優雅な動作で鞄を持って出て行った。あまりに滑らかで、一切の隙がない幕引きだった。

 後に残されたのは、綺麗になりすぎて落ち着かない部屋と、微かに残るシトラスの香りだけだった。

 僕は磨き上げられた標本棚を見る。ガラスの向こうのウシガエルと目が合った。ホルマリンの中で永遠に笑顔を固定された死体。

 さっきの彼女の笑顔は、それによく似ていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
 読ませていただきました。  今回の話、すごいメタファーがいっぱいですね。 ・「窓越しに見る景色」と「閉ざされたドア」 ・繰り返される「音」のメタファー。規則的な音は「日常」という仮面を、不規則な音は…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ