9 『共犯者の補給路』
9 『共犯者の補給路』
あの一件以来、世界のパーツの噛み合わせが微妙に変わったような気がしている。僕も月島も何も変わっていないはずなのに、どうにも居心地が悪い。
木曜日は一番苦手な曜日だ。週の半ばを過ぎた疲れと、あと一日頑張らなければならないという大きな義務があるからだ。
昼休みの喧騒の中、僕は教室の自分の席で、頬杖をつきながら廊下を眺めていた。いや、正確には「ぼんやり眺めているふり」をしていた。
視線の先には生徒会役員たちに囲まれた月島レイナがいる。
近々あるという生徒会主催のイベントについての打ち合わせだろうか。彼女はファイルボードを片手に、廊下の中心で立ち止まっていた。
「――ダメよ。その予算配分じゃ、演劇部の照明機材が確保できない」
開け放たれた教室のドア越しに、よく通る冷徹な声が聞こえてきた。
「昨年度のデータを参照してみて。模擬店の什器レンタル費を15%圧縮すれば捻出できるはず。……総務委員はすぐに再計算をお願い。広報委員はパンフレットの入稿期限を先生に確認してきてくれる?」
矢継ぎ早に飛ばされる指示。迷いも淀みも微塵もない。
周囲の役員たちは彼女の言葉に慌ただしく走り回っている。その中心に立つ彼女は、どこから見ても隙のない、完璧な表面処理を施されたPGUの完成品だった。
周囲の生徒たちは彼女を羨望の眼差しで見ている。「さすが会長」「かっこいい」という囁きが聞こえる。相変わらず、月島レイナは完璧だ。
だが、僕には見えていた。
彼女がファイルボードを握る左手――僕がこの前、二〇〇〇番のペーパーで磨き上げたはずのその指先が、血の気が引くほど白くなっている。そして、完璧な笑顔の裏で、小刻みに浅い呼吸を繰り返しているのだ。
彼女の指先が頬に触れた感触が、ふいにフラッシュバックして、僕は慌てて視線を逸らした。
あの『パテ盛りの前払い』のあと、茹でダコみたいに顔を真っ赤にして逃げ出した彼女が、平然としていられるはずがない。彼女はいま、必死に内側から崩れそうになる自分を、精神力という名の分厚いクリアコートで覆い隠して、無理なポージングを維持しているだけなのだ。
(……無理するなよな)
頬が熱い。僕も昨日の出来事を忘れられていないようだ。
僕は小さく息を吐き、視線を窓の外へ逃がした。
空は重い灰色に覆われている。気圧が下がってきているのだろう。
嵐は近づいていた。
放課後。
生物準備室の扉が開くと同時に、重たい空気が流れ込んできた。
入ってきた月島レイナは、僕の顔を見るなり、その場で崩れ落ちるように扉に背中を預けた。
「……んぅー……」
彼女は肺の中の空気をすべて入れ替えるように、長く、深い溜息を吐き出した。
それは、戦闘機が着陸後に装甲を開く音に似ていた。
「お疲れ。オーバーヒート寸前だったな」
僕がニッパーを置くと、彼女はとろんとした瞳でこちらを見た。
「……見てたの?」
「遠目にな。放熱が追いついてない感じだった」
「あはは……。バレてるかあ」
彼女は力なく笑うと、いつものパイプ椅子まで足を引きずり、ドサリと座り込んだ。そこでようやく、彼女の身体から「生徒会長」という重い外装パーツがパージされる。
準備室には、ホルマリンと古い紙の匂い、そして微かなラッカー塗料の匂いが漂っている。一般生徒なら顔をしかめるようなこの空間が、いまの彼女にとっては唯一呼吸ができるエアポケットなのだ。
「……お腹、空いた」
彼女がぽつりと呟く。
「燃費悪いな。昼飯はちゃんと食べたんだろ?」
「食べたよ。スタミナA定食。それも完食」
「よく食えたな。あれだけのボリュームを」
わが校の学食名物・スタミナ定食A。略して「スタA」。それは食欲旺盛な高校生(特に運動部)の為の特別大盛り定食だ。噂によると一食で1000kcalを越えるらしい。
「まあ、あれだけ脳味噌フル回転させてりゃ当然か」
僕は呆れたふりをして、パンパンになっている通学カバンのサイドポケットに手を突っ込んだ。体育で着たジャージが入れっぱなしになっていることを月島に知られたら、何と言われるだろう。
ガサガサと音を立てて取り出したのは、いつもの駄菓子屋で補充しておいた、コンビニでもお馴染みの駄菓子だ。
「ほらよ」
僕はそれを彼女の膝の上に放り投げた。黄色いパッケージ。チキン味の、細かく砕かれた揚げ麺スナック――『ベビースターラーメン』だ。
「……なにこれ?」
彼女は異星の遺物を手にしたように、パッケージをしげしげと見つめた。
これには少しこだわりがある。いまのベビースターは白地にホシオくんだが、僕の行きつけの駄菓子屋『アオキ』は、ベビちゃんの黄色いパッケージを仕入れる独自のルートに拘っているのだ。
「燃料だ。活動限界が近づいてる時は、マカロンよりこういうジャンクな塩分と糖質の方が効率がいい」
「へえ……」
彼女は興味深そうにパッケージの端をつまみ、慎重に開封した。そして、袋の中に細い指を突っ込み、パラパラとした麺のかけらを数本つまみ出すと、上品に口へと運んだ。
ポリ、ポリ。
「……美味しい」
彼女の目が丸くなる。
「味が濃くて、なんだか悪いことしてる気分」
「そりゃあ、庶民の背徳の味だからな」
だが、次の瞬間、彼女は困ったように眉を下げた。
「でもこれ、食べにくいね。指が汚れちゃうし、ポロポロ落ちる」
見れば、彼女のスカートの上に麺のかけらが散らばっている。
昼間、あんなに的確に全校生徒へ指示を出していた人間と同一人物とは思えない不器用さだ。
やれやれ。
「食べ方が違うんだよ、お嬢様」
「え?」
「貸してみろ」
僕は彼女の手から袋を取り上げると、袋の上から軽く揉んで中身をさらに細かく砕いた。そして袋の口を大きく広げ、自分の口元へ持っていく動作をして見せる。
「こうやって、袋から直接流し込むんだ。上を向いて、重力を利用しろ」
「ええっ……そんな、お行儀悪い」
「ここでは行儀なんて関係ない。効率優先だ」
僕は袋を彼女に返した。月島は躊躇いながらも、意を決したように天井を仰いだ。白い喉元が露わになる。
彼女は袋の口を小さな唇に当て、サラサラとスナックを流し込んだ。
「んぐっ、……んっ」
ハムスターが餌を頬張るような動きで口を動かす。
飲み込んでから、彼女は「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「……すごい。一気に味がする」
「だろ?」
月島は、少しだけ少女のような無邪気な顔で笑った。その姿に、僕は言いようのない安堵を覚える。ここでの彼女は、少なくとも「出荷待ちの完成品」ではない。
彼女が不器用にお菓子を頬張る間、僕は再びガンプラに向き合った。ふと、月島が自分の左手の人差し指をじっと見つめているのに気づく。あの日、僕がやすりで磨き上げた爪だ。
彼女は何かを言おうとして、指先を隠すように軽く握り込み、視線を落とした。あの日、僕の頬に触れた後の、あの刺すような気まずさと、熱を帯びた沈黙が再び部屋に満ちる。
以前なら、僕は「艶が落ちたのか」と聞き、再びメンテナンスを申し出たかもしれない。けれど、いまはその数センチの距離が、僕自身の制御システムのコントロールを狂わせる劇薬であることを知っている。
そして何より、いまの彼女は、かつてのように無防備に手を差し出してはこない。その指先を、どこか恥じらうように、あるいは大切に守るように、僕の視線から隠しているように見えた。
彼女はお菓子のごみを丁寧に片づけてから、椅子から立ち上がった。
帰るのかと思ったが、違った。
彼女は部屋の隅にある孵卵器の前へ歩み寄ると、しゃがみ込んで、そのガラス面にそっと手を触れた。
オレンジ色のランプに照らされた三つの卵。
ソース、ユーフォ―、そしてボコ。
「……みんな、元気?」
彼女は、まるで揺り籠の中の赤ん坊に話しかける母親のような、柔らかい声を出した。
「ここは温かいね。……外は寒いけど、ここは大丈夫だよ」
ガラス越しに彼女の視線が優しく卵たちを撫でる。
「ソース、ユーフォ―、ボコ……。みんな、頑張って。ママとパパは待ってるよ」
彼女は祈るように呟いた。
「……」
「早く出ておいで。……この殻の外に」
その言葉は卵たちに向けられたものでありながら、同時に彼女自身に向けられた祈りのようにも聞こえた。分厚くて硬い殻。そこから出たいと願いながらも、出ることを恐れている自分自身への。
僕は何も言わずに、その背中を見つめていた。
彼女の細い肩が、オレンジ色の光の中で微かに震えているように見えた。
窓の外の雨音が強くなり始めていた。
「明日は……もっと雨が激しくなるらしいよ」
彼女の言葉に、僕のニッパーを持つ手が止まった。
「そうか。……進路相談の日だな」
一瞬、空気が止まった。孵卵器のガラスに触れていた月島の指先が、ピクリと強張る。
準備室の空気が、急激に冷えたような気がした。
「……そうね」
彼女は孵卵器から離れて、窓の外の泣いている灰色の空を見上げた。
「お母さんが、私の行く大学も、その先の進路も、全部決める日。私がどうしたいかなんて、きっと聞かれない。ただ、頷くだけ……」
その淡々とした口調に、僕は胸の奥がざわついた。
「……希望は、出せないのか」
「希望?」
彼女は不思議そうに僕を見た。
「そんなもの、最初からないよ。お母さんが求める点数を取って、お母さんが描いた通りに進学する。……私にあるのは、それだけだもの」
彼女は寂しげに笑った。
その姿は、自分自身を「仕様書通りに出荷されるだけのパーツ」だと諦めきっているように見えた。顧客が満足する性能が出せるかどうか、それだけが彼女の存在意義なのだと。
何か言わなければと思った。でも、何を口にしたらいいのか、わからなかった。
言葉を探して息を吸い込む。
古い紙の匂いに混じって、さっき食べたジャンキーなスナックの塩気が微かに喉の奥をかすめた。
無邪気だった時間が嘘のように遠く感じる。
窓ガラスを叩く雨の音が、やけに冷たく鼓膜に響いた。
背後では、孵卵器がジィィ……と低いモーター音を立てながら、37.5℃のオレンジ色の熱を放ち続けている。
しかし、そこから少しだけ離れて灰色の空を見つめる彼女の白い横顔には、その温もりが全く届いていないように見えた。
奇妙な静寂の中、雨だれと機械の駆動音だけが、どうしようもない無力感と共に時間を削り取っていく。
やがて、彼女は目を瞑り、深呼吸を一つした。
目を開けた時にそこに立っていたのは、もう「ただの月島レイナ」ではなかった。
背筋を伸ばし、口角を上げ、完璧な表面処理を施された「生徒会長」の顔が、再び彼女を覆い隠した。
「また明日ね」
彼女は完璧な笑顔を残して、準備室を出て行った。
バタン、と扉が閉まる。
部屋にはジャンキーな駄菓子の匂いと、シトラスの香りだけが残された。
僕は椅子に座ったまま、彼女がさっきまで見つめていた孵卵器に目を向けた。
三つの卵は、身じろぎもせず静かに眠っている。
デジタル表示は37.5℃。
命を育むための適温。だが、このガラス一枚隔てた外側には、冷たい現実が待っている。
明日、彼女が向かう場所は、きっとこの温度よりもずっと冷たく、無機質な場所なのだろう。そして、この卵たちも――いつまでも殻の中に留まることは許されない。
ピシッ。
窓ガラスが風で鳴った。
嵐は、もうそこまで来ていた。




