第五十八章 凍てつく絶望、歪める理
窓の外の夜景を眺めながら、
ルシアはアレクシスの胸に頬を寄せたまま、
静かに語り出した。
「…かつて、私はこの王国を愛していました。
騎士として、
この国の理と秩序を守ることに誇りを持っていました。
けれど、それは幻でした」
彼女の声には、深い悲しみと、それが変質した冷ややかな怒りが混じっていた。
「王都の貴族たちは、
身分という法則を利用して私腹を肥やすことしか考えていない。
弱者は搾取され、
亜人は家畜として扱われる。
それはこの国の『理』が、腐敗した者たちによって都合よく解釈され、歪められているから。
私はその歪みを正したかった。
剣という力で。
けれど、剣では貴族たちの書き換えた悪法を断てない。
私は無力でした」
ルシアは自身の手を見つめた。
かつて剣を握っていたその手は、
今はアレクシスの服の裾を握りしめている。
「だからこそ、あなたに出会った時、
救われたのです。力だけでは駄目なのです。
理を変えなければ。
この国の法則そのものを、書き換えなければ」
アレクシスは静かに頷き、彼女の銀髪を優しく撫でた。
「その通りだ、ルシア。お前の絶望は、理解できる。
この世界は病んでいる。
だが、病根は貴族たちの腐敗だけではない。
この世界を構成している『理』そのものが、不完全なのだ」
彼は窓から離れ、
部屋の中央に置かれた古代王朝の遺物――回収した黒い石板の欠片に手を触れた。
石板は鈍い光を放ち、周囲の空間に微かな歪みを生じさせる。
「力は法則(理)に従って働き、法則は力によって定量的に証明される。これは異界の、かつて私が学んだ真理だ」
アレクシスは静かに、しかし説教するように語った。
その言葉は、
この世界の魔術師たちが唱える暧昧な理論とは異なり、
冷徹なまでに論理的だった。
「つまり、法則が定まっていなければ力は正しく働かず、
逆に力がなければ法則は単なる仮説に過ぎない。
この世界の魔術師たちは法則を語りながら、
それを証明する力を持たない。
貴族たちは権力という力を持ちながら、
それを導く法則を腐敗させている。どちらも片手落ちだ」
アレクシスは石板から手を離し、
ルシアに向き直った。
その瞳には、狂気にも似た確信が宿っていた。
「だが、私は違う。私は異界の『理』を知り、
そしてそれを行使する『力』を持っている。
私がこの世界に来たのは、偶然ではない。
この不完全な世界に、完全な理を刻むためだ」
「完全な…理…」
ルシアは息を呑んだ。
「そうだ。私が作る帝国は、
力と理が完全に一致する場所だ。
力は理に従い、理は力によって証明される。
そこでは腐敗も矛盾も生まれない。
私の定めた法則が全てを支配し、
私の力がその法則を永遠に証明し続ける」
アレクシスはルシアに近づき、
その冷たい手で彼女の頬を包み込んだ。
「だが、そのためには既存の理を歪め、
塗り替えなければならない。
この世界の法則を、私の理で上書きする。
そのために『理の遺産』が必要なのだ。
あの遺産は、
この世界の法則を書き換えるためのペンのようなものだ」
彼は微かに笑った。
それは慈悲深き聖者の笑みでもあり、
全てを飲み込む深淵の笑みでもあった。
「力で理を歪める。お前はそれを傲慢だと思うか、
ルシア?」
ルシアは首を横に振った。
彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。
「いいえ。傲慢なのは、
自らの都合で理を曲げ、
弱者を踏みつける者たちです。
あなたが理を正し、新たな秩序を築く。
それは救済です。
私は…あなたの力となり、
その理を証明するために生きたい」
「良い答えだ」
アレクシスは満足げに頷き、
彼女の唇に再び口づけを落とした。
「お前は私の妃となり、新しき帝国の氷の女王となる。共に、この腐った世界を凍らせ、新たな理で覆い尽くそう」
二人の影が、月明かりの下で一つに重なる。
偽りの勇者と、絶望した女王。
彼らの紡ぐ理は、
この世界の法則を根底から書き換え、
全てを彼らの望む形へとねじ曲げようとしていた。
それは救済か、それとも破滅か。
答えを知る者は、まだ誰もいない。




