第五十五章(続き)理の玉座への願い
ティアが去った後も、玉座の間に静寂は戻らなかった。彼女が残した微かな体温と言葉が、冷え切った空間に不可逆なノイズをもたらしてしまったからだ。
数時間後、再び重い扉が開く。
入ってきたのはゾルグと、そしてティアだった。
だが、今の彼女の姿は先ほどとは異なっていた。
ボロ布の服ではなく、城の配下が着る制服を仕立て直したような、白と黒のメイド服だった。サイズは少し大きく、小柄な体には余っているが、その裾はきちんと整えられている。
そして彼女の手には、銀の盆が載せられていた。湯気を立てるポットとカップ。
「何のつもりだ」
太一が問うと、ティアは深く一礼した。
「我が王。先ほどはお礼を申し上げるだけで失礼いたしました。改めて申し上げます」
彼女は顔を上げ、真っ直ぐに太一を見た。
「あたしを、あなた様のメイドとしてお使いくださいませ」
太一の眼球が驚愕に見開かれる。
「メイド……だと?」
「はい。あたしは、自分の意志であなた様に仕えたいのです。あなた様があたしを救ってくださったから。
それに……」
彼女は一瞬言葉を切り、視線を落とした。
「……あなた様は、とても寂しそうだからです」
その言葉は、太一の胸に矢のように突き刺さった。
「寂しい? 俺が? 俺は理の絶対者だ。孤独こそが最適化された状態だ」
彼は反論した。だが、その声には力がなかった。
「嘘です」ティアが言った。
「あたしを救ってくださった時のあなた様の声は、
とても優しかった。
でも、この部屋に座っているあなた様は、
ただ独りで冷たい場所にいるだけです」
彼女は盆を持ったまま、一歩踏み出した。
「あたしにできるのは、お茶を淹れることくらいです。
でも、あなた様がもう一人きりにならないように……
おそばにいさせてくださいませ」
ゾルグが慌てて口を挟んだ。
「ティア様! おやめください!
やはりメイドなどとは……王の威厳に関わります!」
ティアはゾルグを振り返った。
「ゾルグ様、一人で座っていることが威厳なのですか?
誰も近づけないことが威厳なのですか?
それは……ただ寂しいだけです!」
彼女の言葉に、ゾルグは絶句した。
ティアは再び太一に向き直った。
「お願いです、あたしの目を見てください。
あなた様のそのお姿も、
何もかも……あたしは受け入れますから」
太一は動けなかった。
拒絶すべきだった。この醜悪な肉塊を、
幼い少女に見せるなど彼女の純潔を汚すようなものだ。
だが、彼の奥底で、抑えきれない渇望が叫んでいた。
(誰か、俺を見てくれ。この姿でも、俺として見てくれ)
ティアは階段を登り、玉座のすぐ横まで来た。
そして、盆を肘掛けに置くと、
震える手でポットからお茶を注いだ。
琥珀色の液体がカップに満ちていく。
香りが玉座の間に広がった。それは草花の香りだった。
「どうぞ」
彼女はカップを両手で持ち、太一に差し出した。
太一は恐る恐る指を伸ばした。
かつて人間だった頃の面影はない、
ごつごつした岩のような指。
この指でカップを持てば、すぐに砕けてしまうのではないか。
カップに触れる。
温かい。
ティアは目を逸らさなかった。
彼の醜い指を、ただ静かに見つめている。
嫌悪の色は微塵もない。
太一はカップを持ち上げた。
神経を極限まで集中させ、割らぬように。
そして、ゆっくりと口元へ運んだ。
一口、啜る。
温かさが喉を通り、胃に落ちた。
「…悪くない」
彼は呟いた。
それはただのお茶だった。
魔法のかかった秘薬でも、
高級な茶葉でもない。
ただの、淹れたてのお茶。
だが、その温かさは、彼が遥か昔に忘れた
「誰かが自分のために用意してくれたもの」の味がした。
ティアは、花が綻ぶように微笑んだ。
「ありがとうございます」
自分の淹れた茶を「悪くない」と言われただけ。
それだけで、彼女は心から嬉しそうだった。
太一はカップを置き、彼女を見た。
「毎日、淹れるのか」
「はい。朝も、昼も、晩も。
あたしはあなた様のメイドですから」
彼女の声は、
玉座の間の冷たい空気を切り裂き、光を差し込んだ。
太一はしばらく沈黙し、それから諦めたように、
しかしどこか安堵したように息を吐いた。
「好きにしろ」
その言葉を聞いて、ティアは嬉しそうに跳ねた。
「はい! ありがとうございます、ご主人様!」
ゾルグは頭を抱えていた。
だが、その老いた目には、
微かな希望の光が宿っていた。
三年間、誰一人として近づけなかった主の傍に、
初めて理を超えたノイズが生まれたのだ。
こうして、理の王国に「メイド」という
小さなノイズが住み着いた。
それは、孤独に凍えていた怪物が、
この世界で初めて「温もり」に触れた瞬間だった。




