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まだ知らなかった距離  作者: 遠井エイト
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第3章 パート1 — 進路

進路 — ユキ



玄関のドアは、外の雨に音をやわらげられながら、二人の後ろで静かに閉まった。


カイトは床へ上がる前に、長い傘を玄関脇に置いた。傘の端から水が細く滑り落ち、タイルの上に線を作った。ユキは自分の小さな傘をもう少し丁寧に畳み、布を一度押さえてから、留め紐を巻いた。


「おかえり」台所から母の声がした。


「ただいま」カイトが答えた。


煮込んでいるだしの匂いが、玄関までかすかに届いていた。醤油ベースの何か。たぶん生姜も入っている。ユキは靴を脱ぎ、何も考えずにカイトの靴の隣へそろえた。どちらもつま先がドアの方を向いている。


父はまだ帰っていなかった。玄関に父の靴はない。


ユキはカイトについて二階へ上がり、自分の部屋に鞄を置いてから部屋着に着替えた。下に戻るころには、もう台所の動く音が聞こえていた。


大きな音ではない。聞き慣れた音だった。


引き出しが開く音。まな板が調理台の上で少しずれる音。水の流れる音。


カイトは流しのそばで、濃い色のシャツの袖をまくっていた。母はコンロの近くで食材を並べている。


「もう晩ご飯始めてるの?」ユキが聞いた。


「今日はお父さん、少し早く帰ってくるの」母はコンロの方から言った。「いつもの時間まで待ってたら、ご飯ができる前に帰ってきちゃいそうだから」


「兄さんもすぐ手伝い始めたしね」ユキが言った。


母は鍋をかき混ぜながら、顔を上げずに笑った。「それはたぶん、お腹が空いてるってことね」


「さっきおやつ買ってあげたのに?」ユキは不満そうに聞いた。


「純粋に手伝おうと思ったとは考えないのか」


ユキは野菜を調理台に置いた。「兄さんの善意って、晩ご飯の時間にいちばんよく出てくる気がする」


ユキはまず冷蔵庫へ向かった。そう頼まれたからではない。ただ、コンロの近くはもうカイトと母で埋まっていたからだった。誰かが口にする前に、小さな野菜の容器を取り出した。


カイトが体を完全には向けないまま、後ろへ手を伸ばした。「包丁」


ユキは柄を向けて渡した。


「ありがと」


そのやり取りは自然に済み、母は手を止めなかった。


雨が台所の窓を軽く叩いていた。まだ強く聞こえるほどではない。ただ、途切れずに降っている。


母がもう一枚、皿を調理台に置いた。「ユキ、カイトに調味料を渡してくれる?」


「小さい方の瓶?」


「その隣」


カイトがちらっとこちらを見た。「今の、曖昧だろ」


「瓶は二本しかないでしょ」


「それでも間違う方は残る」


ユキは結局、正しい方を取って彼に渡した。「見ればよかったのに」


「切ってた」


「文句を言うためにはこっち見たよね」


「その方が早かった」


ユキは、彼が先に確認することもなくフライパンに調味料を量って入れるのを見た。「また覚えたの?」


「毎回同じ量だから」


「つまらなそう」


「安定してるってことだろ」


そのあとは、会話はいくつかの小さな話へ流れていった。父が雨の渋滞で遅くなること。近くのスーパーの特売。アイコがまた上履きを忘れて、職員室のスリッパを借りることになったらしい話。


一つの話題に、長くはとどまらなかった。


夕食そのものは、いつも通りに進んだ。


食事ができあがる少し前に父が帰ってきた。全員でテーブルを囲んで食べた。カイトは頼まれなくても、空になった水のグラスに水を足した。ユキは、誰かが遠くまで手を伸ばさなくていいように、料理をテーブルの向こうへ回した。


父が何気なく聞いた。「進路の用紙、もう配られたのか?」


カイトが一度うなずいた。「昨日」


「それで?」


「まだ最初の確認みたいなもの」


父はユキの方も見た。「もう考えていることはあるのか?」


「少しは」ユキは答えた。


「どんな?」


ユキは少しだけ間を置いてから答えた。「カウンセリングの仕事とか。心理学とか」


母が少し意外そうな顔をした。「そうなの?」


ユキは箸の持ち方を少し直した。「たぶん」


「向いてると思うよ」父が言った。「昔から、人のことをよく分かっていたし」


「それは合ってる気がする」カイトが言った。


「ユキは気づきすぎるところがある」


「それ、褒めてるの? けなしてるの?」


「好きな方でいい」


母は小さく笑いながら、もう一つの皿をテーブルの中央に寄せた。「あなたたち、本当に話すことが尽きないわね」


「カイトは工学だったか?」父が聞いた。


カイトはうなずいた。「たぶん」


「ユキの答えよりは決まっている感じだな」


「しばらく前から分かってた」


そのあとの会話は、また小さな話題へ移っていった。雨の渋滞。食料品の値段。父の同僚が、家にテレビがないのに何度も勧めてくるテレビ番組の話。


それでも、心理学という言葉は、思っていたより長くユキの頭に残った。


はっきり決めているからではなかった。


口に出したことで、紙に書いたときより少し具体的になってしまったからだった。会話はまた別の方へ流れていった。


それから、工学という言葉も頭に残った。


意外ではなかった。けれど、具体的に聞こえた。


もう家の外のどこかに存在しているようなくらい、確かなものに思えた。


その夜、食器を洗い、風呂も終えたあと、ユキは二階の自分の机に座っていた。椅子の横では、鞄が開いたままになっている。


雨は止んでいた。


部屋の窓は外をほとんど映さず、かすかな明かりだけを彼女の方へ返していた。ガラスの向こうの住宅街は、暗い形と街灯の薄い色に平たく沈んで見えた。


ユキは明日の持ち物を一度確認し、全部あると分かってからもう一度確認した。


数学のノート。


現代文の教科書。


進路希望調査の用紙。


その用紙は、ほかのものより長く視界に残った。


卒業後の大まかな目標。


その下に書いた一行は、学校で見たときよりも今夜は小さく見えた。


心理学やカウンセリングに関わる仕事。


それは、現実にならずに済むくらいには曖昧だった。


開いているドア枠を軽く叩く音がした。


カイトがマグカップを二つ持って立っていた。


「下に忘れてた」


彼は一つを差し出した。温かいミルクティーだった。


ユキは慎重にマグカップを受け取った。


「ありがとう、兄さん」


「ん」


彼はすぐには行かなかった。視線が一瞬、机の上で開いたままの用紙へ動いた。


「まだそれやってるのか?」


「別に」


「授業中、同じ行をしばらく見てた」


「気づいてたの?」


「ページをめくってなかった」


「根拠としては弱くない?」


「十分だった」


ユキはマグカップに手を添えた。「兄さんは、工学ってすぐ決めたよね」


「前から分かってた」


「どうして?」


カイトは一度、ドア枠の横にもたれた。「面白そうだから」


その答えは、あまり多くを説明していないはずだった。けれど、どこか分かる気もした。


ユキはまた用紙へ視線を落とした。


「あとで、思ったほど面白くなかったら?」


「遅すぎる前なら変えればいい」


「簡単みたいに言うね」


「たぶん簡単じゃない」


「じゃあ、なんでそういう言い方するの?」


カイトは少し考えてから答えた。


「早くから心配しても、あまり役に立たないから」


ユキはもう一秒ほど彼を見てから、また目を下ろした。


彼はまだそこに立っていた。


何か特定のものを待っているわけではない。ただ、そこにいた。


少しして、カイトはドア枠から体を離した。「あまり遅くまで起きてるなよ」


「起きないよ」


彼は出ていった。


廊下はまた静かになった。


ユキは空いたままの戸口を数秒見つめ、それからようやく進路希望調査の用紙を閉じ、ノートの下へ滑り込ませた。

________________________________________

翌朝は、あまりにも早く来た。


ユキは寝つくまでにいつもより時間がかかった。そのせいで、朝起きたときの体はいつもより重かった。


それでも、いつもの流れは普通に進んだ。家族で朝食を食べる。玄関で靴を履く。昨日の雨がもう遠くなったように見える晴れた空の下、学校へ向かって歩く。


最初は、あまり話さなかった。


歩道では、制服と鞄のいくつもの集まりが二人とすれ違い、自転車のタイヤがでこぼこの舗道の上でかちかちと鳴った。


学校までの道の途中で、ユキは聞いた。「大学で、県外に出たいと思う?」


カイトは少しだけ彼女を見た。「なんで?」


「聞いただけ」


「ほかの場所にもっといい学部があるなら、たぶん」


答えは早かった。


雑ではない。ただ、現実のこととして言っているだけだった。


ユキは鞄の肩紐を持つ手に、少し力を入れ直した。「そんなに遠くへ引っ越すの?」


「その方がいい機会があるなら」


いい機会。


その言葉が、変なふうに残った。


「ユキは?」カイトが聞いた。


「まだ分からない」


歩行者信号が変わり、生徒たちが二人の前を横切っていった。


少ししてから、カイトが続けた。「心理学なら、近くにもいい大学はあるだろ」


「工学だってあるよ」


「たぶん」


たぶんは、確実とは違っていた。


次の一区画では、どちらも話さなかった。


学校では、ホームルームが正式に始まる前の教室の空気が、いつもより少し緩かった。


進路希望調査の用紙を、まだ机の上に一部見えるように置いている生徒が何人もいた。窓際では、誰かが公務員は安定しているけれど退屈そうだと言い合っていた。別の生徒は、安定していることがそもそもの目的だと言っていた。


サトシは、何度も注意されているのに、また椅子を後ろに傾けていた。


「あの用紙さ、正直『一生未定』って書かせてくれればいいのに」彼が言った。


「それは進路希望じゃないよ」アイコが返した。


「正直ではある」


「何にでもそれ言うよね」


サトシはカイトの方を指した。「ほら。こいつなら安定って分かるだろ」


カイトはもうノートを取り出していた。「未定は安定してるようには聞こえない」


「どの道にも進めるってことだよ」サトシは言った。


アイコはユキの方を見た。「昨日のあと、もう少し決まった?」


「そうでもない」


「それ聞くと少し安心する」


「また消したの?」


「二回」


「決められなかったら、進路の先生たちが助けてくれるかもよ」


「私もそういう進路調査を受けたいくらい」


そのあとの教室の音は、普通の動きと会話に混ざっていった。紙。鞄。椅子が床を軽くこする音。


ベルの数分前に、サクライ先生が入ってきた。


教室は少しずつ落ち着いた。


先生は教卓にフォルダーを置き、眼鏡を一度直してから話し始めた。


「授業を始める前に、進路面談の日程について連絡があります。三年生としての準備の一環として、来週から個別面談を始めます」


何人かの生徒が少し姿勢を正した。


「面談では、卒業後の進路、大学への出願、就職の希望、高校卒業後の住まいなどについて話します」


高校卒業後の住まい。


その言葉だけが、ほかより長く残った。


周りのクラスは普通に反応していた。


窓際の誰かが、親がもう大学のパンフレットを送ってくるようになったと小声で言った。別の生徒は、大人はみんながもう全部決めているみたいに進路の話をすると文句を言っていた。


サトシが少し椅子にもたれた。「人生どうするのかって、十分間聞かれるわけか」


「先に答えを用意した方がいいと思うよ」アイコが言った。


「ある」


「何?」


「生き延びる」


「それは進路じゃない」


「土台ではある」


小さな笑いが起きた。


ユキは机へ目を下ろした。


大学への出願。


高校卒業後の住まい。


違う県。


考えは、一気にではなく、少しずつつながっていった。


最初はまだ、遠い話のようだった。いつか生徒は卒業して、どこか別の場所へ移るから、大人が話すこと。普通のこと。そうなるもの。


それから、別の考えが静かに横に浮かんだ。


ほかの場所にもっといい学部があるなら、たぶん。


学校へ来る途中、カイトはそう言った。


ためらうようでもなく、感情的でもなく。ただ実際のこととして。


必要なら。


ユキは頭を完全には上げないまま、教室の右前の方を見た。


カイトは窓際に近い席で、もうノートを開いていた。ここから見えるのは横顔の一部と、制服の下の肩の線だけだった。


彼は、少しも迷っているようには見えなかった。


それは当然だった。


カイトは何かが大事だと決めると、まっすぐそこへ向かう。工学でもっといい大学がどこか別の場所にあるなら、もちろん行くだろう。当然の判断として扱うはずだった。


それも普通だった。


その考えは、そこで終わるはずだった。


けれど、すぐに別の考えが続いた。


カイトが遠くへ行ったら、二人の予定は重ならなくなる。


毎朝、どうせ同じ時間に玄関へ着くからと、一緒に家を出ることはなくなる。


朝食の前、階下で彼が動く音を聞いて、その音だけで誰なのか分かることもなくなる。


夕食を作るときや、食卓で勉強するときや、コンビニから歩いて帰るときの、小さな会話もなくなる。


映像は、ばらばらに浮かんだ。


知らない場所のアパートにいるカイト。


見たことのない駅。


違う毎日。


違うタイミング。


気づく前に、ユキは少し眉を寄せていた。


双子として、二人は本当の意味で離れたことがなかった。


意味のある形では、一度も。


そのこと自体が、変な感じだった。


小さいころから同じ学校に通っていた。同じ家で暮らしていた。ほとんど毎晩一緒に夕食を食べた。友達も、クラスも同じだった。


放課後に一緒に歩くこと。


夕食のあとに一緒に勉強すること。


カイトは、朝や家と同じように、毎日の形の中にあるものだった。


離れることになれば、ユキのいつもの流れは、ほとんど全部変わってしまう。


サクライ先生は教室の前で話し続けていた。


「面談の日程は昼休み後に掲示します。面談までに、自分が進みたい道についてよく考えておいてください」


それでもユキは、その考えをさらに先へ進めようとした。


カイトが別の県へ行っても、いつかは会える。休みの日。長い休暇。たぶん電話もする。家族は離れて暮らすようになっても、つながっているものだ。


それなのに、どうしてどの形も、何かが足りないままに感じられるのだろう。


代わりに、普通のことを思い浮かべようとした。


彼が自分より先に起きていない朝食。


一人で歩く通学路。


もう兄さんの作った料理を食べないこと。


その映像は一瞬だけ形になり、途中から信じられなくなった。


大げさではない。ただ、うまく説明できないのに、どこか違っていた。


家の壁が一枚、静かに取り外されたところを想像するみたいだった。


形はまだ残っている。


けれど、大事な何かがうまくつながっていない。


気づく前に、ユキの指はシャープペンを少し強く握っていた。


周りでは、教室は普通のままだった。


生徒たちが小声で話す。誰かが姿勢を変えるたびに、椅子が小さくきしむ。後ろの方で、どこかの机から鉛筆が転がり落ちた。


まだ、何も変わっていない。


それでも、サクライ先生が話す未来は、昨日と同じようには遠く感じられなくなっていた。



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