10 『割れた卵』
『割れた卵』
そして、この日がやってきた。
外は梅雨の激しい雨が降っていた。窓ガラスを叩く雨音が、生物準備室の中の静寂を際立たせる。
僕はRGガンダムのパーツとダンゴムシの前で、所在なさげに座っていた。
無意識に左の頬に触れる。そこにはまだ、あの日の『前払い』が残した熱が、微かな痛みのように居座っている。ゴミ箱には昨日、二人で砕いて流し込んだ『ベビースター』の袋が、ジャンクな匂いを微かに放ったままだ。
放課後の廊下で一瞬だけ視界を掠めた彼女は、僕の存在さえ透過するような、冷徹な『生徒会長』という装甲を完璧に纏い直していた。
それも、もう数時間前のことだ。
月島はどこにもいない。
卵たちも孵らない。
準備室には、僕と、孵卵器の無機質なモーター音だけが取り残されている。
準備室のドアノブが回り、軋んだ音と共にドアが開いた。
入ってきた月島レイナは、ただ「濡れている」というレベルではなかった。水底から引き揚げられたばかりのような、重たく、冷たい気配を纏っていた。
「……どうしたんだよ、それ」
言葉が、喉の奥でひしゃげた。
彼女の全身から、滴がしたたり落ちて、床に黒いシミを広げている。
傘を持っていなかったのか? いや、違う。
彼女が実験台の上にドサリと無造作に置いた鞄。そのサイドにあるメッシュポケットから、折りたたみ傘の持ち手が覗いていたからだ。
持っているのに、ささなかった。傘は乾いたまま、彼女だけが溺れていた。
「……ちょっとね」
彼女は力なく笑おうとした。だが、口角を持ち上げる筋肉すら麻痺しているようだった。笑顔は形を成さず、ただ雨水と一緒に溶け落ちた。
顔色が悪い。いつもの陶器のような白さではなく、血管の中を泥水が流れているような、生気のない土気色だ。
彼女はふらりと実験台の方へ歩き出すと、パイプ椅子に倒れ込むように座った。
ぐしょりと嫌な水音が鳴る。
スカートのプリーツから絞り出された水が、椅子の座面を濡らし、床へポタポタと落ちる。
「タオル……使うか? おれの使い古しだけど、ないよりマシだろ」
僕は努めて冷静さを装い、棚から乾いたタオルを取り出して投げ渡した。
「……ありがとう」
彼女はタオルを受け取った。でも、拭こうとはしなかった。ただ、タオルの中に顔を埋め、外界を遮断するように背中を丸めた。
震えている。小刻みに、しかし止まる気配のない振動。
準備室特有の、埃と薬品の匂い。彼女はそれを、酸素ボンベにしがみつく遭難者のように貪っていた。
数秒の沈黙の後、タオルの中からくぐもった声がした。
「ねえ」
「……ん?」
「ここで、制服脱いでいい?」
僕は息を詰まらせた。
「は……?」
思考が停止する。何を言われたのか理解するのに数秒かかった。
だが、彼女は僕の返事など待っていなかった。
「重いの。……鉛を着てるみたいに、重くて、気持ち悪い」
彼女はタオルを落とすと、濡れて指に張り付くブレザーのボタンを、引きちぎるような乱暴さで外した。
躊躇いはなかった。
バサッ。
水を吸って重くなった紺色のブレザーが、床に叩きつけられる。続けて、胸元のリボンも剥ぎ取られ、ゴミのように投げ捨てられた。
だが、彼女の手は止まらなかった。
「下も……重い」
彼女はうわ言のように呟くと、スカートのホックに手をかけた。
僕が止める暇も、目を逸らす猶予もなかった。
ファスナーが下りる乾いた音が、雨音の合間に響く。
彼女は濡れたスカートを、汚れた包帯を取り替えるような手つきで、足元へと滑り落とした。
水をたっぷりと吸ったウール地が、ドサリと鈍い音を立てて床にわだかまる。
その瞬間、僕の目の前で「月島レイナ」という偶像は完全に解体された。
床に転がる制服の残骸。それはまるで、機体の生存を優先するために強制排除された、重たい装甲パーツのようだった。そして、そこに立っていたのは――装甲を失った、あまりにも心許ない「中身」だけだった。
僕は、息を呑むことさえ忘れて見入ってしまった。そこに猥雑な感情が入り込む余地などなかった。ただ、圧倒的な「脆さ」が突き刺さってきたからだ。
雨水を限界まで吸い込んだブラウスは、もはや衣服としての機能を失っていた。それは半透明の薄い皮膜となって、彼女の上半身にぴたりと吸い付いていた。その下にある白いキャミソール、さらにその奥の下着のラインが、そして冷え切って粟立った素肌の質感が、残酷なほど鮮明に浮かび上がっている。呼吸をするたびに、薄いあばら骨が波打ち、張り付いた布を引きつらせる。
剥き出しになった両脚は、陶器のように白く、そして折れそうなほど細かった。膝が小刻みに震え、互いを叩き合っている。
普段、「完璧な女子高生」という塗装で隠されていた内部フレームが、これほどまでに華奢で、頼りないものだったとは。
それは「裸」を見るよりも、もっと深く、彼女の魂の形を直視してしまったような――見てはいけないほど痛々しい「剥離」だった。
露わになった姿を見て、僕は反射的に視線を逸らそうとし――そして、縫い留められたように動けなくなった。
「靴も、いらない」
彼女は呟くと、泥水の入ったローファーを乱暴に蹴り飛ばした。
ベチャッ、と黒い泥が床に飛び散る。靴下すら脱いだ彼女は、ふらりとパイプ椅子に上がると、そのまま膝を抱えて小さく丸まった。
その動作のせいで、濡れたブラウスの裾が大きくまくり上がった。当然、その下にある無防備な下着が、太腿の付け根と共に露わになる。
――!
僕は反射的に顔を背けた。視界の端に焼き付いたその白さを、脳内から必死に追い出す。
見てはいけない。
それは性的な意味ではなく、見てしまえば僕自身が共犯者になってしまうような、致命的なプライバシーの崩壊だったからだ。
だが、恐ろしいことに――彼女は隠そうともしなかった。
スカートを脱いだことも、下着が見えていることも、いまの彼女にはどうでもいいのだ。 羞恥心や体面といった「人間らしい感覚」さえも、雨と一緒に流れ落ちてしまったかのように。
小さく丸まった彼女は、まさに『ダンゴムシ』だった。必死に防御態勢を取っている。誰から? 何から? それは自分以外のすべてからなのだろう。
僕は彼女に背を向けたまま、作業台の上のビーカーを強く握りしめた。ガラスの冷たさで、動揺を抑え込む。
「……進路指導、だったんだろ」
僕は彼女を見ないようにして、どうにか声を絞り出した。
「何か言われたのか」
背後から衣擦れの音と、震える声が聞こえる。
「うん。……褒められた」
雨音に混じる、弱々しい声。
「『完璧だ』って。『君ならどこへでも行ける』って。先生も、親も、みんな期待してるって」
「……」
「窒息しそうだった」
「窒息?」
「褒められるたびに、口の中に綿を詰め込まれているみたいだった。……『ありがとう』って笑顔を作るたびに、首が絞まって、空気が入ってこなくなった」
彼女の言葉には、深い絶望が滲んでいた。
僕は想像する。「完璧な月島さん」であり続けるために、彼女がどれだけのものを飲み込み、どれだけの悲鳴を押し殺してきたのかを。
いま、背後で下着同然の姿で震えている彼女こそが、その代償なのだ。
「昇降口で、傘を握ったの。でも、開けなかった」
「……どうして」
「この傘をさしたら、私はまた『傷ひとつない月島レイナ』として、無菌室みたいな家に帰ることになる。明日も、明後日も、ずっと……」
彼女の声が、微かに上擦った。
「そう思ったら、吐き気がした。……だから、雨の中へ飛び出したの」
彼女は自嘲気味に笑った気配がした。
「冷たくて、痛くて、泥水が靴に入ってきて……そしたら、少しだけホッとした。汚れた私の方が、綺麗にラッピングされた私より、ずっとマシな気がして」
それは、静かな狂気の吐露だった。
自分を保つために、自分を汚す。彼女の精神は、それほどまでに摩耗していたのか。
僕は、もう背を向けていることに耐えられなくなった。彼女の痛みが、僕の背中を突き刺してくるからだ。
「そっちを向いていいか?」
「見たいの? いいよ」
意を決して振り返る。視線は、彼女の顔だけに固定するよう、必死に意識した。
だが、視界という情報を遮断することは不可能だった。
振り返った瞬間、網膜に焼き付いたのは、白さと、青さと、震えだった。
パイプ椅子の上で膝を抱え、小さく丸まった彼女。濡れたブラウスは肌と同化し、そこから伸びる四肢は、折れそうなほど頼りなかった。下着が見えているとか、肌が透けているとか、そんな感想は一瞬で吹き飛んだ。
そこにいたのは、ただひたすらに「寒い」場所に放り出された一個の生き物だった。
「……幻滅した?」
膝に顔を埋めたまま、彼女が上目遣いに僕を見た。その瞳は、壊れた硝子のように尖っていて、いまにも自分自身を傷つけそうだった。
「これが中身。綺麗に包装紙で包まれていた、月島レイナの正体」
彼女は濡れた指先で、自分の二の腕を強くひっかいた。赤い爪痕が、白い肌に浮かび上がる。
「濡れて、透けて、みっともない。……優等生の皮を剥いだら、ただの貧相な肉の塊」
「やめろ」
僕は思わず強い口調で言った。
彼女が自分自身を、まるで汚物か何かのように語るのが耐えられなかった。
「自分を……そんなふうに言うな」
「どうして? 本当のことじゃない」
彼女はふふ、と乾いた笑い声を漏らした。
「ねえ、佐藤くん。いまの私、すごく惨めでしょ? 可哀想でしょ?」
「……ああ」
僕は肯定した。嘘はつきたくなかった。
「見ていられないくらい、痛そうだ」
「よかった」
彼女は息をつくように言った。
「やっと、化けの皮が剥がれた」
彼女は抱えていた膝を少し緩めた。
防御姿勢が解かれ、無防備な体が重力に従ってぐたりと弛緩する。
「ずっと、怖かったの。誰も本当の私を見てくれないことが。みんなが見ているのは、私が必死に磨き上げた『塗装』だけだったから」
彼女の視線が、虚空を彷徨う。
「でも、いまは違う。……いまの私は、ただ寒くて、惨めで、震えているだけの生き物」
ガチガチと彼女の歯が鳴る音が聞こえた。
限界だったのだ。雨による冷却と、精神的な摩耗で、彼女の体温は奪われ尽くしていた。
「……寒い」
強がりが剥がれ落ち、幼い子供のような本音が漏れる。
「寒いよ、佐藤くん。……体が、動かない」
僕は、彼女に何をしてあげればいい? 抱きしめてあげればいいのか? でも、それは僕の独りよがりであって、彼女の望みではない。
その時、彼女の焦点が合わない瞳が、横にある光源を捉えた。
暗い準備室の中で唯一、暖かなオレンジ色を放つ箱。
「……あそこ」
彼女が呟く。
「あそこなら、温かいかな」
彼女は椅子から崩れ落ちるようにして床に膝をついた。
白い脚が、冷たい床のリノリウムに触れる。
彼女は這うようにして孵卵器へ近づくと、濡れたブラウス一枚の姿で、そのガラス面に頬を押し付けた。
ジィィ……という微かな機械の駆動音。濡れた頬と、温かいガラスが触れ合う。張り付いた布地越しに、彼女の弱りきった心臓の鼓動と、機械の正確な振動が重なる。
「人間の手は、冷たい嘘しかつかないけど……機械の熱は、正直だね」
彼女はガラス越しに、卵を見つめたまま動かなくなった。
冷え切った皮膚が、人工的な熱を必死に吸い取ろうとしている。
露わになった太腿も、透けた背中も、全てを晒して熱を求めている。
その姿は、あまりにも痛々しく、そして冒涜的なほどに艶めかしかった。
優等生の月島レイナは、もうどこにもいない。床に落ちた濡れた制服と共に死んだのだ。 そこにいるのは、殻を剥がされ、羊水のような雨に濡れ、外界の冷たさに晒された、ただの頼りない一個の生命体だった。
その時だ。
ピシッ。
静寂を引き裂くように、硬質で鋭い音が鳴った。
空耳かと思った。けれど、違った。
孵卵器のガラスに頬を押し付けていた彼女が、ビクッ、と小さく肩を跳ねさせたからだ。 彼女はガラスから離れようとはせず、むしろ確認するように、さらに強く頬を押し付けた。見開かれた瞳が、小刻みに揺れている。
「……叩いた」
彼女が、夢遊病者のように呟いた。
「え?」
「いま、中から……私を叩いた」
音だけではなかったのだ。
ガラスの向こう側にいる何かが、内側から硬い殻を突き破ろうとして、その衝撃がガラスを伝い、彼女の冷え切った頬骨を直接ノックしたのだ。
僕は慌てて彼女の背中越しに、孵卵器の中を覗き込んだ。
オレンジ色のランプに照らされた、三つの卵。 そのうちの一つ、一番小さな卵の表面に、蜘蛛の巣のような細かな亀裂が走っていた。
ピシッ、ミシッ。
再び音が鳴る。 今度は僕の目にもはっきりと見えた。白い石灰質の殻の一部が内側から押し上げられ、小さな破片となって弾け飛んだ。
「……あ」
彼女の口から、吐息のような声が漏れる。割れた殻の隙間から、黄色いクチバシの先端がわずかに覗いていた。
鋭く、小さく、懸命に。
それは、世界への出口をこじ開けようとする、圧倒的な「生」の暴力だった。
「……ボコが……生きてる」
彼女は頬をガラスから離すと、食い入るようにその小さな穴を見つめた。
濡れた前髪から雫が落ちても、気にする様子はない。下着姿であることも、寒さで震えていたことも忘れたかのように、彼女の全神経はその一点に注がれていた。
「すごい……」
彼女の蒼白だった顔に、僅かな赤みが差していく。
「こんなに狭くて、暗いところに閉じ込められて……それでも、出てこようとしてる」
彼女は無意識のうちに、自分の手をガラスに重ねていた。まるで、向こう側の命と掌を合わせようとするように。指先が白くなるほど強く、硝子に押し付ける。
「頑張れ……」
それは、自分自身に向けた言葉のようにも聞こえた。さっきまで「死にたい」とすら思わせるような絶望を吐露していた彼女が、いまは必死に「生まれてくること」を応援している。
その横顔は、雨に濡れたどんな姿よりも切実で美しかった。
僕はかける言葉を失っていた。ただ静かに、彼女と、その向こうにある小さな闘いを見守ることしかできなかった。
しかし――。
事態は、そう簡単に「感動」だけでは終わらなかった。
数分が経過した。
ピシッ、という音は断続的に続いている。だが、穴は一向に広がらない。クチバシの先端が見え隠れするだけで、そこから先の進展がぴたりと止まってしまったのだ。
時間が、あまりにも長く感じられた。
あれから十分、いや二十分は過ぎただろうか。
最初の勢いは完全に失われていた。
ピシッ、という小気味よい破壊音はもう聞こえない。代わりに聞こえるのは、カサッ、カサッ、という微かな擦過音だけ。
それも、徐々に間隔が長くなっている。
「……ねえ」
レイナの声が揺れた。
「ボコ、動かなくなっちゃった」
彼女の言う通りだった。小さな穴から突き出していたクチバシは、いまは半開きになったまま止まっている。パク、パク、と頼りなく開閉しているのが見て取れた。
呼吸をしているというよりは、溺れているように見える。
僕は眉をひそめ、顔を孵卵器に近づけた。目を細めて、穴の奥の状態を確認する。そして、最悪の推測が的中していることを悟った。
「……ダメだ」
思わず独り言が漏れた。
「え?」
「膜が、乾燥してる」
殻の内側にある薄い膜――卵殻膜だ。
本来なら湿り気を帯びて柔軟であるはずのそれが、白く濁り、紙のように強張ってしまっている。おそらく、割れた箇所から急激に水分が蒸発したことと、孵化に時間がかかりすぎたことが原因だ。
乾燥した膜は、強力な接着剤のように雛の羽毛に張り付く。こうなると、雛はもう中で回転することができない。
卵を割るための「卵歯」を殻に打ち付けることも、脚で踏ん張って殻を押し広げることも不可能になる。
「それって、どういうこと?」
レイナが僕を見る。その顔から血の気が引いていくのが分かった。
「このままだと、どうなるの?」
僕は残酷な事実を口にするのを躊躇った。だが、誤魔化せる状況ではなかった。
「……窒息する」
僕は短く告げた。
「殻が硬すぎる上に、膜が身体を締め付けてる。自力じゃもう出られない。……体力が尽きれば、そのまま殻の中で終わる」
パク、パク。
クチバシが動く。それは、外の空気を求めているようでいて、実際には急速に二酸化炭素濃度が高まる殻の中で、酸欠に喘いでいる姿だった。さっき彼女が口にした言葉そのものだった。
『口の中に綿を詰め込まれているみたい』
『首が絞まって、空気が入ってこなくなった』
目の前の小さな命は、いままさに、分厚いカルシウムの壁と乾燥した膜という「完璧な殻」に閉じ込められ、静かに殺されようとしていた。誰にも気づかれず、誰の手も届かない場所で。
その姿は、あまりにも目の前の少女と重なりすぎていた。
「……うそ」
レイナの喉から、空気の抜けたような音が漏れた。彼女の瞳孔が開き、恐怖に染まっていく。
「窒息するの? ここで? ……出ようとしてるのに?」
彼女はガタガタと震え出した。
それは寒さのせいではなかった。目の前で繰り返される「閉塞」の光景が、彼女自身のトラウマを鋭利な刃物でえぐったのだ。
「いやだ……」
彼女は孵卵器に爪を立てた。
「そんなの、いやだよ。……こんなに頑張ってるのに。ただ、息がしたいだけなのに」
彼女の呼吸もまた、浅く、早くなっていた。雛の苦しみが伝染している。
彼女の喉もまた、見えない綿で詰められ始めているのだ。
「助けて」
彼女が僕の方を向いた。その目には、涙が溢れていた。
「ねえ、佐藤くん。助けてあげて」
彼女は僕のカッターシャツの袖を掴んだ。冷たく濡れた手が、万力のような強さで僕の腕を締め付ける。
「佐藤くん、器用なんでしょ? プラモデル、作れるんでしょ? だったら、この殻だって割れるはずだよ」
「……無茶言うな」
僕は動揺を押し殺して首を振った。
「プラスチックと生体は違う。膜の下には血管が走ってるんだ。下手にいじれば出血多量で死ぬし、細菌が入れば感染症で死ぬ。リスクが高すぎる」
それは正論だった。そして、僕の逃げ口上でもあった。
命の選別なんてしたくない。失敗して、彼女の目の前で雛を殺してしまうのが怖かった。
だが、彼女は引かなかった。僕の腕を掴む指が、爪が食い込むほどに強くなる。
「でも、このままじゃ死んじゃう!」
彼女が叫んだ。その声は悲鳴に近かった。
「お願い……助けて。ボコをここから出してあげて……!」
彼女のボロボロと流す涙が、頬に張り付いた髪を伝って落ちる。半裸同然の姿で、恥も外聞もかなぐり捨てて、彼女はただ乞うていた。
――ここから出して。
――この息苦しい「完璧」の殻から、私を引きずり出して。
その悲痛な叫びは、明らかに卵のためだけのものではなかった。彼女のSOSが、僕の鼓膜を、そして肋骨の内側を直接震わせた。
もし、ここで僕が「できない」と言えば、この雛は死ぬだろう。そして、目の前の少女の中にある、わずかに残った「生きようとする力」も、二度と戻らない場所へ行ってしまう気がした。僕に、それを見殺しにする権利があるのか? 「部外者」の顔をして、安全な場所から見ているだけでいいのか?
……クソッ。
僕は奥歯を噛み締めた。相手は規格化されたプラスチックではない。予測不能で、柔らかく、温かく、そしてあまりにも壊れやすい「命」そのものだ。
失敗は許されない。それでも……。それでも!
「……お湯を沸かす」
僕は小さく息を吐き捨てると、彼女の手をほどき、決意を固めた。素早く立ち上がり、準備室の棚からビーカーを取り出す。
「それとアルコールランプを使う。器具の煮沸消毒がいるからな」
僕は努めて低い声で、自分自身に言い聞かせるように指示を出した。
「月島、おまえは温度計を見てろ。一時的に蓋を開けるから、温度が下がりすぎないように監視するんだ」
「……やるの?」
彼女が濡れた瞳で僕を見上げる。
「やるしかないだろ」
僕は通学カバンを引き寄せると、底から愛用の黒いツールケースを引っ張り出した。
ファスナーを開く。
デザインナイフ、ニッパー、ヤスリ――整然と並ぶ模型用工具の中から、デカール(シール)貼り付け用の精密ピンセットを取り出す。先が鋭く尖った、金属の爪。 それがいま、唯一のメスになる。
「おまえが、助けろって言ったんだからな」
彼女は袖口で乱暴に涙を拭うと、孵卵器の前にかじりついた。
大きく頷くその顔には、先ほどまでの死相のような絶望ではなく、微かな、しかし確かな「生気」が灯っていた。
僕たちは、再び共犯者になった。神様の真似事をするために。
そして、閉じ込められたすべての命を、この手でこじ開けるために。
僕はマッチを擦り、アルコールランプの芯に火を点けた。
ゆらり、と青白い炎が立ち上る。
三脚の上にビーカーをセットし、少量の水を注ぐ。
静まり返った準備室に、チリチリという微かな沸騰音が響き始めた。
「……これ、使って」
レイナが、生物準備室の奥から清潔なガーゼを見つけ出してきた。彼女の動きは、相変わらず弱々しい。けれど、その瞳だけは異様な輝きを帯びて、僕の手元を凝視している。
沸騰したお湯にピンセットの先を浸す。金属が熱を帯び、殺菌されていく。同時に、少し冷ましたお湯を別のビーカーに取り分け、脱脂綿を浸した。
「始めるぞ」
僕は短く告げると、孵卵器の透明な蓋を開けた。ムワッとした湿った熱気が漏れ出し、外気の冷たさと混じり合う。警告音が鳴る前に、僕は素早く、けれど慎重に、問題の卵を取り出した。
温かい。
掌に乗せた卵は、ホッカイロのように熱を放っていた。
そして、内側からはトクトクと、必死に壁を叩く振動が伝わってくる。
「あったかい……」
僕の隣で、レイナが呟いた。彼女の顔が、僕の肩に触れるほど近い。 雨に濡れた髪から、冷たい水の匂いがした。
彼女の体温の低さと、卵の熱さ。その対比が、僕の神経を極限まで研ぎ澄ませていく。
僕は卵を、お湯で絞った温かいガーゼの上に固定した。
ここからは時間との勝負だ。冷えれば雛は弱る。
「よく見ろ。膜が白くなってるだろ」
僕はピンセットの先で、割れ目の奥を指し示した。 乾燥して紙のようになった卵殻膜が、雛の動きを完全に封じている。
「これを、濡らして剥がす」
僕は脱脂綿でお湯を含ませ、乾燥した膜の上にそっと垂らした。ジュワッ、と膜が水分を吸い込む。
すると、白く濁っていた膜が、見る見るうちに半透明に透き通っていった。
その瞬間、血管が見えた。網の目のように張り巡らされた、赤い毛細血管。
ドクン、ドクンと脈打っている。
「ひっ……」
レイナが息を呑んだ。
そう、これはただの殻むきではない。まだ血液が循環している組織なのだ。一ミリでも手元が狂って太い血管を傷つければ、この小さな体など一瞬で出血多量に陥る。
(デカールを貼るより、繊細だ)
僕は呼吸を止めた。指先に全神経を集中させる。
プラモデルの極小パーツを扱う時のように、世界を指先数ミリの領域にまで圧縮する。
ピンセットの先端を、膜と雛の間に滑り込ませる。膜をつまむのではない。膜と雛の間の「隙間」を探るのだ。
雛の体温。湿り気。弾力。
すべてがピンセット越しに脳に流れ込んでくる。
僕は慎重に、膜の端をつまみ上げた。血管のない、安全なルートを見極める。ゆっくりと、本当にゆっくりと、外側へ引っ張る。
ミチチ……という、極小の繊維が切れる感触。
雛がビクッと身をよじった。
「痛い」と言われた気がして、僕の背筋が凍る。
「大丈夫……大丈夫だよ」
レイナが、祈るように囁いた。それは雛へ向けた励ましなのか、震えそうになる僕の指先への祈りなのか。
僕は汗ばむ手でピンセットを握り直した。
もう一度。
今度は、クチバシの周りを覆っている硬い殻を、ニッパーのようにパキリと折り取る。穴が広がる。乾燥した膜を、再びお湯で湿らせる。柔らかくなったところを、和紙を剥ぐように、少しずつ、丁寧にめくっていく。
永遠にも思える作業だった。
五分か、十分か。
僕の額から汗が滴り落ち、作業台に染みを作る。
そして、最後の一片――クチバシを押さえ込んでいた分厚い膜を、ピンセットで引き剥がした瞬間だった。
プハッ。
本当に、そんな音がした気がした。
束縛から解き放たれたクチバシが、大きく空気を吸い込むように開いたのだ。続いて、小さな頭が、自分の力でぐいっと殻の外へ押し出された。
濡れた羽毛。閉じたままの瞼。けれど、その首は確かに、外の世界の空気を求めて持ち上がっていた。
ピー……、ピー……。
弱々しい、けれど確かな声が、準備室に響いた。
「……あ」
レイナが、顔を覆った。
「啼いた……」
指の隙間から、新しい涙が溢れ出していた。さっきまでの絶望の涙ではない。圧倒的な「生」を目撃したことによる、感情の決壊だった。
僕の手の中で、雛が身じろぎをする。その小さな重みが、僕の手の中にズシリと響いた。
ただのタンパク質の塊じゃない。
これは、命だ。
僕が――僕たちが、いま、死の淵から引きずり戻した命だ。
僕は震える手で、雛をそっとガーゼで包み込むと、再び孵卵器の中へ戻した。温かい寝床に帰った雛は、安心したように目を閉じ、規則正しい呼吸を刻み始めた。
張り詰めていた糸が、プツリと切れた。僕は大きく息を吐き出すと、その場にへたり込んだ。膝が笑っていた。指先の震えが止まらない。
「……やった」
僕の声は掠れていた。
「生まれたぞ、月島」
レイナは答えなかった。
ただ、孵卵器のガラスに額を押し付け、生まれたばかりの命を食い入るように見つめている。
その横顔に「作り物の笑顔」は、もうはなかった。
髪は濡れそぼり、服は乱れている。以前、彼女が言っていた「言葉の化粧」はひび割れた。しかし、オレンジ色のランプに照らされたその表情は、僕がいままで見たどんな彼女よりも、鮮烈で人間らしかった。
「……うん」
彼女はようやく、絞り出すように答えた。
「……あったかいね」
それは孵卵器の熱のことなのか。それとも、彼女の中に灯った、別の熱のことなのか。 僕には分からなかった。けれど、聞く必要はない気がした。
外の雨音は、いつの間にか遠くなっていた。準備室の中には、機械の駆動音と二人の呼吸音、そして新しい命の寝息だけが満ちていた。
命の危機は去った。
それと同時に、僕たちの間を支配していた一種のトランス状態のような熱も、急速に冷めていった。アドレナリンが引いていくにつれ、麻痺していた感覚が戻ってくる。
生物準備室は静かだった。
僕のカッターシャツは、彼女に掴まれた袖口が少し湿っているだけで、乾いていて温かい。
だが、隣にいる彼女は違った。孵卵器の前で座り込んでいる彼女の肩が、ガチガチと小刻みに跳ねていることに気づく。
「……うぅ」
彼女が突然、身震いをした。憑き物が落ちたように、彼女の視線が雛から離れ、自分の手元へ、そして自分の体へと落ちる。
そこでようやく、彼女は現実に引き戻された。自分がいま、どんな姿で、乾いた服を着た男子生徒の前にいるのかを。
スカートは床に脱ぎ捨てられたまま。
泥だらけのローファーは転がったまま。
そして身に纏っているのは、雨水を吸って肌に完全に張り付き、下着の白色も、肌の質感も、あばら骨の浮き沈みさえも透かしてしまっている薄いブラウス一枚だけ。
さっきまでは「中身(生身)」を晒すことに自暴自棄になっていた。
そのあとは、雛を助けることに必死で、羞恥心など入る隙間もなかった。
けれど、いまは違う。
日常が、常識が、そして「乾いている僕」と「濡れている彼女」という圧倒的な対比が、彼女に突き刺さった。
「……見ないで」
彼女が呻くように言った。
さっきまでの、全てを放棄したような虚ろな声ではなかった。もっと人間的で、弱々しい、恥じらいを含んだ拒絶だった。
彼女は両腕を胸の前で交差させ、濡れたブラウスの上から自分を抱きしめるようにして、体を小さく丸めた。露わになった太腿を隠そうと、必死に脚を寄せる。
蒼白だった耳の先が、カッと朱色に染まっていくのが分かった。
その姿を見て、僕も弾かれたように視線を逸らした。
いまさらだった。散々見てしまった後だった。けれど、正気を取り戻した彼女を直視することは、手術中の患部を見るのとは訳が違った。
心臓が、嫌な音を立てて早鐘を打ち始める。僕たちはただの高校生に戻ってしまったのだ。
薄暗い準備室。僕だけが乾いているという罪悪感。そして、半裸同然の少女と、二人きり。
気まずい沈黙が、孵卵器の駆動音よりも大きく耳に圧しかかってきた。
僕は逃げるように彼女に背を向けると、開けっ放しになっていた通学カバンの大きなサイドポケットに手を突っ込んだ。体育のあと、不本意に押し込んだままにしていたジャージの化学繊維の感触がする。
よかった、入っていた。持ち帰ろうと思って放り込んでおいたやつだ。僕はそれを引っ張り出すと、丸まったまま振り返らずに、背後の彼女へ向かって差し出した。
「……これ、着ろ」
ぶっきらぼうな声になったのは、照れ隠しではなく、動揺を悟られないための精一杯の防御だった。
「一回着ちゃったものだし……サイズは合わないと思うけど、ないよりはマシだろ」
背後で、衣擦れの音がした。彼女が、震える手でそれを受け取った気配がする。
「……ありがとう」
蚊の鳴くような声。 続いて、ガサゴソという布の音と、ジッパーが上がる音が聞こえた。
ジーッ。その音は、彼女が最初にスカートのファスナーを下ろした時の、あの破滅的な音とは真逆の響きを持っていた。
自分を壊すための音ではなく、自分を守るための音。
「……もう、いいよ」
彼女の声色が、少しだけ落ち着きを取り戻していた。
僕はゆっくりと振り返る。
そこにいたのは、もう「剥き出しの肉塊」ではなかった。
僕の紺色のジャージ上下を着た彼女は、まるで借りてきた猫のように小さく見えた。男物のLサイズは、華奢な彼女にはあまりにも大きすぎた。袖は指先まで完全に隠れ、裾はお尻の下まですっぽりと覆っている。
濡れたブラウスも、透けた肌も、無防備な下着も、すべて分厚い化学繊維の下に隠された。
その姿を見て、僕は心の底から安堵した。
彼女が「人間」の形を取り戻したことに。
そして、僕の目のやり場が確保されたことに。
彼女は長い袖の先で、鼻をずず、と啜った。そして、襟元を両手で持ち上げると、鼻を埋めるようにして深く息を吸い込んだ。
「……佐藤くんの匂いがする」
彼女はポツリと言った。嫌味やからかいではなく、ただ事実を確認するようなトーンだった。
「おれって、匂いするの?」
「するよ。洗剤と……あと、接着剤みたいな匂い」
「……悪かったな」
僕は鼻を鳴らした。
「どうせおれは、シンナー臭い模型オタクですよ」
「ううん」
彼女は首を振った。ジャージの襟に顔を埋めたまま、くぐもった声で言う。
「……落ち着く匂い。……無菌室の匂いより、ずっといい」
彼女の肩から、震えが止まっていた。
僕のジャージは、彼女にとっての新しい「殻」になったようだった。完璧で硬いガラスの殻ではなく、不格好で、少し汗臭くて、でも確かに温かい、一時的な避難所。
彼女の白い頬に、少しずつ血色が戻ってくるのを、僕はただ黙って見ていた。
窓の外の雨音が、いつの間にか遠ざかっていた。激しい叩きつけから、穏やかなリズムへ。
嵐が過ぎ去ろうとしている。
「……そろそろ、行かないと」
僕が沈黙を破った。いつまでもここにいるわけにはいかない。もう下校時刻はとっくに過ぎている。
レイナは小さく頷くと、ジャージの袖をまくり上げ、床に散乱していた自分の制服を拾い集め始めた。水を吸って重くなったブレザー。泥のついたスカート。彼女はそれらを、僕が渡したスーパーのビニール袋へと無造作に押し込んだ。
クシャクシャと音を立てて袋詰めされるその様は、まるで事件の証拠隠滅か、あるいは脱ぎ捨てた「抜け殻」を処理しているようだった。
彼女は袋の口を固く結ぶと、それを大事そうに抱え、僕の方に向き直った。ブカブカのジャージを着た姿。乱れた髪。
それは学校中の誰も見たことのない、そして明日には誰も見ることのできない、月島レイナの姿だった。
「ねえ、佐藤くん」
彼女が真っ直ぐに僕を見た。その瞳には、もう狂気も怯えもなく、ある種の冷徹な覚悟のようなものが戻りつつあった。
「明日になったら、私はまた『完璧な月島レイナ』に戻るわ」
「……ああ、そうしてくれ」
僕は短く答えた。
「期待されてるんだろ。だったら、それに応えるのが生徒会長の務めだ」
「うん。……笑顔で挨拶して、模範解答をして、背筋を伸ばして歩く」
彼女はそう宣言すると、少しだけ寂しそうに眉を下げた。
「でも、嘘になるね」
「何が?」
「だって、本当の中身は……こんなにボロボロで、佐藤くんのジャージに包まれてないと立っていられないんだもの」
彼女はジャージの襟を両手でギュッと握りしめた。僕の匂いと温もりを、確かめるように。
「誰も知らないよ」
僕は淡々と言った。
「おまえの中身がどうなっているかなんて、誰も興味がないし、知ろうともしない。みんなが見ているのは、綺麗に塗装された外見だけだ」
それは残酷な事実だったが、いまの彼女には救いになる言葉だった。
見えないのなら隠し通せる。
「でも、佐藤くんは知ってる」
彼女が一歩、僕に近づいた。
「佐藤くんだけは、ひび割れた塗装の下の……中身を見た」
「……見た覚えはないな」
僕は視線を逸らして、とぼけた。
「おれはただ、孵化不全の卵を助けただけだ。それ以外は何も見てないし、何も聞いてない」
それが、僕なりの契約書へのサインだった。他言はしない。今日のことは墓場まで持っていく。その代わり、おまえはおまえの明日へ帰れ。
彼女は一瞬きょとんとして、それから、今日初めて、年相応の少女らしい柔らかな笑みを浮かべた。
「そっか」
彼女は悪戯っぽく囁いた。
「じゃあ、そういうことにしてあげる。……共犯者さん」
共犯者。
その響きは、奇妙な連帯感を持って僕たちの間に落ちた。
「行こう。先生に見つかると面倒だ」
僕はカバンを肩にかけ、準備室の扉を開けた。
廊下はひっそりと静まり返っている。
彼女は最後に一度だけ振り返り、オレンジ色の光を放つ孵卵器に視線を送った。
そこには、彼女が命がけで殻を割った、小さな命が眠っている。
「……おやすみ」
彼女は小さく手を振ると、僕の背中を追って廊下へ出た。
昇降口を出ると、空には雲の切れ間から、薄い月が見えていた。
雨上がりの空気は冷たい。けれど、僕の隣を歩く彼女の横顔には、もう悲壮な色はなかった。
僕の大きなジャージの中で、彼女は確かに呼吸をしていた。
明日になれば、彼女はこのジャージを脱ぎ、再び完璧な制服という「装甲」を纏うだろう。僕もまた、教室の隅の「背景」に戻るだろう。
交わるはずのなかった二つの世界。
けれど、僕たちは知っている。
あの冷たいプラスチックのような日常の裏側に、三七・五度の確かな熱があることを。そして、その熱を共有する「秘密」が、僕たちのポケットの中に隠されていることを。




