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まだ知らなかった距離  作者: 遠井エイト
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第5章 パート1 — 長くなった会話

長くなった会話 — ユキ



階下のリビングにあった、テレビの音に似たざわめきは、少しずつページをめくる音に置き換わっていった。


家にテレビがあるわけではなかった。


それでも静けさは、層を変えるように移っていった。


食洗機の水音は、もう二十分近く前に止まっていた。父の足音が一度、階下の廊下を横切り、そのあと台所の流しの近くで動く、もっと柔らかなリズムに落ち着いた。少しして、母の声がかすかに漂ってきた。床板の向こうで、あたたかく、輪郭のはっきりしない声だった。


今はもう、二階はほとんど静かになっていた。


ユキは机に向かって座っていた。現代文のワークは、デスクライトの黄みがかった白い光の下で開かれている。その横には数枚のメモが丁寧に広げられ、机の端に合わせてまっすぐそろえられていた。


外では、夜遅くの風が網戸を軽くなでていた。


同じ段落を二度読み返してから、ユキは何も頭に入っていないことに気づいた。


内容が難しかったからではない。


ただ、注意の一部がまた別の場所に残っていた。


廊下の向こう。


その考えは、もう自然に浮かぶようになっていて、ユキはすぐには反応しなくなっていた。数日前の進路面談の告知以来、集中がときどき、普段のことの周りで妙に分かれてしまうことがあった。


電車の時間。


アパートの話。


大学のパンフレット。


廊下の静けさ。


そういう考えがずっと続くわけではなかった。短く現れて、それからいつもの流れの下に溶けていく。けれどそのあと、いつものこと自体が、前ほどすんなりとは収まらなくなっていた。


ユキはシャープペンを下ろし、椅子の背に少し体を預けた。


廊下の外は静かなままだった。


普段ならこの時間、カイトはもう自分の部屋で勉強している。受験まではまだ、ほとんどの生徒がそこまで本気で始めるほど近いわけではないのに。


数日前なら、そんな順序に注意を払うことはなかった。


今は、ふとした拍子に気づいてしまう。


感情としてではない。


どちらかといえば、形として。


ずっと背景にあって気づかなかった曲の中の音を、急に意識するようになるのに似ていた。


半分開いていたドアを、軽く叩く音がした。


「ユキ?」


ユキはすぐに顔を上げた。「ん?」


カイトは戸口に立っていた。数学のノートを一冊、腕の下に軽く挟んでいる。家で勉強するときのいつものように、袖は手首より少し上まで押し上げられていた。


「二問目の証明について、サクライ先生が言ってたこと覚えてる?」


「図形のやつ?」


「ああ」


ユキは、授業のノートを重ねてある本棚の方へ少し体を向けた。「ちょっと待って」


立ち上がって部屋を横切り、該当するノートを抜き出した。振り返る頃には、カイトはほんの少しだけ部屋の中へ足を進めていた。自分でそうしたことに気づいていないようだった。


完全に部屋に入ったと言えるほどではない。ただ、通りがかりに寄った人のようには、もう見えないくらいだった。


「長さの比較より、錯角の条件の方が大事だったって」ユキは数ページめくりながら言った。「また飛ばしたの?」


「たぶん」


「兄さん、図が分かりやすいと、いつも条件を飛ばすよね」


「図はだいたい分かりやすい」


「その理屈、テストが存在するまでしか通用しないよ」


ユキがノートを差し出すと、カイトはそれを受け取った。紙の端越しに、二人の指が短く触れた。


普通の接触。


珍しいことではない。


それでもユキは、そこを意識してしまった。


触れたことそのものではない。


そのあとに続いた時間だった。


カイトはすぐ廊下へ戻らず、そこに立ったまま彼女のノートを読み続けていた。


普段なら、こういう会話はすぐ終わる。情報を渡す。課題を確認する。それぞれの部屋へ戻る。


けれど彼は残っていた。


話さずに。


特に変なことをしているわけでもない。


ただ、戸口にこぼれる机の明かりの下で、ページを丁寧に読んでいた。


ユキはゆっくりと机に座り直した。


彼の後ろの廊下は、部屋の中のあたたかい光に比べると薄暗かった。階段の方から伸びる影が、彼の足元の床板にかすかにかかっていた。


数秒して、カイトがノートから顔を上げた。


「前と整理の仕方が違う」


「先生が授業中に、別々の公式をまとめて使ってたから」


「あとでまた分けたのか?」


「復習しやすいから」


カイトは一度うなずいた。


それから、まだそこにいた。


ユキはもう一度シャープペンを持った。


注意の端に、妙な意識が少しずつ形を作っていった。


彼が部屋にいるからではない。


カイトが宿題のことで寄ることは、前からときどきあった。ユキが彼に聞くこともある。


けれど普通は、そういうやり取りにはもっとはっきりした動きがついていた。


来る。


聞く。


答える。


出ていく。


今夜は、そのタイミングがどこか曖昧だった。


カイトはノートのページをゆっくり一枚めくった。「現代文、もう終わった?」


「だいたい」


「いつもより早く始めたな」


「夕飯のとき、集中できなかったから」


答えは、ちゃんと考える前に口から出ていた。


カイトがこちらを見た。


鋭くではない。


ただ、そのあとの間に気づくには十分だった。


「疲れてる?」彼が聞いた。


「たぶん」


また普通の答え。


また普通の問い。


それでも、そのやり取りのどこかが少しだけ合っていないように感じられた。


居心地が悪い、というほどではない。


ただ……必要以上に目についた。


カイトはまたノートへ目を落とした。「最近、ぼんやりしてること多い」


その言葉は静かに届いた。


事実を言うだけの調子だった。


責めるようではなかった。


ユキは机の上の開いたワークへ目を落とした。「そう?」


「少し」


外で、また風が網戸をなでた。


階下のどこかで、棚が閉まった。


ユキは何も書かないまま、シャープペンの先をページの余白に軽く沿わせた。


「……ごめん」


「最近、それも多い。謝ることじゃないのに」


それは本当だった。


今まで、自分がどれくらいそうしていたのか気づいていなかった。


ユキはワークの横に置いた一枚の紙を少し直し、角をまたそろえた。「大丈夫」


カイトはすぐには答えなかった。


普通なら、その一言で会話は終わっていた。


けれど彼は手にしたノートへ目を落としたまま、話を続けるかどうか考えているようだった。


「全部すぐに答えを出そうとしなくてもいいだろ」と、やがて彼は言った。


ユキの指が止まった。


その言葉の下で、進路面談の告知がほとんど自動的に浮かび上がった。


大学。


住む場所。


将来のこと。


今週の初めから残っている、解けない圧のようなものが、肋骨の奥でかすかに動いた。


前より強いわけではない。


ただ、近かった。


「分かってる」と彼女は静かに答えた。


カイトは一度うなずいた。


それでも、まだ出ていかなかった。


ユキはまた、二人のあいだの距離を意識した。


遠くはない。


戸口から机まで、数歩分しかない。


けれど彼がはっきりした理由もなくそこにいるせいで、その空間そのものが、いつになく輪郭を持ち始めていた。


デスクライトの光は、彼が立っている場所で袖を不均等に照らしていた。片側は明るく、もう片側は少しずつ廊下の影へ薄れていく。


部屋には、紙と洗剤の匂いがかすかにしていた。


二人のあいだの沈黙のどこかで、ユキは、カイトがたぶん数分前にもう最初の用件を終えていたのだと気づいた。


その気づきは静かに来たので、危うく見過ごしそうだった。


彼は、長く残っていた。


大げさにではない。


ほかの人が見ても、何とも思わないくらい。


けれど必要より長い。


そしてなぜか最近は、そのことに気づきやすくなっていた。


その考えがはっきり根を下ろす前に、ユキはまたワークへ目を落とした。


「兄さんは?」少しして彼女は聞いた。


「昼休み、また大学のパンフレット見てたでしょ」


「ん」


「もう進路指導室よりパンフレット持ってるんじゃない?」


「新しいのを渡されるから」


「全部集めてるように見えるの、兄さんだけだけど」


カイトは鼻から小さく息を抜いた。ほとんど笑ったような音だった。


その音は、静かな部屋の中に妙に残った。


ユキはまた、時間が遅いことを意識した。


二階の廊下。


静けさ。


カイトが、もう廊下の向こうへ戻っているのではなく、戸口の内側に立っていること。


数日前なら、たぶんそのどれにも意味をつけなかった。


今は、そういう細部に何度も注意が引っかかった。


結論ではない。


ただの観察。


何年も同じ足音を聞いてきたあとで、歩くリズムの小さな変化に気づくみたいに。


カイトはようやくノートを閉じた。


「それ、持っていっていいよ」とユキは自然に言った。


「式の立て方だけ見たかった」


「どうせまた忘れるでしょ」


「ありえる」


それでも彼はノートを返した。


二人の指が、もう一度触れた。


また、普通だった。


また、意識に残った。


ユキは慎重にノートを受け取り、ワークの横に置いた。


カイトは机の上の時計へ一度目を向けた。「また読みながら寝るぞ」


「あれは一回だけ」


「二回」


「二回目はほとんど数に入らない」


「本によだれ垂らしてた」


ユキは机の上のワークへ目を落とした。「……少しだけだし」


今度は、彼の笑いが少しだけはっきりした。


小さく。


短く。


けれどユキが自然に彼を見るには十分だった。


一秒ほど、どちらも何も言わなかった。


それからカイトは少し重心を移し、ようやく廊下の方へ一歩下がった。


「父さんがまたお湯を使い切る前に、シャワー浴びてくる」


「それ、お風呂で寝落ちして出しっぱなしにしたときだけでしょ」


「賭けたくない」


彼が向きを変えると、廊下の床が足元で小さくきしんだ。


ユキは、彼の袖の端が戸口の向こうへ消えていくのを見ていた。


それから二階は、また静かになった。


完全な静けさではない。


階下の水道管が、壁の中でかすかに鳴っていた。風がもう一度、窓を軽くなでた。


いつもの音。


いつもの夜。


それでも、彼が出ていったあとの部屋は、かすかに変わって感じられた。


空っぽになった、というのとは違う。


そういう言葉ではなかった。


彼がいるあいだだけ、静けさの形が少し変わっていて、そのあともユキの注意が完全には元に戻らなかった、という方が近かった。


ユキはページをめくらないまま、開いた現代文のワークを見下ろしていた。もう勉強する気にはなれなかった。


最近、彼は長く残っている。


それとも、今になってユキが気づいているだけなのか。


その考えは、曖昧なままそこに浮かんでいた。


どちらの可能性の方が落ち着かないのか、まだ分からなかったから。

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