第五十五章 理の玉座への願い
論理都市の最深部。
冷たい幾何学模様が浮かぶ玉座の間で、
太一は玉座と同化した肉体の違和感に耐えていた。
彼の意識は常に分身とリーネに向いていたが、
同時に城の内側の管理も怠りなく行っていた。
保護された亜人たちは、城の居住区で穏やかな日々を送っている。それは彼が設計した「最適化された平穏」だった。
その時、玉座の間への扉を叩く音が響いた。
コンコン、と遠慮がちな音。
「…誰だ」
太一の声は、壁を震わせるような重低音となって響く。
「我が王。ゾルグにてございます」
扉の向こうから、リザードマンの老族長の声がした。
「入れ」
重厚な扉が音もなく開く。
入ってきたのは、深い緑色のローブを纏ったゾルグだった。そして、その背後には小さな影が隠れるように立っていた。
エルフの少女だ。
王都の屋敷で檻に閉じ込められていた少女。
彼女は玉座の間の異様な光景に、
息を呑んで立ち尽くしていた。
天井は見えないほど高く、
壁には魔力の脈管が複雑な数式のように這い回り、
玉座には肉と金属と石が融合した巨人が鎮座している。
それが異形の孤王の姿だった。
少女の体が震え出す。
「無理もない」
太一は機械的な声で言った。
「子供がここにいていい場所ではない。下がれ」
「あ、あの…!」
少女が震える声で叫んだ。
「あの…待ってください!」
ゾルグが驚いて少女を制止しようとするが、
彼女はローブの裾を振り払い、一歩前に出た。
「お礼を…言いたかっただけなんです!」
太一の巨大な眼球が、ゆっくりと少女を捉えた。
「お礼?」
「はい。あの時、助けてくれたのはあなたですよね?
声が聞こえたんです。『恐れるな』って。
その声が…あたしをここへ連れてきてくれたんです」
少女の瞳には、恐怖の奥に強い光があった。
「あたしはティアっていいます。あなたのおかげで、お母さんやみんなとまた会えました。だから…直接、お礼が言いたくて」
太一は沈黙した。
彼はこれまで、配下たちから畏怖と服従を受けてきた。
それは「理」による支配だ。
感情はノイズであり、排除すべきものだと思っていた。
だが、この少女は「感謝」という感情を持って、
この異形の前に立っている。
「…ゾルグ」
「は、はい」
「なぜ彼女をここへ連れてきた」
ゾルグは深く頭を下げた。
「申し訳ございません。ティア様がどうしてもと…。
この老いぼれも、主の御心を忖度するに、
断るべきではないと判断いたしました」
「俺の御心だと?」
「はい。王は近年、変わりつつあります。
かつてはただ冷徹な数式のみを司っておられた。
しかし今、この城には温かい食事と休息があります。
それは王の御心の変化に他なりません。
ティア様の感謝を受け止めるのは、
今の王にこそふさわしいかと」
太一は呆れたように鼻を鳴らした。
だが、その内面では激しい動揺が起きていた。
(俺は…変わっているのか?)
彼は自分の肉を見た。
醜悪な肉塊。誰が見ても魔王の様だ。
だが、少女は逃げない。
「ティアといったな」
「はい!」
「近くに寄れ」
ティアは恐る恐る玉座の階段を登り始めた。
一歩、また一歩。
近づくにつれ、太一の姿のグロテスクさが際立つ。
だが、ティアは止まらなかった。
彼女は玉座のすぐ下まで来ると、
スカートの裾を摘み、優雅にお辞儀をした。
「ありがとうございました。あなたはあたしの命の恩人です」
その言葉は、太一の硬い殻にひびを入れた。
理屈ではない。計算でもない。
ただの、純粋な「情」だった。
太一は、自分の肥大した指の一本を動かした。
その指は、もはや人間の指の形を留めていなかったが、ゆっくりとティアの頭に触れた。
触れた瞬間、太一の脳裏に、
温かい何かが流れ込んできた。
それは彼が忘れていた感覚。
他者に触れること、他者に感謝されること。
「…行け」
彼は指を離した。
「もういい。下がれ」
ティアは不思議そうに太一を見上げたが、
彼の声に先程までのような冷たさがないことに気づいた。
「はい。お大事に…お兄様」
彼女は無意識にそう呼び、ペコリと頭を下げてから、
ゾルグと共に退室した。




