第12章 パート1 — 時間
時間 — カイト
マシュマロの約束は、カイトが理由を理解する前に、もう遊びではなくなっていた。数秒のあいだ、彼は頼まれたことのどこに先に答えればいいのか分からなかった。
頼みごとに答える準備ならできていた。
でも、これにどう答えればいいのかは、あまり分からなかった。
ユキは向かいに座り、閉じた日記の上に両手を置いていた。膝の上でそれを平らに押さえ、表紙にかかった指には力が入っている。手を離したら、さっき言った言葉がもっと悪いものになるとでもいうようだった。
彼女は、まだ次のアルバイトを探さないでほしいと言った。
その前に、ほかにもいろいろなことを言っていた。放課後。週末。夕食。一緒に帰ること。卒業。
つながっているのは分かった。ユキは、そのつながりを思うだけで痛そうな顔をしていたからだ。
アルバイトの部分は分かる。その部分だけなら、たぶん答えられた。でも、それ以外のものが震えた声で一緒に出てきて、今の彼女は彼ではなく、日記を見ていた。
部屋は、夜の旅館らしい落ち着いた温かさを残していた。けれどユキには、それが少しも届いていないように見えた。両親がいないあいだにお茶は冷め、カイトの膝の近くにある本も、もうどちらかが開くものには見えなかった。
カイトは、もう少し説明が続くのを待ってユキを見ていた。けれど、彼女はそれを出せそうになかった。
両手は日記の上に固定されたままで、目も下がったままだった。彼を見たら、その頼みごとを取り戻すのがもっと難しくなるみたいに。
部屋の外を、誰かがスリッパで通った。音は戸の前を横切り、廊下を規則正しく、やわらかく進んでいった。二人とは何の関係もない人たちの音だった。
カイトはスマホを本の横に伏せて置いた。
「ユキ」と言った。
彼女の指が、日記の表紙をさらに強く押さえた。
彼は待った。いつもなら、その方がよかった。ユキにまだ形になりきっていない言葉があるとき、早く押すと、彼女はそれを隠す。機嫌を悪くしたり、もっと軽い意味だったふりをしたり、質問をこちらへ返して、大事な部分が消えるまでずらしたりする。
今回は、待っても助けにならなかった。
「忘れて」とユキが言った。
早口だった。でも、本当にそれで済むと思っているようには動かなかった。両手はまだ日記の上にある。片方の親指が表紙をこすり、それに気づいたように止まった。
カイトは動かなかった。「何を?」
「全部」
「それは、あまり答えになってない」
「答えにはできるよ」
それを流していいのか、分からなかった。押せば、彼女は閉じてしまうかもしれない。流せば、たぶんその頼みごとごと抱えて、今夜の残りを、部屋が変わらなかったみたいに過ごそうとする。
ユキは息を吸った。「やっぱりいい。こんなこと、頼むべきじゃなかった」
「ユキの約束だろ」
「だからって、変な使い方をしていいわけじゃない」
「変な使い方じゃない」
「兄さん、私がどういう意味で言ったかも分かってないのに」
カイトは止まった。
それは十分本当で、すぐには返せなかった。
ユキはその沈黙を同意として受け取ったらしかった。顔が固くなり、膝の上の日記へ目を向けた。
「おかしいの。分かってる」
「おかしくない」
「おかしいよ」
日記の端が、彼女の手の下で少しずれた。
「怒ってない」と彼は言った。
ユキの口元が一本の線になった。
「本当に」
「それが、余計にだめなの」と彼女は言った。
カイトは止まった。
それは分からなかった。
すぐには。
ユキは、日記の方が彼より向き合いやすいものになったみたいに、さらに下を見た。肩が、最後まで吸いきれない息で上がった。もう一度話そうとしたが、言葉は出なかった。
隠す前に、顔が変わった。
少しだけだった。でも、それで分かった。彼女が、ずっと押さえていたものを持ちきれなくなったのだと。
「ユキ」と彼は言った。
彼女は一度、首を振った。
背を向ける前に、最初の涙が落ちた。
一秒ほど、彼はただ見ていた。
そうしたかったわけではない。答えより先に、その光景が彼へ届いたからだった。ユキが泣いている。自分のせいで、あるいは自分のすぐ近くで。その違いが助けにならないくらい近くで。何が起きているのか、頭が追いつかなかった。
カイトはティッシュを探して、テーブルを見た。
そこにあったのは役に立たないものばかりだった。冷めたお茶、本、スマホ、旅館の案内冊子。次に窓際の棚を確認したが、そこにあったのもバスタオルと、棚の下に並んだ自分たちの荷物だけだった。
ひどく間抜けな一秒、彼は自分の袖を考えた。
それから、もう十分恥ずかしがっているユキの顔を、テーブル越しに身を乗り出して浴衣の袖で拭くところを想像し、その考えは最後まで行く前にだめになった。
見戻すと、ユキはもう自分で拭き始めていた。袖の端を使って、小さく、不揃いな動きで。彼が探していたものは遅すぎた。彼女は彼が動く前に、いちばん近い答えを見つけていて、その遅れがさらに役に立たなく思えた。
「ごめん」と彼女が言った。
「謝らなくていい」
「謝るよ」
「いい」
「兄さん」
その言葉で、彼は黙った。
彼女は毎日それを使う。特別なものにすることなく。台所の高いところにあるものを取ってほしいとき、少し怒っているとき、疲れているとき、彼がした手助けに礼を言うとき。
今夜は、それが薄く、弱く出た。
カイトは体重を移し、それから座布団から慎重に立ち上がった。低いテーブルのせいで動きにくく、座っていた座布団を持ち上げるために一度止まってから、彼女の側へ回った。彼女が窮屈に感じないくらいの間を空けて座布団を置き、向かいではなく、そこに座った。
ユキは彼を見なかった。
まだ袖を目の下に押し当てて、涙をきちんと消そうとしていた。丁寧にすれば、その分だけ涙の意味が小さくなるとでもいうように。日記は膝の上にあり、もう片方の手が表紙を強く押さえている。
カイトは彼女の肩を見た。
途中で止まる息で、肩が上がった。
何か言うつもりではあった。向かいに座っているのがもうおかしい気がしたから動いた。二人のあいだにあるテーブルが、彼女がちゃんと息をする前に説明を求める面接みたいに思えてきたからだ。でも隣に来ても、言葉は正しい順番では出てこなかった。
だから、もっと簡単にできることをした。
ゆっくり腕を上げた。
ユキは気づいた。日記を押さえる手に力が入ったが、離れはしなかった。
それでもカイトは、一瞬待った。
彼女が引かないままだったので、彼は腕を彼女の肩へ回した。
強くはしなかった。手は彼女の向こう側の袖に、慎重に、動かず置かれているだけだった。少しでも強く触れたら、泣いていることを彼女が思い出して、また恥ずかしくなるかもしれないと思った。
最初、ユキは硬くなった。
カイトは離れかけた。
そのあと彼女の息が震え、顔が彼の袖の方へ下がった。
変化は、最初は小さかった。寄りかかるというほどでもない。彼の腕の下で肩が少しだけ崩れ、顔が少しずつ彼へ近づいただけだった。
カイトは、二人のあいだのぎこちない隙間を閉じるくらいにだけ、少し近づいた。引き寄せはしなかった。ただ、彼女がそうしたければ寄りかかれるようにしただけだった。
しばらくして、ユキはそうした。ためらいがちで不揃いな重さが胸にかかり、離れていようとするのをやめると、少し重くなった。
そのあと、カイトは少しだけ呼吸を調整しなければならなかった。大したことではない。ただ、彼女の頬の下で胸が大きく上下しすぎないようにするだけだった。
ユキは気づいていないようだった。あるいは、気づいても動かないことにしたのかもしれない。
カイトはそのままでいた。
しばらく、どちらも話さなかった。
部屋は、完全に静かになったわけではない。旅館は、完全には静かにならない。壁の向こうのどこかで水が動き、廊下には風呂や自販機から戻るほかの客の遠い音があった。けれどその音は、カイトの隣に座るユキのいる場所の外にとどまっていた。彼女は顔を下に向け、片手はまだ日記の端にかかったままだった。
カイトは腕を動かさなかった。
肩をさすれば助けになるのか、それとも慰められていることを意識させるのか、分からなかった。話せば落ち着けるのか、それとも早く答えさせることになるのかも分からなかった。ただ、向かいに座っていたとき、彼女は全部を取り消そうとしていた。
ここでは、しばらく謝るのをやめた。
その方がよく思えた。
カイトは彼女を見下ろす代わりに、窓の方を見た。ガラスの中では、外の木々のせいで部屋が途切れた形にしか映っていない。二人は反射の中で触れそうなくらい近かったが、像は暗く、そこから何かを読み取るほどではなかった。
「怒ってない」と、彼はもう一度言った。
「もう言った」
「ちゃんと信じてなかった」
彼女の額が、彼の袖へ少し近づいた。
「信じようとしてる」
「必要なら、もう一回言う」
ユキの吐いた息は、笑いではなかった。そこまでの形にはならないほど薄かった。でも、さっきより鋭さは少なかった。
腕の下で、彼女の肩の力が少し抜けるのが分かった。
どれくらい待てばいいのかは聞かなかった。その質問は頭の前の方にあった。いちばん始めやすい場所だったからだ。探すとはどこからなのか。求人を見るだけなら「探す」に入るのか。応募なら入るのか。明日なのか、今週なのか、文化祭までなのか。
それは使える質問だった。
だから、たぶん彼は黙っていた。
ユキには、まだ早かった。
そのまま数分が過ぎた。どれくらいかは、カイトにも言えなかった。ユキの呼吸がゆっくりになり、涙が止まるくらいの時間だった。隣にある温かさが、腕の下で少し自然に感じられるくらいの時間でもあった。
やがて、ユキが彼の袖に向かって話した。
「兄さんが、またやってみるかもって言ったとき……」
声はいつもより小さかった。
カイトは、聞いていると分かるくらいにだけ、少し下を見た。
「最初は、よかったと思った」と彼女は言った。
「兄さん、よくなって見えた。夕食のときも。お風呂のあとも」
「よくなってた」
「分かってる」日記を押さえる指が緩み、それからまた強くなった。「だから、ちゃんとしたことを言わなきゃと思った。そうだねって。ほかにも場所はあるって。本屋がだめだったからって、止まらなくていいって」
彼女の顔がまた少し下がった。「でも、そのあと、放課後のことを考えた」
カイトは黙っていた。
「週末も」と彼女は言った。「夕食も。兄さんが疲れて帰ってくることも」
言葉はゆっくり出てきた。話すためのまとまったものではなかった。一つずつ拾い上げて、頭の外に置いてもまだ同じくらい悪く見えるか確かめているみたいだった。
「一緒に帰ることも」と、彼女は足した。
カイトの手は彼女の肩に置かれたままだった。
「そこに、兄さんがいなくなる」
今度は、もう少し分かった。
全部ではない。でも、ばらばらだったものが、それぞれ離れて置かれている感じではなくなった。放課後、週末、夕食、一緒に帰ること。彼女は、彼が一つずつ解決できる問題を並べていたのではなかった。一日がどこから分かれ始めるのかを見せていた。
彼が放課後に働けば、彼女は一人で帰る。シフトが遅く終われば、夕食は彼が残した空席のまわりで始まる。週末が変われば、今まで気づかないうちに使っていた時間は、先に聞かなければならないものになる。
それは、彼が間違ったことをしているという意味ではない。
たぶん、だから彼女は言い方が分からなかったのだ。
カイトは彼女の頭の上を見下ろし、それから、近すぎる気がしてまた目をそらした。彼女の重さはまだ自分にかかっていて、手はまだ肩の上にある。彼は頼みごとをアルバイトの話として聞いていた。そこには答えがあったからだ。
今、その外側にあるものが形を取り始めているのが分かった。
「そういう意味だったんだな」と彼は言った。
ユキの指が日記を強く押さえた。「たぶん」
カイトはテーブルを見た。
二人で読んでいた本は、彼がさっき座っていた座布団の近くにあった。閉じたまま。戻ってこない夜の形を待っているみたいだった。
彼女の声はさらに細くなった。「アルバイトの話で、もう始まるみたいに感じたの」
カイトは待った。
「今働き始めたら、まず放課後が変わる」と彼女は言った。「それから時々、週末。時々、夕食。一緒に帰ること」
彼女の指が、日記の表紙に食い込むように押された。
「それで、卒業のことを考えた」
カイトの手は、彼女の肩に置かれたままだった。
ユキの声は小さくなった。「そのあとは、時々じゃなくなる。違う学校。違う電車。違う一日。二人とも家に帰るとしても、ただある時間じゃなくて、探さなきゃいけない時間になる」
そのとき、彼はもっと分かった。
アルバイトは卒業と同じではない。でも、まだ二人のものとして残っている一日の中に、最初の切れ目を入れるものだった。
「会えなくなるって言ってるんじゃないの」と彼女は早口で言った。「それは分かってる。メッセージもあるし、休みの日もあるし、朝だって時々、夕食だって時々。別に……」
その訂正は最後まで出なかった。
カイトは待った。
「でも、今みたいじゃない」と彼女は言った。
ユキの手が日記から離れ、彼の空いている方の袖をつかんだ。手首の近くの布を握っている。
そのあと、体も少しついてきた。自分が動いたことに気づく前に、もう少し近づいていた。
カイトはそれを感じたが、何も言わなかった。
彼女が言いたかったのは、それだった。あるいは、その一部だった。
変わっていくこと。今まで起きたことのなかった、離れていくこと。
「残ってる時間って、そういう意味?」彼が聞いた。
ユキの手が、彼の袖を一度強く握った。
「たぶん」
「たぶん?」
「どう言えばいいのか分からなかった」声が小さくなった。「今も分かってない」
カイトは少し背を引いた。彼女を動かさないように気をつけながら。動いたせいで彼の袖が彼女の指の下でずれ、ユキは離さないまま持ち直した。
彼は、アルバイトを放課後の数シフトとして考えていた。
ユキは、そのシフトのまわりにある一日の形を考えていた。
その違いに、思ったより驚いた。彼女はそういうものに気づく。ずっとそうだった。時間、小さな変化、いつもより誰が遅く帰ってきたか、夕食が急いでいるように感じるか、予定の中に全員が入る余地があるか。彼はそれを知っていた。
でも、ここまで抱えていたことは知らなかった。
その考えは、うまく場所を決められない不快さを残した。彼女がそんなふうに抱えていたことを、知らなかった。
「俺も考えた」と彼は言った。
ユキは彼の腕の下で、とても静かになった。
「アルバイトのこと?」彼女が聞いた。
「卒業のあと」
彼の胸にかかる重さが止まった。
カイトは彼女の顔ではなく、テーブルの方を見た。「進路の用紙が来たときとか。サクライ先生が学科の話をしたときとか」
ユキは動かなかった。
「最初は学校のことを考えた」と彼は言った。「電車とか。どれくらい時間がかかるかとか。通えるかどうかとか」
「兄さんらしい」
「たぶん」
手は彼女の肩に置いたままだった。
「でも、その先のことも考えた」
ユキの指が、彼の袖を強く握った。
カイトはテーブルに目を向けたまま続けた。「別のクラスになったことはある。席も違った。別々の用事もあった」
そこで一度止まった。
「でも、本当に離れていたわけじゃない」
ユキは彼にもたれたまま、動かなかった。
「卒業で離れるかもしれない形では」
思ったより小さい声で出た。
「兄さんも?」ユキの声は慎重だった。
「うん」
ユキはすぐには答えなかった。
肩が腕の下で少し緩むのを、見えるより先に感じた。
「私だけ変なのかと思ってた」と彼女は言った。
「違う」
彼女は息を吐いた。
カイトはそのとき、彼女をちらっと見た。
目はまだ赤かった。顔は下を向いていて、髪と彼の袖の角度で半分隠れている。それでも、言葉の一つ一つで身構えるような顔ではなくなっていた。
それだけで、少し違った。
「ずっと同じ場所にいたから」と彼は言った。
ユキの指が袖の上で動いた。
「そうじゃなくなるところを、どう扱えばいいのか分からなかった」
言葉はそのままだった。そのまますぎたかもしれない。でも、それしかなかった。
しばらく、二人はそのままで座っていた。
ユキの手は緩んだ。
でも、離しはしなかった。
はっきりした記憶がなくても、証明には困らなかった。今、離れていることをどう練習すればいいのか、どちらも知らないみたいに彼女がもたれている。それだけで十分だった。
それでも、その考えはほかのものを連れてきた。
家族旅行で、まだ誰も二人を分けようと思わなかったころ、隣同士で眠ったこと。小学生の朝、玄関に二つのランドセルが並んでいたこと。教室も友達も違う日でさえ、どちらかがまだ来ていないと、門の近くで自然に足が遅くなったこと。
どれも、選んでいるようには感じていなかった。
それが難しいところだった。
何度も選んできたのに、もう選択には見えなくなっていた。
ユキの手は彼の袖にあったが、握り方は変わっていた。さっきより必死ではない。まだそこに袖があるか確かめているみたいだった。
「止めたかったわけじゃない」と彼女は言った。
「分かってる」
「ただ……」
彼女は止まった。
カイトは待った。
「まだ時間がほしかった」と彼女は言った。
その文は、さっきの頼みごとより小さかった。でも、ずっとはっきり届いた。
カイトは暗い窓を見た。
「あるよ」
ユキは答えなかった。
考えが整いきる前に、彼は自分が続けるのを聞いた。「でも、俺もそんなに早く変わり始めてほしいわけじゃないと思う」
「そうなの?」
「うん」
彼女の息が、少し引っかかった。
カイトは彼女の肩に置いた自分の手を見て、それからテーブルへ戻した。「卒業のあとがどうなるかも、まだ分かってないのに」
ユキの指が、また彼の袖を握った。
「じゃあ……」彼女が言いかけた。
その言葉はそこで止まった。
カイトは待った。
ユキは震える息を吸い、顔を下げた。「違う。そういうふうには頼みたくない」
「どういうふう?」
「アルバイトしないで、って」言い直すだけで悪くなるみたいに、その言葉の周りで声が細くなった。「それは公平じゃない」
カイトはすぐには答えなかった。
ユキの手が袖を強く握り、それから緩めた。「いつかは探す必要があるのも分かってる。私が怖くなったからって、止めていいものじゃない」
「ユキ」
「最後まで言わせて」
彼は黙った。
彼女は彼にもたれたままだったが、それでも言葉を引き出すのは難しそうだった。「約束を、兄さんが働かないってことにはしたくない。私が言ったから探せないっていうのも嫌」
指が布に押し込まれる。
「ただ、もう少し時間がほしい」
カイトは彼女を見た。
ユキは顔を上げなかった。「変わり始める前に。放課後とか、週末とか、いろいろが小さくなっていく前に。ずっとじゃない。ずっとは無理なのも分かってる」
声がさらに静かになった。
「ただ、もう少し、こういう時間がほしい」
そう言われると、頼みごとは違うものになった。小さくなったわけではない。けれど、彼をその場に縛ろうとしているというより、まだ残っているものに気づいてほしいと言っているようだった。
カイトの手は彼女の肩にあった。
「もう少し時間」と彼は言った。
ユキは彼にもたれたまま、うなずいた。
「放課後」
彼女の指が袖の上で動いた。
「できるときだけ」と彼女は言った。
「一緒に帰ること」
彼女はもう一度うなずいた。
「週末も」と彼は言った。
ユキはしばらく黙った。
「毎週じゃなくていい」と彼女は言った。
「分かってる」
「ただ……全部決まってしまう前に、いくつか」
「うん」
カイトは、その小さな返事をそのままにした。必要な分は伝わっていた。
今夜、このことは両親には言わない。
その考えは、気づけるくらいはっきり出てきた。
悪いことをしたと思ったからではない。でも言い方を間違えれば、ユキが彼をアルバイト探しから止めたように聞こえる。
そういうことではなかった。
「分かった」と彼は言った。
ユキは動きを止めた。
「分かった?」
「もう少し時間」と彼は言った。「卒業まで」
彼女の目が彼にとどまった。
「アルバイトを諦めるわけじゃない」と彼は言った。
「分かってる」
カイトは閉じた本を見て、それから自分の袖をつかむ彼女の手に目を戻した。
「でも、今夜始める必要はない」
ユキの指が一度強くなり、それから緩んだ。
「明日も」と彼は付け足した。
「俺も、まだ変わり始めてほしくないから」
ユキは顔を下げた。
数秒、何も言わなかった。
それから言った。
「ほっとした」
その言葉は、ほとんど呼吸の一部みたいに小さく出た。彼の袖をつかむ手は緩んだが、離れはしなかった。
「よかった」とカイトは言った。「それが目的だった」
彼女が顔を上げた。「目的?」
「ユキがあまり泣かなくなること」
言ってから少し遅れて、これは言い方が悪かったかもしれないと気づいた。
すると、彼女の口元がかすかに動いた。「兄さんが慰めるの、上手いのか下手なのか分からない」
「たぶん上手い」
「その答えで、下手な気がしてきた」
「でも、ほっとしたって言った」
「それは上手いって意味じゃない」
「完全には失敗してないって意味ではある」
今度は、ユキが笑った。静かで、一秒だけのものだったが、腕の下で肩が緩むには十分だった。
大きなことではなかった。声に出して名前をつけるほどでもない。ただ、不採用のメッセージのあとから並べていた予定の下で、少しほどけただけだった。確認しようと思っていた求人。帰ったらすぐまた始めるのが当然の次の動きだと思っていたこと。
待つことは、遅れることのように感じるはずだった。
でも今夜だけは、次の一歩がそこにあるからといって、ただ動かないことを選んでいるように感じた。
廊下の外で、かすかなきしみがした。
カイトはスリッパの音を聞き、それから近くの戸が開く音を聞いた。先に届いたのは父の声だった。低く、よく知っている声。そのあとに母が答える声が続いた。
先に離れたのはユキだった。
カイトはすぐに腕を戻した。けれど彼女の指は、半秒だけ体の残りより長く、彼の袖に残った。気づくと、彼女は離した。
彼女の肩があった場所は、早すぎるほど冷えた。カイトはそこを見なかった。腕を自分の側へ戻したが、ちゃんと距離を作る時間はなかった。
ユキは袖で顔を拭いた。きれいにするには急ぎすぎている。
「こすらない」と彼は小声で言った。
「分かってる」
それでも彼女は、もう一度だけ押さえてから手を下ろした。
カイトは戸の方を見た。
声はもうすぐそこにあった。父の低い文句と、母のそれより静かな返事まで聞き取れる。カイトが座布団を戻したりテーブルを直したりする前に、戸の取っ手が動いた。
ユキは彼の隣で背筋を伸ばした。完全にではない。ただ、さっきまで彼にもたれていたようには見えないくらいに。
カイトは手に何か普通のことをさせたくて、近くの湯呑みに手を伸ばした。それから、戸が開いたので止まった。
父が先に入り、肩を軽く回していた。
カイトはそちらを見た。「早かったね」
「もう閉まる時間が近かったんだ」と父が言った。「短いやつだった」
母は入口の近くでスリッパを脱いだ。「お父さん、まだ時計と交渉しようとしてたけどね」
「時計の権威は受け入れた」
「静かにしていれば、あと十分に入らないかって聞いてたでしょう」
「聞くくらいは問題ない」
母は父を見て、それから部屋の方へ向いた。
その目が止まった。
長くはなかった。鋭くもなかった。
でもカイトには、母がユキの赤い顔を見て、それから彼が隣に座っているのを見たのが分かった。
「二人とも、まだ起きてたの?」母が聞いた。
「うん」とカイトは言った。
早すぎた。
ユキは膝の上で手をそろえたままだった。「話してた」
母の目は、もう少しだけ彼女に残った。ユキの顔はまだ赤い。ただ、疲れだけが理由だったように、少しテーブルの方へ向けていた。
「本の話?」母が聞いた。
カイトは、スマホの近くにある閉じた本をちらっと見た。
「少し」
ユキの目が一瞬、彼へ動いた。
その答えは、言葉をほとんど切れそうになるまで引き伸ばせば、本当だった。母はそれを分かっているようだった。少なくとも、もう一度聞いても助けにならないことは分かっているようだった。
母はそれ以上聞かなかった。
父は部屋の奥へ入り、隅にまだ積まれたままの布団を見た。「みんな眠くなりすぎる前に、テーブルを動かすか」
母は首にかけていたタオルを畳み、鞄の近くへ置いた。「そうね。これ以上あとにしたら、誰も立ちたくなくなるわ」
「もう立ちたくない」とユキが小さく言った。
父が隅を指さした。「なら、急ぐ理由が分かるな」
直接言われる前に、カイトは立った。
ユキは顔を下げたが、吐いた息は、さっきより笑いに近かった。小さく、ほとんど隠れたもので、座布団から立ち上がるころには消えていた。
彼女は立つ前に、日記を自分の寝具のそばへ置いた。
そのあと、部屋は少しずつ元の形に戻り始めた。
低いテーブルは窓際へ寄せられた。冷めたお茶とカードのケースは片づけられた。旅館の部屋には襖で仕切られた二つの寝る場所があったので、布団は敷く前に分けられた。両親の寝具は広い方の部屋へ。ユキとカイトの分は小さい方へ。
母は部屋がまだ温かすぎるからと暖房を下げ、父は、明日の帰りの運転を生き延びられるくらいには眠りたいと小さく言った。
誰も、それに真面目には答えなかった。
それが助かった。
カイトは、ユキが手を伸ばす前に重いものを取った。でも全部は取らなかった。軽いものだけを渡された彼女が彼を見ると、「ユキの方が近い」と言った。
「それ、まだ理由として弱い」と彼女はつぶやいた。
「通った」
ちゃんと笑ったわけではなかった。でも、彼女の顔は少しだけそこに近づいた。
布団を敷き終えるころには、部屋はほとんどいつも通りに見えた。ほとんど。カイトにはまだ、テーブルのそばで起きたことがそこに残っているように感じられた。ユキが長く彼を見ないようにしていること。母がタオルを畳んで鞄の近くに置くあいだ、短く二人へ目を戻したこと。
でも、誰も聞かなかった。
今夜は、それで十分なのかもしれなかった。
テントで詰めて寝た夜のあとだったから、余った場所があることは、誰もあまり話さずに受け入れていた。ユキとカイトは、自分たちが小さい方でいいと言い、両親はもう一方の部屋を使うことになった。
それでも、カイトは自分の布団を運ぶとき、その余白に気づいた。
ユキの布団の横に、自分の寝具を敷いた。旅行のときにいつも空ける、普通の間隔だった。ユキはそれをちらっと見て、それから何も言わずに座った。日記は彼女の布団のそばの畳の上に置かれている。
母は戸口から一度様子を見て、遅くまで起きていないようにと言った。ユキが返事をすると、母は戸をほとんど閉めた。そこからは、隣の部屋で両親が落ち着いていく音が、木と紙と、父が何か言う低い声に隔てられて、やわらかくなった。
カイトも部屋の灯りを消した。壁際のテーブルと寝具から硬い輪郭がなくなり、窓はもう二人をはっきりとは映さず、暗い木々とぼんやりした形だけを見せていた。
彼は布団へ身を下ろし、アラームを確認するためにスマホを見た。
画面は暗い部屋の中で明るすぎた。ユキに言われる前に、明るさを下げた。
時間と明日の天気の通知の下に、求人アプリが待っていた。
ユキがさっき日記を書いていたあいだに、旅行が終わったらきちんと始めるつもりで入れたものだった。まだ開いてもいない。アイコンは、部屋で何も変わらなかったみたいにそこにあった。
親指がそこへ動き、止まった。
先に戻ってきたのは、彼の袖をつかんでいたユキの手だった。次に、もう少し時間がほしいと言った声。それから、急がないと決めたときにあった小さな落ち着き。
カイトはスマホをロックした。
画面が暗くなった。
枕の横に伏せて置いた。隠したわけではない。ただ、裏返した。
しばらく、どちらも話さなかった。
ユキは仰向けに寝ていて、片腕だけが布団の上に出ていた。日記は手の中ではなく、布団の横の畳に置かれている。天井の方を向いていたが、眠っていないことは分かった。呼吸が慎重すぎた。
彼は枕の横の暗いスマホを見た。
うまく話せたのかは分からなかった。
卒業のあとどうなるのかも、今ある時間がほかのものへ流れていくのを、どれくらい止められるのかも分からなかった。
でも、今のところアプリは閉じたままだった。
旅館は二人のまわりで静かに落ち着いていった。壁の中で冷めていく配管。廊下を通り過ぎる最後のスリッパの音。ガラスの向こうで木々をなでる風。
明日は家に帰る。
そのあとは、学校が戻ってくる。進路面談、受験勉強、願書、置いた場所で待っているアルバイト探し。
「兄さん」
彼の目が暗闇の中で彼女の方へ動いた。「ん?」
ユキは彼の方を向いていた。口元まで引き上げた布団に、声が少しくぐもっている。
「ありがとう」
彼は少しのあいだ彼女を見た。
「どういたしまして」と言った。
ユキはまた静かになった。
それから、もっと小さく言った。
「好きだよ」
その言葉は、なじみのあるものだった。前にも言ったことがある。普通の場所で。半分眠ったような声で。誕生日や旅行や、毎回大事なものにしなくてもいい小さな家族の出来事の中で。最近は、あまりなかったかもしれない。
今夜は、違うところに落ちた。
カイトは天井を見たままだった。
「俺も、好きだよ」と言った。
そのあと、ユキの呼吸が変わった。すぐに眠りへ入ったわけではない。でも、そこへ近づいた。押さえられている感じが減った。
カイトは、部屋の端がぼやけ、旅館の音が遠いものへ薄れていくまで、それを聞いていた。
今夜は、そこに置いておいた。




