第八章 獣の慟哭、理不尽な牙
分身の太一は、荒野を彷徨っていた。
喉の渇きと空腹、そして何より、自分の身に起きた不可解な暴力への恐怖が彼を苛んでいた。
「なんで…なんで俺、あんなこと…」
自分の手が勝手に動いた感覚。
あの一瞬で人を殺めた感覚。
胃の底から込み上げる吐き気が何度も彼を襲う。
ゲームの中なら、敵はモブだ。
倒しても数字が跳ねるだけだ。
だが、現実の死は生々しい。
血の匂い、肉が焼ける臭気、断末魔。
それらが彼のノイズだらけの脳内にリフレインする。
夕暮れが迫る頃、
彼は森の入り口に辿り着いた。
薄暗い木漏れ日の中、何かの気配を感じて足を止める。
唸り声。
先日遭遇した魔獣より遥かに凶悪な、底冷えするような咆哮。
森の奥から、巨大な影が現れた。
漆黒の毛並みに覆われた、
馬ほどの大きさのある狼型の魔獣。
その赤い双眸が、太一を捉える。
「う、うわぁっ…!」
太一は無様に後ずさりした。
腰が抜けて立ち上がれない。
魔獣が飛びかかってくる。
先日の魔獣とは比べ物にならない速度。
(死ぬ!)
その恐怖が、再び彼の体のスイッチを入れた。
「あ、あぁぁぁっ!」
無意識に両手を前に突き出す。
制御されていない魔力が暴走し、
無数の雷撃が散弾のように放たれる。
バリバリバリッ!!
雷は魔獣を掠めたが、直撃はしない。
しかし、その衝撃だけで近くの木々が爆砕し、
土煙が舞い上がる。
魔獣は一瞬怯んだが、すぐに体勢を立て直し、
再び殺意を孕んだ瞳で太一を睨む。
雷に焼かれた毛皮から煙を上げながらも、
その凶暴性は衰えていない。
(効いてない…? いや、俺の狙いが甘いんだ…)
太一の心は恐怖で白濁していた。
剣聖級の身体能力と大魔導の魔力があるのに、
それを使いこなせない。
ただの暴発。照準の壊れた砲台のようなものだ。
魔獣が再び地を蹴る。
「嫌だ! 来るな! 離れろぉッ!」
彼が叫びながら適当に振り回した手から、
今度は灼熱の火炎が噴出した。
それは森の木々を薙ぎ倒し、
魔獣の進路を遮る火の壁となる。
魔獣は火を嫌い、鋭く方向転換して横から回り込もうとする。
だが、太一はもうパニック状態だった。
目の前の炎を見て、
「火だ! 焼ける!」
と自らの魔法に怯え、
無意味に手足をバタつかせて後退する。
その足元が朽ちた根に引っかかり、ドスンと尻餅をつく。
百二十キロの巨体は、一度倒れると自分では起き上がれない。太一は亀のように手足を空掻きした。
「あぁ…あぁ…」
目の前に迫る魔獣の影。開かれた口から滴る涎。
(ああ、これってバグだよ。理不尽だよ…)
ゲームなら攻略法がある。敵の行動パターンがある。だが、この世界にはマニュアルがない。自分の力さえも制御不能なノイズでしかない。
絶望が彼を飲み込もうとした、その時。
「そこを動くなッ!」
鋭い少女の声が響いた。




