4 『グランプリホワイトの解像度』
4 『グランプリホワイトの解像度』
放課後を告げるチャイムが鳴った時刻、正門に向かう生徒の群れは一様に疲弊した色をしている。だが、今日の僕の足取りは軽い。滞っていた製作工程を再始動させるための、極めて重要な物資の補給という任務が控えているからだ。
RGガンダムの塗装に不可欠な「ホワイト」の塗料が底を突いた。製作遅延に直結する由々しき事態である。
「どこ行くの?」
背後から声をかけられた。
この鈴の鳴るような凛とした声。振り返らなくても分かる。僕の平穏な「背景モブ」としての生活に、物理法則を無視した精度で介入してくるのは彼女だけだ。
どうしよう。適当な嘘を吐くか。いや、こういう時の彼女の勘は、理不尽なほど鋭い。
「駅前の模型屋だ」
歩を緩めずに答える。
「ふーん。ついて行っていい?」
「……は?」
足が止まった。止められた。
振り返ると、月島レイナが佇んでいる。いつもとは違う、生徒会長としての重責など微塵も感じさせない軽やかさだった。両手で鞄を持ち、小首をかしげて僕を見つめるその姿は、日常に紛れ込んだ精巧なバグのようだ。
「おまえ、生徒会は?」
「休みだよ。最近忙しかったから、今日はリフレッシュ休暇」
理屈は通っている。だが、理解は追いつかない。折角のフリーな放課後に、女子高生が模型屋に行くのか。
「模型屋だぞ。お洒落なカフェとは訳が違う。シンナーと埃の臭いが充満する、男たちの欲望の掃き溜めだ」
「すごい言い方ね」
彼女はくすりと笑った。すぐにいたずらっぽい目をする。
「いいじゃない。社会科見学みたいで」
社会科見学……。僕の聖域をフィールドワークの対象にするというのか。しかし、どうやら僕には拒否権はないようだ。彼女は当然のように、僕のパーソナルスペースの隣に滑り込んできた。
校外で、完璧な制服姿の生徒会長と並んで歩く。僕のような「背景モブ」には荷が重すぎるバグであり、エラーだった。もしも誰かに見られたら、翌日のHRで公開処刑にされかねない。
「誰かに見られたらどうするんだよ」
「見られたくないの?」
「いや、お前の心配をしてるんだよ」
「別に、誰も気にしないでしょ」
彼女の言葉は、まるで自分を風景の一部だと言い切るような冷静な響きを持っていた。
そんなものなのか? 確かに僕と一緒にいるところを見られたとしても、誰も気にするわけはない……か。
僕は帽子を目深にかぶり、人通りの少ない裏道を選んだ。
やれやれだ。
目指すは『ホビーショップ・クラタ』。商店街の端で化石のように鎮座している老舗中の老舗だ。色あせたポスター。ガラスケースに並ぶ埃を被った完成品たち。なんと素晴らしい店構えだろう。
重たい手動の引き戸をガラガラと開けると、途端に鼻をつく刺激臭が僕らを迎える。ラッカー溶剤と古い紙の匂いが混ざり合った、僕にとっては深呼吸したくなる聖域の香りだ。
僕は悦に浸り、その濃縮された空気を肺の奥まで送り込んだ――直後、老舗店特有のあまりの濃度に気管が悲鳴を上げ、激しく咳き込んだ。
「げほっ、ごほっ……!」
「深呼吸したいんじゃなかったの?」
隣で月島レイナが、僕の無様な失態を愉しむようにくすくすと笑っている。僕はプロのビルダーとしての面目を取り繕うべく、無理やり呼吸を整えた。
「うわ……」
背後で月島レイナが小さな声を上げた。
無理もない。店内は床から天井まで、数十年の歴史が積み上げたプラモデルの箱で埋め尽くされている。通路は人一人がようやく通れる、まさに「情報の迷宮」だ。整然とした秩序が支配する「学校」とは対極にある、在庫管理という概念が消失した混沌。
「すごいね。地震が来たら埋まりそう」
「その状況は、おれにとっては本望だ。ガンプラの箱でなら圧死してもいい」
「また極端なこと言ってる」
珍しい異世界の遺物でも見るかのように、彼女は店内を見回している。その姿は、スクラップ置き場に迷い込んだ宝石のように場違いだった。夏服のブラウスの白さが、薄暗い店内では発光しているかのように眩しい。
「ねえ、佐藤くん見てこれ。この人、関節どうなってるの?」
月島レイナが指差したのは、通路の奥で埃を被った古い格闘ゲームのフィギュアだった。不自然に筋肉を強調し、解剖学を無視したような奇妙なポーズで固まっている。彼女は「ふふ、あはは!」と、完璧な生徒会長らしからぬ、年相応に無邪気な笑い声を上げた。
「……造形師のデフォルメが過ぎたんだろう。これもまた一つの様式美だ」
僕が解説すると、彼女はさらに楽しそうに肩を揺らした。その後、彼女はあるガンプラの箱に目を留め、棚の最上段に手を伸ばした。
「……と、届かない」
爪先立ちになり、制服のブラウスが張り詰めるほど背を伸ばす彼女。指先が箱の縁をかすめるたび、その無防備な背中のラインが強調される。僕は溜息をつき、彼女の背後からその箱を軽々と下ろしてやった。
「あ、ありがとう」
不意に距離が縮まり、彼女の髪から甘い花の香りがした。僕は誤魔化すように彼女を放置し、塗料コーナーへ向かった。彼女は手にしたガンプラを手ごろな棚に戻してついてくる。
回転式のラックに数百種類の塗料瓶が並ぶ、虹色のタワー。そこは色彩の解像度が極限まで高められた場所だ。
眼福眼福。
目的の棚を探す。
「ねえ、佐藤くん」
隣に来た彼女が、棚を覗き込むように身を乗り出した。
「これ、全部『白』なの?」
ふわりと、甘いシャンプーの香りが鼻を掠めた。シンナーと埃の臭いが支配するこの空間で、その匂いだけが異質なほど鮮烈だった。
僕は思わず半歩だけ距離を取る。
バグだ。彼女のパーソナルスペースの設定は、どう考えてもバグっている。
平静を装い、僕は棚を指差した。
「ああ。全部違う」
「嘘でしょ? 同じ色じゃない。なんでこんなにあるの」
彼女の視線の先には、ミスターカラーのホワイト系塗料が並んでいた。
素人にはそう見えるのか。僕はため息をつき、一本ずつ瓶を指差して解説を開始した。
「解像度が低いな。全然違うだろ。こっちが『ホワイト』。基本の色だ。隣が『キャラクターホワイト』。少し温かみがあって、アニメのセル画に近い」
「……うん?」
「こっちが『グランプリホワイト』。レースカーのボディに使われる白。そっちは『フラットホワイト』、つや消しだ。さらに言えばガンダムの白は時代によってトレンドが変わる。最近はグレーを混ぜてトーンを落とすのが流行りだが、個人的には清潔感のあるスーパーホワイトを使いたい時もある」
一気にまくし立ててから、横を見る。
月島レイナはぽかんと口を開けていた。
「……全部、同じ白にしか見えない」
「お前の目は節穴か」
「佐藤くんの目がおかしいんだよ」
彼女は可笑しそうに笑うと、適当な瓶を手に取った。
「じゃあさ、佐藤くんから見て、私はどの白?」
唐突な問いだった。
「それは、答えないとダメか?」
「ダメ」
そんな真剣な眼差しで見られたら、どうしていいのかわからなくなるじゃないか。
僕は彼女の顔を見た。期待に膨らんだ目をしている。眩しい……。仕方ない。真剣に考えるか。
蛍光灯の下で輝く、陶器のような肌。
「……グランプリホワイトだな」
「私、優勝者なの?」
「そうじゃなくてだな……。メタリックやパールが入っていない、混じりけのない塗りつぶしの白のことだ」
「え、なんで?」
「速そうで、冷たくて、傷ひとつ許されない感じがする」
「褒めてないよね、それ」
彼女はむくれたが、満更でもなさそうに瓶を棚に戻した。
そんなことはない。
ガンプラの成型色の白は少し青みがかっていることが多い。だからグランプリホワイトはそれよりも「温かみのある、落ち着いた白」になるのだ。通常の白よりも顔料の密度が高く、下地が透けにくい傾向にあるため、塗装作業自体も少し楽になる。
ガンダム試作一号機(GP01)に塗ったら、最高の色だ。GPだけに。
目的の棚を探していると、隣に来た月島レイナが、棚の隅に展示されていた最新の美少女フィギュアの前で静止した。
「……ねえ、なんでこれ作った人は、スカートの中の『下着』までこんなにしっかり作り込んでるの?」
真顔で尋ねる彼女に、僕は動揺を悟られないよう、あくまで技術的な見解として答えた。
「それが造形師の矜持、解像度の追求だ。見えない部分の精度が全体の存在感を支える。……『神は細部に宿る』というやつだ」
「ふーん。佐藤くんもああいうの、じっくり見たりするんだ」
「み、見るかよ」
「うそつき」
彼女は少し意地悪な笑みを浮かべ、フィギュアと自分を交互に見比べた。
「じゃあさ、佐藤くん。私とこのフィギュア、どっちがかわいい?」
厄介な問いだ。だが、いまの文脈で逃げるのは論理的敗北を意味する。
僕は溜息交じりに答えた。
「比較対象のカテゴリーが違う。……でも、情報密度(解像度)の話をするなら」
「うんうん」
「プラスチックの塊と生体組織では勝負にならない。……造形物として見るなら、お前の方が圧倒的に高解像度だ」
「ふふ、なにそれ。私が『高画質』ってこと?」
「そうだ。傷ひとつない塗装面も、その下の構造もな」
彼女は「変な褒め方」と笑ったが、その瞳の奥には何かを確かめるような真剣さが滲んでいた。彼女は不意に、自分のスカートの裾を指で軽くつまんだ。
「じゃあ、この下も……フィギュアに負けないくらい、ちゃんと『作られてる』と思う?」
ドキリとした。試されている。彼女はいま、自分の存在の実感を僕の視線で確認しようとしている。
僕は視線を強引に逸らし、温度を欠いた声で言い放った。
「……確認するアクセス権を僕は持っていない。行くぞ、会計がまだだ」
「あはは、逃げた」
彼女の明るい笑い声が、埃っぽい店内に響く。
「いらっしゃい。……おや、珍しいねえ」
奥のカウンターから、店主の倉田さんが顔を出した。白髪頭に老眼鏡、エプロンという、模型屋のNPCとして完璧な装備だ。
倉田さんは僕の手元の塗料と、隣にいる月島レイナを交互に見た。そして、ニヤリとシワの深い笑みを浮かべた。
「彼女さんかい?」
思考が一瞬フリーズする。僕と月島レイナが? 付き合っている? あり得ない。システムのエラーだ。統計上の外れ値にも程がある。
「違います」
「違います」
完全に重なった拒絶の声。そのハモリ方の完璧さが、逆に妙な空気を作り出す。
「なんだ、違うのかい。お似合いだと思ったんだけどねえ」
倉田さんは悪びれもせずレジを打つ。
お似合い? どこがだ。僕の目は腐っているかもしれないが、この爺さんのセンサーも大概だ。
いたたまれなさに、逃げるように金を払う。横目で彼女を見ると、「彼女さん」という単語など最初から聞こえていなかったかのように、平然とショーケースの中の戦車を眺めていた。
さすがだ。スルー力が違う。このスルー力こそが、彼女を頂点捕食者たらしめている所以だろう。僕だけが過剰反応して、自意識を暴走させていたことが恥ずかしくなる。
「佐藤くん、これ」
彼女が指差したのは精密作業用のピンセットだった。
「私も、なにか作ってみようかな」
その言葉に僕は足を止めた。
「……なにを?」
「わかんないけど……ガンプラ。なにか小さいもの。自分の手で組み立てるの、楽しそうだし」
彼女の目は好奇心で輝いていた。純粋な興味に見えた。
だが、僕は首を横に振った。
「やめとけ」
「えー、なんで? ケチ」
「ケチとかじゃない。おまえには向いてない」
「向き不向きなんてあるの?」
食い下がる彼女に、僕は冷たく言い放った。
「ある。大ありだ。ここは、足りない人間が何かを足すために来る場所だ」
ショーケースの中の、塗装された完成品たちを見る。
「現実に満足できない人間が、プラスチックの虚構に救いを求めて、必死に削ったり塗ったりして、自分を保つ。……そういう場所なんだよ」
彼女の完璧な指先を見る。ささくれひとつない、綺麗な爪。
「お前は完成してるんだから、わざわざ汚れる必要はない」
本心だった。ささくれも罅もない彼女の綺麗な爪に、シンナーの汚れは似合わない。わざわざこっち側に降りてきて、泥臭い作業をする必要なんてない。
月島レイナは少しだけ不満そうに唇を尖らせた。
「私だって、足りないものだらけだよ……」
「え?」
「なんでもない」
月島レイナはそれ以上を語らなかった。
店を出ると、外の空気は相変わらず生ぬるく湿っていた。
日が沈みかけ、商店街の街灯が頼りなく灯り始めている。
ポケットには新品のグランプリホワイトの瓶。彼女が「自分の色だ」と騒いでいたものだ。
駅までの帰り道、月島レイナがぽつりと呟いた。
「あのさ」
「ん?」
「こういう場所に初めて来たけど……なんか、落ち着くね」
彼女は振り返り、薄暗い模型店の方を見た。
「ここにいる人たちはみんな、なにかに夢中になってて、穏やかで。……正解が決まってる世界って、なんか楽そう」
その横顔が、ふと店内のプラモデルと重なって見えた。
ガラスの向こうに隔離された、手出し無用の完成品。彼女が感じた「落ち着き」が、あの店の「静止した時間」に対するものだとしたら、彼女は動いている現実に疲れているのかもしれない。
「……また、塗料が切れたら来る」
「うん。その時は、またついて来てあげる」
「頼んでない」
「ふふ。知ってる」
彼女は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。生まれて初めて至近距離で受けたウインクの衝撃に、僕の心臓が大きく跳ねた。学校での「鉄壁の生徒会長」ではない、年相応の少女の顔。
だが、瞬きをした次の瞬間にはいつもの完璧な生徒会長の顔に戻っていた。
彼女は手を振って改札へと吸い込まれていった。
僕はポケットの中の塗料瓶を握りしめた。
ひんやりとしたガラスの感触。
「白」には何百種類もの定義がある。だが、彼女が自分自身に塗り重ねているその色が、本当は何色なのだろうか。
いまの僕にはまだ、見極めることができなかった。




