第四十三章 残留する残響、問い掛けと安堵
宿屋の小さな窓から差し込む朝の光が、埃の粒子を白く照らしていた。
太一はベッドの端に腰掛け、自分の手を見つめていた。
先日の事をあらためて思い返す、あの絶体絶命の瞬間に脳裏に響いた声。
『俺に任せろ』
『お前は前を向け。背中は俺が預かる』
それは明らかに自分の声だった。
だが、自分の意志から発せられたものではない。
もっと深く、もっと遠く、まるで巨大な演算装置の深淵から響いてくるような、重く、静かな声だった。
(…何だったんだ、ありゃ)
太一は握りこぶしを作り、また開いた。
掌には汗が滲んでいる。
記憶喪失の彼にとって、自分自身の正体は最大の謎だ。
そしてその謎の核心に触れるような「あの声」は、同時に彼を恐れさせた。
(俺の中に…もう一人の俺がいるのか?)
(それとも、俺は誰かに操作されているのか?)
思考は泥沼にはまり込んでいく。
あの声が聞こえた瞬間、亜人たちが空間に溶けるように消えた現象。
あれは自分の魔法か?
空間転移など、彼の知る自分の能力の枠を超えていた。
不安が胸を締め付ける。
自分は一体何者なのか。
制御不能な暴力衝動を持つ異邦人。
異界の理に近い魔力。
そして、自分の中に潛むもう一人の自分。
(もし、またあの声が聞こえたら…俺は俺でいられるのか?)
太一の呼吸が荒くなる。
パニックが迫ってくる感覚。
その時だった。
「タイチ?」
ベッドの反対側で、リーネが体を起こした。
包帯で巻かれた肩を押さえながら、けれどその目は真っ直ぐに太一を見ていた。
「どうしたんだ? また変な夢でも見たのか?」
「いや…なんでもない」
太一は慌てて首を振った。
「ちょっと、考え事を」
リーネはふーん、と鼻を鳴らすと、よろよろと立ち上がり、太一の隣に腰を下ろした。
肩が触れ合う距離。
彼女の体温と、薬草の匂いが太一の鼻をくすぐる。
「なぁ、タイチ」
リーネは天井を見上げながら言った。
「あたしはよ、あいつらを助けられたのはお前のおかげだと思ってるぜ」
「え?」
「お前があの水槽と檻をぶち破った。お前があいつらを逃がした。あたしはルシアとデカい剣を振り回してただけだ」
太一は首を振った。
「俺一人じゃできなかった。お前がルシアを引きつけてくれたから…」
「いいや」
リーネは太一の肩を小突いた。
「お前が決断したからだ。あたしが飛び出した時、お前は止めた。でも、最後は一緒に戦ってくれた。それが大事なんだよ」
彼女は太一の顔を覗き込んだ。
「お前は強いよ、タイチ。魔術もすげぇし、頭もいい。でも一番すげぇのは、決断できるってことだ。迷っても、ビビっても、最後には動く。それがお前の強さだ」
太一はリーネの瞳を見た。
そこには疑いも、計算もなく、ただ信頼の光だけがあった。
「お前があそこで何を聞いたのか、何を見たのか、あたしは知らねぇ。でもな、お前があそこで正しいことをしたってことだけは、誰よりも信じるぞ」
その言葉は、太一の胸の奥に沁みた。
冷たい不安の泥沼の中に、一筋の光が差し込んだような感覚。
(…あの声が何であれ、俺は俺の意志で動いた)
(亜人たちを救いたのは、他ならぬ俺だ)
(リーネと共に戦ったのも、俺だ)
太一は自分の手を握りしめた。
まだ震えている。けれど、その震えは恐怖だけではない。
手応えのような、安堵のような、温かな震えだ。
「ありがとう、リーネ」
「へへっ、礼には及ばねぇよ。
それより腹減ったな! 飯行くぞ!」
リーネは立ち上がり、太一の手を引いた。
その手は小さくて、
傷だらけで、
でも確かな温もりを持っていた。
太一は立ち上がった。
謎はまだ解けていない。
自分の中の「もう一人」が何者かもわからない。
だが、今はここに、自分を信じてくれる相棒がいる。
自分が正しいことをしたという結果がある。
それだけで、今は十分だった。
窓の外では、王都の朝が始まっていた。
喧騒と希望と、少しの不安が入り混じった、生きた街の音。
太一は深く息を吸い、一歩を踏み出した。
(俺は、厚地太一。記憶喪失の旅人)
(でも、ただの旅人じゃない)
(俺には…やるべきことがある。守るべき者がいる)
その確信だけが、彼の背中を押していた。




