噂に急がない三針
「婚礼が延期されるそうです」
翌朝、工房へ来た衣装係は、扉を閉めるより先にそう告げた。
昨夜から職人通りを巡っている噂は、もう王宮の控え室にまで入り込んでいた。延期されるのなら仕上げを遅らせてもよい。いや、延期は新工房の遅れを隠すためのものだから、今すぐ完成品を出させるべきだ――同じ噂から、正反対の話が生まれているという。
七人の視線が、裁ち台へ集まった。
今日取りかかるのは、誓礼で王太子妃の前へ進み、儀礼の品を高く掲げる方の上着一着だ。予定では、明日の夕刻に完成させる。
「王宮から、正式な日程変更のお知らせはありましたか」
「いいえ。何も変わっておりません」
「では、納期も変えません」
私は用意していた仮布を広げた。
「噂が外れたときのために今日中に仕上げてほしい、と言われたら?」
見習いの一人が不安そうに尋ねる。
「今日中に縫えば、着る方に動いていただく時間を削ることになります。それは納期を早めるのではなく、必要な仕事を抜くだけです」
遅くする理由も、急ぐ理由もない。予定どおり、着る人の身体に合わせ、必要な順で仕上げればよい。
間もなく、上着を着用する女性が工房へ来た。私はまず、儀礼の最中にどのような動きをするのか尋ねた。
「胸の高さで品を受け取り、そのまま両腕を頭上まで上げます。しばらく掲げたあと、右へ向いて王太子妃殿下へお渡しします」
「では、その三つを仮布で試していただけますか。苦しいところがあれば、すぐに腕を下ろしてください」
「分かりました」
仮の上着をまとっていただき、前を留める。
静かに立った姿だけなら、どこにも歪みは見えなかった。だが両腕が胸の高さを越えると、右の襟が指一本分浮き、首元へ寄った。さらに頭上まで上げると、身頃まで引かれて裾が持ち上がる。
私は肩へ手を置く前に、触れてよいかを尋ねた。
「お願いします」
許しを得て、肩先を指でなぞる。右肩は左よりわずかに前へ動く。左右を同じ形に裁てば、右の襟だけが浮く身体の使い方だった。
けれど、肩幅の数字を変えるだけでは足りない。
私は右肩の仮縫いをほどき、布を手のひらへ載せた。縦へ素直に落ちる方向と、斜めへ引いたときに戻ろうとする方向を指先で読む。布目を肩の動きへ逆らわせれば、増やしたゆとりまで襟を引く力に変わってしまう。
「もう一度、胸の高さまでお願いいたします」
腕が上がったところで、肩の頂点に一針。
布目が首へ流れず、背へ落ちる位置に二針目。
頭上まで上げたときに必要な動作のゆとりを残して、三針目。
三本の糸は近くに並んでいても、留めているものはそれぞれ違う。肩の位置、布の向き、動くための余白。そのどれか一つだけを合わせても、着る人の動きにはついていけない。
「腕を下ろしてから、もう一度上げてください」
女性はゆっくり腕を下ろし、胸の前で品を受け取る動きをした。それから、頭上まで掲げる。
今度は右襟が首から離れなかった。裾も持ち上がらず、呼吸に合わせて胸元だけが静かに動いている。
右を向き、腕を前へ下ろしてもらう。背中の布が引かれず、襟の左右も揃ったままだった。
「首元が軽くなりました」
女性は腕を下ろし、自分で右襟へ触れた。
「先ほどは、上げている間ずっと襟に押されていました。これなら、品を落とさずに殿下へ向けます」
その言葉を聞いてから、私は三針の位置を職人たちへ示した。
新しい職人が襟ぐりの曲線を縫い、三人が肩、袖、脇を受け持つ。見習い二人には、表布と見返しの布目がずれないよう、裁ち台の上で重ねてもらった。私は右肩だけに残す動作分を本布へ移し、左右を取り違えない順で裁つ。
公爵が工房へ来たのは、一枚目の袖が身頃へ付いた頃だった。
「婚礼延期の噂は聞きました」
その一言に、針を持つ手がいくつか止まりかけた。
けれど公爵は、今日中に仕上げろとも、噂を打ち消すために完成品を見せろとも言わなかった。
「この上着は、いつ完成しますか」
私の返事を待っている。
裁ち台には、まだ縫い合わせていない右袖がある。着用者には完成後、もう一度三つの動作を試していただく。今から急いでも、その確認を省けば完成とは呼べない。
「明日の夕刻です。当初の予定から変えません」
「分かりました。では、明日の夕刻まで待ちます」
公爵はそれ以上、工程へ口を挟まなかった。
権力のある人が待つと言えば、ただ放置するのとは違う。噂より私の判断を選び、その判断が形になる時刻まで急かさないということだ。
「もし、王宮から本当に日程変更が届いた場合は?」
「そのときは、改めてあなたへ尋ねます。今の返事を、私の都合で変えるつもりはありません」
「ありがとうございます」
短い言葉だったが、胸の奥へゆっくり温かさが広がった。
私の腕だけではなく、いつ完成と決める判断まで信じてもらえたのだ。
同じ頃、旧工房では、延期の噂を聞いた客へ別の話をしていたという。
婚礼が延びるから他の工房は手を緩める。侯爵家工房なら、その隙に礼装八着を当初より三日早く仕上げられる――セルジュはそう請け負い、返されたばかりの採寸席まで使って布を広げさせた。
だが、残っているのは経験の浅い三人だった。八着のうち二着は仮縫いの日になっても片袖しか付かず、一着は急いで縫った襟が左右でずれていた。
噂が事実かどうかではない。正式な確認もせず、できない日をできると答えたことを、客は見ていた。
午後、布を届けに来た商人が旧工房の前を通ると、入口脇に並んでいた衣装架から礼装が次々と外されていたそうだ。
依頼主の従者たちは、八枚の注文札を受付へ返した。札に通されていた紐が卓上でほどかれ、一枚ずつ依頼主の印が消されていく。
最後の一着を包んだ運搬布が持ち出されると、衣装架には横木だけが残った。
礼装八着、すべて解約。
セルジュが呼び止めても、従者たちは戻らなかった。完成しない品を待つ者も、襟のずれた品へ身体を預ける者もいなかったのだ。
私はその話を聞いても、旧工房の残った布や片袖を引き受けようとは思わなかった。こちらには、予定どおり完成させる一着がある。
翌日の夕刻、上着は最後の針まで仕上がった。
着用者は胸の高さで儀礼の品を受け取り、両腕を頭上へ上げた。肩頂点から袖へ布が素直についていき、右襟は肌から浮かない。
その姿勢のまま右へ向き、品を差し出す。裾は上がらず、首元にも皺は寄らなかった。
「苦しくありません」
女性は微笑み、もう一度、ためらいなく腕を上げた。
予定どおりの時刻に、予定していた動作をすべて通る一着が完成した。
公爵は約束したとおり、夕刻まで待っていた。
「あなたの判断を待ってよかった」
「待っていただけたから、必要な確認を一つも削らずに済みました」
「次も、まず完成時刻をあなたに尋ねます」
命令ではなく、次の仕事にも選ぶ余地を残す約束だった。私は素直に頷いた。
そのとき、王宮の使いが細長い包みを持って入ってきた。
「エレノア・リース殿の見本として、侯爵家工房から届けられました」
包みの紐には、私の名を書いた札が結ばれていた。
私は受け取る前に、使いへ包みを置いてもらい、誰が届けたのかを確かめた。
「ミレーヌ様です。婚礼用のベール留めとともに確認してほしい、と」
運搬布を開くと、小さな上着の見本が現れた。
一見しただけなら、襟の曲線は整っている。けれど袖へ指を入れ、腕を上げる向きへ動かすと、右襟だけが大きく浮いた。肩頂点は後ろへずれ、表布と見返しの布目も合っていない。先に襟を固め、そのあとで無理に肩を合わせた縫い方だった。
私の三針は、どこにもない。
それでも名札には、はっきりと私の名がある。
「直しますか」
見習いが針箱へ手を伸ばしかけた。
「いいえ。今は一針も触れません」
直せば、右襟が浮いていた事実も、どの順に縫われたかも消えてしまう。
私は使いに、届いたときから紐と札に触れていないことを確かめてもらった。包み、名札、見本を同じ裁ち台の上へ置き、職人たちにも現状を見てもらう。
「王宮の衣装係と着用者の許可をいただき、皆の前で確認します。解く必要があるなら、その許可を得てからです」
公爵は私の代わりに偽物だと断じなかった。
「どのように確かめますか」
「同じ動作をして、右襟の浮きを見ていただきます。そのうえで、針を入れた順と布目を確かめます」
私は歪んだ見本の隣に、まだ何も縫っていない試し布を置いた。
「そして、正しい順でベール留めを作ります。私の名ではなく、針目と着る人の動きで、どちらが事実か選んでいただきます」




