第9章 パート2 — カヤック
カヤック — ユキ
太陽がまだ窓まで届ききる前に、家はもう目を覚ましていた。
いつもの朝とは違っていた。
静かな家の中を、炊飯器のメロディが流れることはなかった。玄関のそばにスクールバッグが待っていることもなかった。カイトが朝のランニングから帰ってきて、玄関のドアを開け閉めする音も、父が朝食の前に新聞を畳む音もない。
代わりに、玄関は荷物でいっぱいだった。
赤いテントの袋はもう車へ運ばれていた。寝るときに敷くマットが壁に立てかけられ、その横にはドライバッグが二つ置かれている。段の近くにはクーラーボックスがあり、蓋の上にタオルが畳んで載せられていた。母は片手にリストを持ち、台所と玄関のあいだを行き来している。いろいろ確かめているのに、朝が急かされている感じにはならなかった。父は外の駐車スペースに立ち、道が曲がり始めても荷物が滑らないように、車の後ろへ重いものを詰めていた。
玄関のドアは何度も開いて、閉じた。
そのたびに、冷たい空気が家の中へ入り、湿った朝の舗道と、秋の初めの葉の匂いを運んできた。
ユキは小さな鞄を片手に、防水ポーチをもう片方に持って階段を下りた。日記はその中に入っていて、上の方で封をされている。旅行中に実際に取り出すかどうかは、まだ決めていなかった。学校用のノートを持っていくのとは違う感じがした。もっと変で、もっと内側のものだった。
母はすぐにそのポーチに気づいた。
「踏まれないところに入れておきなさい。鞄に入る?」
「うん」
「よかった。そこに入れて。レインウェアは?」
「サイドポケット」
「見せて」
ユキはポケットを開けた。
母はそれで十分だと思ったらしく、すぐ次へ移った。
「カイト、救急ポーチは持った?」
「もう小さい方の防水バッグに入ってる」
「クーラーボックスのそばの?」
「違う。調理道具と一緒の方」
外から父が声をかけた。
「救急ポーチが調理道具と一緒なのか?」
「外ポケットに入ってる」とカイトは言い、下駄箱の近くにあったバッグを持ち上げた。「すぐ出せる」
母はそのポケットをさっと確認して、うなずいた。
「よし。じゃあタオルのバッグはクーラーボックスのそばね」
「覚えてる」と父が言った。
「違う色のバッグを買っておけばよかったわね」
「中を見れば分かるよ」
カイトが段の上でユキのそばを通った。上着のファスナーは半分だけ閉まっていて、週末の朝に時々そうなる寝ぐせで髪がつぶれてはいなかった。早起きした分、少し眠そうではある。でも、不採用の連絡を受けたあとに見せていたような重さはなかった。ユキの足元にあったドライバッグを取る動きも、迷いがなく、はっきりしていた。
ユキは少しのあいだ、彼がそれを持って外へ出ていくのを見ていた。
急に明るくなったわけではない。一晩で別人になったわけでもない。それでも肩の線は少し緩んでいた。昨日を今日へ持ち越すのではなく、この朝に注意を向けていた。
ユキはうれしかった。
その感情はまず、まっすぐに来た。
そのあとで、昨夜自分が書いたことを思い出した。
気遣うより先に、ほっとした。
その考えは大きく来たわけではなかった。ただ、カイトがトランクへバッグを滑り込ませ、クーラーボックスがテントポールに当たらないよう片手で押さえているあいだ、彼女の中をかすめただけだった。もし彼がすぐ採用されていたら、この朝は違っていたかもしれない。記入する書類があって、受ける研修があって、この週末が始まる前から、どこか新しい場所に一部を取られていたかもしれない。
ユキはこの週末がほしかった。
彼に、ここにいてほしかった。
「ユキ」
カイトに呼ばれ、ユキはまばたきをした。
彼はもう車のそばに立っていて、片手をトランクのドアに置いていた。
「おやつの袋」
「あ」
「まだ中?」
「台所の近く」
「お母さん、もう聞こえてると思うけど」
「ええ、でも今、手がふさがってるの」と家の中から母が言った。
カイトは何も言っていないのに、なぜかそのタイミングをユキのせいにしているような目を向けた。
ユキの胸の小さな結び目が、どう扱うか決める前にほどけた。
「取ってくる」
「青いボトルも持ってきて」と母が言った。「緑じゃなくて。緑はクーラーボックスに入れる方」
「なんでボトルが二つあるんだ?」父が聞いた。
「青は飲み水。緑は昼食用に冷やしておくもの」
「そうだった」
「昨日の夜も聞いたわよ」
「じゃあ一貫してるな」
トランクが閉まるころには、その考えは動きや声や、荷物が落ち着く柔らかな音の下のどこかへ沈んでいた。
母は車に乗る前に一度だけ時間を確認した。
「何時間かかかるからね」と母は振り返って双子を見た。「二人とも大丈夫? 私はほとんどお父さんと話していると思うけど」
「俺を起こしておくためだな」と父が言った。
「あなたが全部の曲がり角を知っているふりをしないように」
「何か所かは知ってる」
「地図よりは知らないでしょ」
カイトは開いた車のドアにもたれた。
「大丈夫」
ユキは二人の座席のあいだの空いた場所を見て、それから町内の道の先を見た。
「本を買ってもいいかも」と言った。「二人とも車酔いしないし」
言葉が出てから、本がどこにあるものかを思い出した。
いつもそうとは限らない。コンビニにも棚はある。駅の売店にもある。けれど最初に頭に浮かんだ場所は、やっぱり書店で、だからカイトだった。
ユキは彼を少し早く見てしまった。
カイトはただ考えているようだった。
「悪くない」と彼は言った。「ユキがこの前選んだ本、よかったし」
ユキはまばたきをした。
彼は、それが普通の事実であるかのように言った。たぶん普通のことだった。たぶん、ぎこちなさが開いたのはユキの中だけで、書店という言葉が昨日に近づきすぎただけだった。
「別々に選ぶ時間はないし」と彼が続けた。「同じ本?」
「同じ本?」
「ユキが読んだことないやつなら。そうすればネタバレできない」
「ネタバレなんてしない」
「遠回しに説明して、だんだん怪しくなる」
「それは違う」
母が助手席の開いたドア越しに二人を見た。
「小さい本にしてね。山に本棚半分持っていくわけじゃないんだから」
父がトランクを閉めた。
「大通りに出る前に駅前の書店がある。開いていたら、十分だけ寄れる」
「十分」と母が言った。
カイトはユキを見た。
「ミステリー?」
ユキは反論するか、せめてもっと考えるふりをするべきだった。
なのに、そのまま言った。
「雰囲気があるやつ」
「条件が広い」
「広くないと」
七時に家を出た。
駅前の書店は開いていた。けれど、かろうじて、という感じだった。店に着いたとき、シャッターはまだ半分上がったばかりで、レジの近くにいた店員は、朝早い人の顔で雑誌の山を並べていた。
母はスマホを片手に入口の近くに残った。
「十分」
「その確認で九分になったよ」と父が言った。
「じゃあ急いで」
店の中には、紙とビニールカバーと、床用洗剤の匂いがかすかにした。入口の平台には新刊が積まれている。旅行雑誌が一つの棚を埋めていた。レジには今のところ誰もおらず、カウンターにはしおりやレシート用紙、小銭を置く小さなトレーが整えられていた。
カイトの目がそこを通った。
彼は足を止めなかった。ただ、必要より少し長く見ただけで、文庫の棚の方へ向かった。
それでもユキは気づいた。
何か言いかけて、でも何を言えばいいのか分からなかった。ごめん、では変だった。大丈夫、と聞けば、朝が今より重くなる。だから彼女はそのまま、鞄のサイドポケットに入りそうな大きさの文庫が並ぶ奥の方へついていった。
カイトは先に棚へ着き、背表紙を見ていった。
「あまり長くないやつ」
その普通の調子で、ユキはまた息がしやすくなった。
「分かってる」
カイトは同じ背表紙を読めるくらいの距離で隣に立った。
「シリーズものじゃないやつ」
「分かってる」
「それと、タイトルだけで結末まで説明してるやつじゃないもの」
ユキは彼を横目で見た。
「選ぶの私なのに、注文多いね」
「手伝ってる」
「条件を増やしてる」
「何も言わないよりはいい」
その本は、ほとんど偶然見つかった。
表紙は濃い青で、夕暮れのあとの細い田舎道が描かれていた。紙灯籠の列が田んぼのあいだへ消えていく。下の方には、バス停のそばに小さな人影が二つ立ち、道ではなく灯りの方を見ていた。題名は、ユキがすぐには嫌いにならないくらいには素直だった。
『終バスのあとの灯籠道』
カイトが先にそれを手に取り、裏表紙を読んだ。
「村祭りのあと、同級生二人が終バスを逃す」と彼は言った。「それから町へ戻る道が変わる」
「怪しいね」
「たぶんそこが大事なんだろ」
ユキは彼から受け取って、自分でも説明文を読んだ。一冊で完結していて、背に続巻を示す印はない。あらすじには、古い村の道、祭りが終わったあとに現れる灯籠、そして目の前の道と地図が合わなくなっても歩き続ける二人の同級生のことが書いてあった。
いつも選ぶものより少し変だった。少し怖いのかもしれない。それでも、その表紙を見ると道がどこへ続くのか知りたくなったし、カイトはまだ棚に戻そうとはしていなかった。
カイトが自分の顔を見ているのを感じた。
「何?」
「書店にいると、いつもぼんやりするよな」
「してない」
「今、長く止まってた」
「読んでたの」
「読み終わってから止まってた」
ユキはもう一度表紙を見下ろした。灯籠は低い橙色の地平線へ向かって曲がっている。読めそうではあった。
「これでいい」
カイトがうなずいた。
「じゃあこれ」
レジから戻ると、母は二人が本を選べたことにほっとした顔をするだけだった。中で待っているあいだに、父は外の自販機で缶のお茶を買っていた。
車に戻ると、カイトは文庫を二人の座席のあいだに丁寧に置いた。
「共有物」
「じゃあ表紙、折らないでね」
「折るつもりはない」
「今はそう言うけど」
大通りに出て落ち着いたころ、母が朝食を後ろへ回してくれた。
ユキが階下に下りてくる前に、母はもうおにぎりを作っていた。車の中でも食べやすい小さめのもので、海苔が座席に散らないよう、きつく包まれている。クーラーバッグの近くにはお茶のボトルが差し込まれていた。最初の赤信号で車が止まると、ユキは膝に広げたナプキンの上でおにぎりを慎重に持った。
カイトは空腹よりも慎重さの方が先に来ているような手つきで、おにぎりの包みを開けた。
「こぼすよ」とユキが言った。
「こぼさない」
「横向きに持ってる」
彼は答える前に直した。
「少しだけ」
父がミラー越しに二人を見た。
「座席に米粒を落とさないように」
「分かってる」とカイトが言った。
母が包み紙用の小さなビニール袋を後ろへ回した。
「道が曲がり始める前に食べてね。そのあとは朝食が難しくなるから」
ユキは一口かじった。ご飯には電子レンジの温かさがまだ少し残っていて、しばらくのあいだ、車内は包み紙の音、交通の音、交差点の近くで父のウインカーが刻む音だけになった。
文庫は二人のあいだで待っていた。車が進むと、表紙に朝の光が細くかかった。
家族全員でそこを出ていくとき、後部座席から見る近所はいつもと違って見えた。近くの家の雨戸はまだ半分閉じている。自転車にはカバーがかけられていた。角のコンビニは明かりがついていて、薄い朝に対して少し明るすぎた。入口のそばでは配送トラックが停まり、ハザードランプを点滅させている。
父が運転し、母は助手席でスマホに経路を表示していた。ドアポケットには、カイトがスマホがあるから必要ないと二度言ったにもかかわらず、折り畳んだ紙の地図が入っている。ユキは父の後ろ、右側の席に座っていた。カイトは母の後ろ、左側だった。
荷物のほとんどはトランクに収まっていた。さっきまでカイトが座っていた席の足元には上着と小さなクーラーバッグがあり、おやつの袋は、母がミラーを見るたびに確認できるくらいの位置に押し込まれていた。
母は、カイトがそれをちらっと見下ろしたのに気づいた。
「まだよ」
「何も言ってない」
「見たでしょ」
ユキは顔を向けた。
「まだ朝ごはんも終わってないのに」
「場所を確認してただけ」
「それはだいたい、開ける前の段階だよ」
父が大きい道へ合流した。
「川に着く前にチョコビスケットがなくなるのは避けたいな」
「昼用です」と母が言った。
カイトは背もたれに寄りかかった。
「分かってる」
ユキは指を丁寧に拭いてから、本に触れた。
「先に読まないで」とカイトが言った。
「最初のページを確認するだけ」
「そこから始まる」
「じゃあ早く食べて」
「同じペースで読むって約束するなら」
「読書はそういうものじゃない」
「じゃあ今日は少しゆっくり読んだら」
ユキは一ページ目を開いた。文字は小さいが、詰まりすぎてはいない。物語は、村祭りのあとにあるバス停から始まっていた。風の中で紙灯籠が揺れ、少女は、自分の背後の道がさっきより短く見えることに気づいても、動揺していないふりをしている。
カイトは自分の側から一分も経たないうちに読みづらそうになり、足元の荷物を見下ろした。
「これ、読みにくい」
「大丈夫って言ったのに」
「大丈夫だけど、読みにくいのは読みにくい」
彼は身をかがめて、上着と小さなクーラーバッグを左側へ寄せ、おやつの袋を自分の座席の下へもう少ししっかり収めた。真ん中の席が少し空き、彼がそこへ移れるくらいになった。
ユキは、彼がシートベルトを外そうとするのを見た。
「何してるの?」
「席を変える」
「走ってるのに?」
「次の信号で」
父がミラーを見た。
「車が止まってからにしなさい」
「分かってる」
次の赤信号で、カイトはシートベルトを外し、真ん中の席へ移って、信号が変わる前にまたベルトを締めた。
後部座席はもともとそんなに広くない。二人の肩と脚が触れた。普段はない接触に、ユキは小さくしびれるような感覚を覚えた。
母が一度振り返った。
「大丈夫?」
「こっちの方がいい」とカイトが言った。
ユキはページを見て、それから彼を見た。
「読むためだけに全部動かしたの?」
「この方が楽」彼は本を見下ろした。「続き」
ユキは本を二人の膝の上に置き、もう二度読んでしまった最初の段落へ戻った。
しばらくのあいだ、後部座席から聞こえるのは、道の音、包み紙がビニール袋へ集められる音、それからユキがカイトより先にページの下まで読んだときに、そっと紙をめくる音だけだった。
町は少しずつ薄くなっていった。
最初は信号、マンション、学校の門、コンビニ、かごにビニールをかけた朝の自転車があった。それから道が広がり、建物の間隔が開いていく。しばらく電車の線路が横に現れたあと、防音壁の向こうへ消えた。日差しは屋根の上で強くなり、窓に長く光った。
ユキは、朝がいくつもの断片になって過ぎていくのを感じた。
車内には、布とビニールのドライバッグ、それから出発前に父が買ったお茶の匂いがかすかにあった。母がせんべいを配ったのは、出発して一時間以上経ってからだった。それも一人二枚ずつだけ。
二人は顔を上げ、それぞれの分を受け取った。食べているあいだは少し休憩することにして、窓の外を見た。
前方の山々はまだ遠かった。それでも道は、さっきより上がったり下がったりするようになっている。斜面には木々が集まり、葉はほとんど緑だったが、日差しが端に届く場所だけ、少し黄色が混じっていた。ユキは山を見たことならあった。電車の窓からも、学校行事でも、もっと幼いころの家族のドライブでも。けれど、カヤックの旅行がその先で待っていると思いながら近づいていく山は、ただの景色ではなく、自分たちが入っていく場所のように見えた。
そのあと、車はトンネルに入った。
数秒のあいだ、窓は暗く、反射するものになった。荷物と顔が、ガラスの中にぼんやり浮かぶ。エンジンの音はトンネルの壁に当たって大きくなり、天井の白い照明が一定の間隔で窓を流れていった。抜けると、谷の上に空が急に開けた。木々のあいだに見える水面の上には、まだ低く霧が残っている。
しばらく、誰も話さなかった。
道は山の側面に沿って曲がっていった。左側のカーブの端に小さな神社が現れ、石灯籠は杉の影に半分隠れていた。父は野菜の箱を積んだトラックの後ろで速度を落とした。母は経路を確認し、それから膝の上の紙の地図を使わないまま畳んだ。
せんべいを食べ終え、しばらく景色を見たあと、二人は本に戻った。
ユキは、自分がページを読み終えるたびに、少しは彼を待つことになると思っていた。
けれど、長く待つことはほとんどなかった。
カイトは最初こそ、口元を少し引き結んで、集中するようにゆっくり読んでいた。けれど道が落ち着き、物語が足止めされた同級生二人の長い帰り道へ入るころには、ユキがページをめくる前に待つのは一度か二度だけで済むくらいには追いついていた。
「思ったよりついてきてるね」とユキは言った。
彼は本から目を離さなかった。
「遅れる予定だった?」
「もっと待つと思ってた」
「待ってはいた」
「少しだけ」
「なら問題ない」
「ちょっと悔しい」
「もっと差があると思ってたんだろ」彼は少し笑った。「じゃあユキの全速力に追いついた方がいいか」
「やめて」
彼はページの下まで読み終え、角を一度指で軽く叩いた。
「ページ」
ユキはめくった。
本の中で、同級生二人は祭りの道を離れ、さっき通った覚えのない石段にたどり着いていた。その上には神社の鳥居へ続く灯籠が並んでいる。けれど少年のスマホの地図には、まだ畑しか表示されていなかった。
「それはよくない」とカイトが言った。
「どこが?」
「灯りについていくところ」
「兄さんなら行かない?」
「行かない」
「終バスがなくなってても?」
「普通の場所で待つ」
「普通の場所がないの。それが問題なんだよ」
カイトはもう一度ページを見た。
「それでも、みんながいなくなったあとに現れた灯りにはついていかない」
「兄さんだったら、そこで話が進まないね」
「たぶんその方が安全」
ユキは笑いそうになるのをこらえ、そのまま読み続けた。
少しして、道がまた曲がり始めると、母が目を休めるようにと言った。
ユキはレシートを本に挟み、鞄の横に丁寧に置いた。カイトは真ん中の席のままで、肩がまだ触れていた。曲がるたびに、二人の体は少しずつ動いた。一度は彼の重さがユキにかかり、次のカーブではユキの方が彼に寄った。車の普通の動きのせいで、その接触を無視するのは少し難しくなった。
本が間にないと、カイトの注意はまた窓へ向いた。
そのころには、町はほとんど後ろへ落ちていた。家は離れて建ち、そのあいだに畑が開け、用水路に沿って低い壁が続いている。道のそばには木がいっそう濃く集まっていた。ガードレールと下草の斜面の向こうで、水が銀色に光った。
先に気づいたのはカイトだった。
「水がある」
「もう見えてた」とユキは言った。実際には、今ちょうど見たばかりだった。
「反対側見てたのに」
「車の窓に、見る側の正解なんてないでしょ」
「川がこっちなら、こっちが正解」
母がスマホを少し傾けた。
「それはまだ今日使う川じゃないわよ」
カイトは持っていたせんべいを少し下げた。
「違うの?」
「私たちのはもっと小さい川」と母が言った。「これは初心者には流れが速すぎるから」
ユキは背もたれに戻った。
「つまり、兄さんは違う川で私を訂正したんだ」
「水ではある」
前方の山々はもう近かった。道は谷に沿って上がり下がりし、カーブのたびにクーラーバッグが床で小さく動いた。斜面には木々が登り、葉はほとんど緑だったが、日差しが端に届く場所だけ黄色が混じっていた。ユキは山を見たことならあった。電車の窓からも、学校行事でも、もっと幼いころの家族のドライブでも。けれど、カヤックの旅行がその先で待っていると思いながら近づいていく山は、ただの景色ではなく、自分たちが入っていく場所のように見えた。
道は山の側面に沿って曲がっていった。左側のカーブの端に小さな神社が現れ、石灯籠は杉の影に半分隠れていた。父は野菜の箱を積んだトラックの後ろで速度を落とした。母は経路を確認し、それから膝の上の紙の地図を使わないまま畳んだ。
そのあとは、しばらく会話が薄くなった。
父が曲がり角を通り過ぎた。正確には、手前で少し速度を落とし、迷い、通り過ぎ、それから「今のだったかもしれない」と言った。
母がスマホを確認した。
「今のだったわ」
「そうだと思った」
「通り過ぎながら?」
「それでも思ったことにはなる」
カイトが身を乗り出した。
「六百メートル先に次の曲がり角がある」
「分かってる」と父が言った。
「さっきのは分かってなかった」
「疑ってはいた」
「疑い方を間違えた」
ユキは、母が手の甲で笑みを隠すのを見た。
そのあと、道はさらに細い方へ曲がり、小さな町を抜けた。古い商店街、閉まったままの店先、何かの地元の祭りののぼりが電柱から下がっている。野菜の直売所の前では、何人かが木箱を並べていた。低い建物の裏から、煙が上がっている。ここでは町に押されない分、空が広かった。
一度、道の駅で止まった。
駐車場はもう半分ほど埋まっていて、家族連れ、バイクの人たち、布の買い物袋を持った年配の夫婦がいた。父は「誰かが止まりたくなる前に止まっておく方がいい」と言ったので、カイトは数秒父を見てから、聞かないことにしたようだった。ユキは車のそばで体を伸ばし、道の駅の屋根の下で風鈴が揺れるのを見ていた。風は、動かすには少し足りないくらいしかなかった。
文庫は後部座席に伏せて置かれ、レシートがしおり代わりに挟まっていた。二人は、登場人物たちが道端の地蔵を見つける少し前で止まっていた。村の案内冊子では、その地蔵は何年も前に流されたことになっているのに、新しい赤いよだれかけを着けている、というところだった。
ユキはそこを二度読んだ。カイトが、興味を持っているときの静かさになっていたからだった。
大きくはない。エンジン音にまぎれそうなくらいだった。
でも、彼は笑っていた。
カイトはユキの隣に立ち、片方の肩を回していた。
「まだ固い?」ユキが聞いた。
「少し」
「おじいさんみたいに前かがみになってた」
「ストレッチって言うんだ。足がまだ動くか確認してた」
「それで?」
「あまり乗り気じゃない」
彼は平らにそう言い、それから母が渡したボトルを受け取った。
そのあとに言い返しはなかった。ただ、前方の道を見ている。山々が谷のまわりで細く迫っている方だった。
ユキもその視線を追った。
朝はもう、思っていたよりずっと遠くまで二人を運んでいた。
用を済ませた人たちが戻ってくると、全員がまた同じ席に乗り込み、最後の区間を走り始めた。
川に着く前に、本を読み終えることはなかった。
まだ数章残っていたところで、近づいてきたから景色を見た方がいいと母が言った。ユキはレシートをもう少し深く挟み、残りの厚さを親指で確かめた。
「もう少しだったのに」
「もう少しと言うには残ってる」とカイトが言った。
「続きが気になるんでしょ」
「ユキもだろ」
「気にならないとは言ってない」
彼は窓の外を見て、それからユキが本を鞄のサイドポケットに入れる前に、もう一度その本を見た。
「カヤックには持っていかないからな」
「当たり前でしょ」
「考える前に言ってる」
「考えようとしてなかった」
母が前の席から少しだけ振り返った。
「本がなくても、やることはたくさんあるわよ。帰りまで取っておきなさい」
「うん」
二人の返事が重なった。
ユキは答えたあと、カイトをちらっと見た。
彼も一秒だけ見返し、それからまた窓の外へ視線を戻した。
そのあとは、道がさらに山に沿うようになった。土地を無理にまっすぐ切るのではなく、地形が曲がるところで道も曲がっていく。片側は斜面が急に立ち上がり、もう片側はすぐ落ちていて、道や家を置ける平らな場所はほとんどない。少し前までは、小さな畑や錆びた屋根の小屋、木々のあいだへ消える私道が時々あったけれど、それもだんだん減っていた。今はもう、人が住んでいる気配は見えない。道と、ガードレールと、森と、折り重なった山の形だけだった。
川も、前より何度も見えるようになった。一本のきれいな線ではなく、いくつもの断片として。石の上の白い流れ。枝の下にある静かな緑の淵。日差しが底まで届く浅い曲がり角。路肩の岩には苔がつき、側溝にはシダが生えていた。時々、切り立った暗い斜面を細い水が落ち、ガードレールの下へ消えていった。
この先のどこかで、自分たちはあの水に入り、そこに運ばれることを任せるのだ。
カヤックのレンタル場所に着くころには、太陽は砂利の駐車場を温めるくらい高くなっていた。
地形はまた少し開けていて、レンタルの受付は木々のあいだの空き地に建っていた。川はまだ見えていたが、そこへ行くには数分歩く必要があるくらいの距離だった。ユキが車を降りると、遠くで水が動く音が聞こえた。大きな音ではなく、激しく流れているわけでもない。ただ、木々のあいだを縫うような、一定した音だった。
受付は低い建物で、入口の横には色あせた看板と、音を立てている自販機があった。外には色の明るいカヤックやカヌーがラックに積まれている。軒下には、オレンジ、赤、青、黄色のライフジャケットが列になって掛かっていた。パドルは大きすぎる道具のように、いくつかの箱に立てかけられている。壁の近くではホースのどこかから水が落ち、下の砂利を濃くしていた。
レンタル場所の匂いが、まずかすかに届いた。濡れたロープ、プラスチック、軒下に積まれたカヤックからする湿った木の匂い。でもそれは、その向こうにあるものに比べれば薄かった。木々の鋭い緑の匂い、川の水の涼しい匂い、遅い朝の日差しで温まる湿った石の匂い。旅行は、そこでまた一度に形を持った。
ほかの人たちも、もう来ていた。
大学生くらいの三人が、青いカヤックの山のそばに集まっている。一人はカメラケースを確認し、もう一人は上へずり上がってくるライフジャケットを締め直そうとしていて、三人目は借りたカヤックを見比べていた。
ユキは車から降り、足を伸ばした。四時間近く座っていたせいで、筋肉が固まっているのが分かった。
カイトも反対側から降り、少し立ったままになってから、前屈するように体を折った。
「お父さんより年上に見える」
「最後の四十分で背骨が老けた」
「座ってただけなのに」
「それが問題だった」
父がトランクを開けた。
「あとで荷物を運ぶ前に、誰も体が固いって文句を言わないこと」
「それは不公平な気がする」とカイトが言った。
「事前方針だ」
母が受付へ行くあいだ、父は必要になる荷物をベンチの近くへ寄せ始めた。少しして、スタッフが外へ出てきた。日に焼けた帽子をかぶり、脇にクリップボードを抱えた男の人だった。何度も不安そうな家族に同じ説明をしてきた人のような、落ち着いた調子で挨拶をした。
両親は、もうレンタルの店と連絡を取っていたらしかった。
「はい、カゲツさんですね」と彼は用紙を確認しながら言った。「一人乗りカヤックが四艇、本日は初心者向けの川下りコース、旧船着き場で一泊、キャンプ地の登録確認済み。明日は通常の引き上げ地点まで進んで、日曜の午後にそこから送迎、で間違いないですか?」
父がうなずいた。
「そうです」
ユキは、旧船着き場、という言葉でカイトが顔を上げたのに気づいた。
スタッフは双子の方を見た。
「大きな公共キャンプ場みたいなところではありません。番号付きの区画も、売店も、バンガローもないです。通常コースから少し外れたところにある、小さな許可制の宿泊場所ですね。登録したグループだけです。日帰りの方は、たいていそこまでは行きません」
「じゃあ、ちゃんと使っていい場所なんですか?」ユキは、止める前に聞いていた。
母が笑った。からかう感じではなかった。
「ええ。許可もあって、登録もしてあって、管理している人たちが知っている場所よ」
「秘密の違法行為じゃない」と父が足した。
「そこは心配してなかった」
「お母さんが山の中で違法に料理を始める前に、確認しておくのは大事だろう」
母が父にやわらかい視線を向けた。
「あなた、一度、名前の響きだけで短い道だと思ったことがあるわよね」
「妥当な推測だった」
「上り坂だったわ」
「坂はたいてい上るものだ」
スタッフは、家族からそれよりひどい話も聞いたことがあるように笑った。
ユキは、その人が明るい感じの人だと思った。
彼は二人を日陰のテーブルへ案内した。そこには、風でめくれないようにラミネートされたルートマップが留められていた。川の線は緑の表示のあいだを曲がり、場所によって広くなったり細くなったりしている。スタッフはまず練習用の入り江を指し、それから初心者用の区間、短く休憩できる砂利の岸、旧船着き場、遊歩道、一泊する場所を順に示した。
「今日は流れは普通です」と彼は言った。「水位も問題ありません。このコースに急流はありませんが、この曲がり角のあたりは浅い岩があります。左側は葦があって、初心者の方が流されていくことがあります。先に行く大人の指示を聞いてください。間隔を空けること。曲がり角で急がないこと。向きが変わりそうだと思ったら、無理にこがず、一度止めて直してください」
ユキは全部覚えようとした。けれど知らない言葉が多くて難しかったし、スタッフがドライバッグの説明を始めるころには、もう半分くらい忘れていた。
カヤックに乗っているあいだ、リュックは背負わない。大きいドライバッグは両親のカヤックに固定する。小さいものは、大きさに応じて、双子の足元か座席の後ろに固定する。カヤックは一晩、旧船着き場に留めておき、キャンプ道具は遊歩道を歩いて運ぶ。
ライフジャケットに着替え始める前に、母は食べておくべきだと判断した。
「川に出るまで待ったら、みんな疲れて面倒になるわ」と言って、軒下のベンチに昼食の袋を置いた。「今のうちに少しでも重さを減らしておいた方がいいわね」
父は空を見て、それからルートマップを見た。
「その通りだな」
昼食は簡単だった。アルミホイルに包まれたおにぎり、ゆで卵、小さな容器に入った漬物、そして母が朝から守っていたチョコビスケット。まだ何もしていないのに、そこで食べると味が違った。木々のあいだから流れてくる川の匂いのせいかもしれないし、カヤックのラックからする濡れたロープやプラスチックの匂いのせいかもしれない。あるいは、周りの人たちがパドルやライフジャケットを持って動き回っているせいかもしれなかった。
カイトはユキの隣のベンチに座った。文庫はまだ、後部座席の足元に置いた彼女の鞄の中にしまわれている。
「本のこと考えてるでしょ」とユキは言った。
「考えてない」
「答えが早すぎる」
彼はおにぎりを開けた。
「灯籠の数は、たぶんただのミスだと思ってた」
ユキは顔を上げた。
「ミスじゃないよ」
「灯籠が七つで、影が六つ」
「それって、一つだけ影がないってことでしょ」
カイトが彼女を見た。
ユキは、遅れて、自分が彼の望んだ通りに答えてしまったことに気づいた。
「じゃあ考えてたんだ」と彼は言った。
ユキは漬物の容器の上で箸を止めた。
「誘導した」
「うまくいった」
母がユキに漬物を渡した。
「何かに取り憑かれたものを解く前に、昼ごはんを食べなさい」
「まだ取り憑かれてない」とカイトが言った。
「道は変わったよ」とユキが言った。
「地図の問題の可能性はまだある」
ユキは彼を見た。
「かなり低い可能性の地図の問題」と彼は付け足した。
父がおにぎりを開けた。
「日が暮れたあとに道が変わるなら、俺は別の道を選ぶな」
「別の道がなかったの」とユキは言った。
「じゃあ朝まで待つ」
カイトがうなずいた。
「俺もそう言った」
「二人とも、主人公には向いてないね」とユキが言った。
「生き残る主人公だ」とカイトが返した。
母がゆで卵をベンチの向こうへ渡した。
「カヤックの前なら、生き残っている方がだいたい大事よ」
ユキは笑って食べた。足の下のベンチは温かく、木々の向こうから川の音がかすかに聞こえていた。本は車の中に残っていたけれど、その一部だけは一緒についてきたようだった。灯籠、間違った道、それから、正しい決まりを見つければ解けるもののように、怪しい道を扱うカイト。
食べ終わると、母は包み紙を昼食の袋へ戻して立ち上がった。
「じゃあ、ライフジャケット」
スタッフはもう、オレンジ、赤、青、黄色の列のそばで待っていた。
「最初に練習します」と彼は言い、父に次の用紙を渡した。「いきなり川には出ません。動画を見たことがあると言う人でも」
軽い言い方だったけれど、カイトは動かなかった。
ユキは彼のことをよく知っていたから、たぶん昨夜のどこかに「動画を見た人」が含まれているのだと分かった。カヤックの基本。まっすぐこぐ方法。落ちない方法。
ユキは彼を見た。
彼も見返してきた。
「何?」
「別に」
「顔に出てる」
「私より先に進もうとしてた?」
「動画一本で?」
「じゃあ見たんだ」
カイトは止まった。
「一本」
「一本だけ?」
「短かった」
「それはよくなってない」
「ユキも見ればよかっただろ」
父が列からライフジャケットを二つ取り、それぞれに一つずつ渡した。
「水に入って、実際にどんなものか分かってから言い合いなさい」
ライフジャケットは、ユキが思っていたよりかさばった。バックルを留めて締めると、自分の肩が、もっと動きにくい誰かのものになったみたいに感じた。カイトが最初にストラップを調整したとき、片側が不揃いに垂れていたので、ユキは考える前に手を伸ばして引いた。
「ありがと」
彼は代わりにユキのジャケットを見て、それから少しかがみ、脇のストラップを少しだけ緩めた。
「ここ、きつすぎる」と彼が言った。「もうちゃんと留まってる」
ユキは自分を見下ろした。
「きつい方が安全だと思った」
「動けないとだめだろ」
ユキは少し腕を上げた。さっきより抵抗が少なかった。
彼女が何か答える前に、母が声をかけた。
「二人はそっち側のテーブルをお願い。小さいドライバッグをまとめておいて」
カイトは、小さな荷物が置かれているベンチの方へ移動した。スタッフが、カヤックの中で小さなバッグを固定するための黒いストラップをいくつか置いていっていた。
二人がそれを分けていると、父がやってきた。
「小さいバッグには短いストラップ」と父は言い、一本を取った。「座席の後ろに載せるなら長い方だな。脚をどこに入れるか分かるまでは、何もきつく締めないこと」
カイトは父から短いストラップを受け取った。
「俺のは小さめ?」
「少しな」と父が言った。「低く、中心に近く。ただし膝の邪魔にならない位置だ。片側に寄りすぎると、カヤックの感じが変になる」
カイトは自分のカヤックの横に膝をつき、足元のスペースの前の方へドライバッグを置いた。
「もう少し後ろ」と父が言った。
カイトはずらした。
「そこ。バランスは取れてるし、脚も入る」
ユキは自分のドライバッグ用にもう一本のストラップを取り、同じように自分のカヤックに置いた。バックルが外側を向いているか、一度確認した。
母が、平たく畳まれた灰色のシートと、細長い黒いケースを持って戻ってきた。父は両方を受け取り、大きいドライバッグの一つの近くへ置いた。
カイトがケースをちらっと見た。
「それ、火を使うやつ?」
「焚き火台だよ」と父が言った。「高さのあるフレーム、メッシュの受け皿、折りたたみの脚。下にはこのシートを敷く。地面を焼かないように」
「それと、指定の調理場所だけで」と母が足した。「水をそばに置いて」
スタッフがうなずいた。
「その通りです。冷めた灰は、標識に書いてある場所へ。ごみは全部持ち帰りです」
ユキはもう一度、黒いケースを見た。焚き火と言えば、昔の本の挿絵みたいに、石を丸く並べたものを想像していた。これはもっと整っていて、ちゃんと準備されたものだった。
そのあとは、すべてが早く動いた。
父が大きなドライバッグを確認した。母は休憩のときに取り出せる場所へ、おやつの袋を入れた。スタッフはもう一度ルートを説明し、ペンの先で旧船着き場を指した。
ユキは両手でパドルを持ち、木々の向こうの川を見た。
説明を聞いているときより、ここから見る川は穏やかに見えた。水面は広く不揃いに流れ、隠れた石の上で白く光り、岸近くの枝の下では暗くなっている。風の向きが変わるたびに、水の匂いが届いた。
「まだ心配?」カイトが聞いた。
「少し」
「落ちること?」
「それも」
彼はしばらく黙って、入り江の方を見ていた。
「ここからだと、速くは見えない」
「でも動いてる」
「うん。でも、道から見えた川とは違う」
ユキは木々の向こうの水音を聞いた。彼の言う通りだった。怒っているようではなく、一定に動いていた。
「変な感じが薄くなるまで練習すればいい」と彼は言った。
ユキはうなずいた。
「うん」
後ろで、誰かがラックからカヤックを動かし、空洞のある音が鳴った。ロープがきしんだ。スタッフが、乗り場の近くにいる別のグループに声をかけている。
カイトはパドルの持ち方を少し変え、そのまま黙って、ユキと同じ水を見ていた。
ルート説明と荷物の確認が終わると、四人はカヤックを練習用の入り江へ運んだ。
道はレンタル受付の横を通り、予備のパドルの山と、砂利に水を落としているホースのそばを過ぎていった。川はもう木々の向こうにはっきり見えていた。遅い朝の光を受けて、広く明るい。けれど入り江はそこから分かれた小さな水場で、流れはなかった。低い石と葦の曲線に区切られた、守られた水面だった。水の上をトンボが飛び、岸のそばでは落ち葉が何枚か、ゆっくりその場で回っていた。
「便利だね」とユキが言った。
「だからここにレンタルの受付を作ったんだろ」とカイトが返した。
父が先に手本を見せた。
カヤックに入るのが簡単そうに見えたので、ユキはかえって疑わしく思った。
片足を入れ、体重を落とし、両手で安定させる。それだけで、父は細い座席に座り、膝の上にパドルを置いていた。岸から押し出し、なめらかな半円を描いて向きを変える。
「前にこぐときは」と父が声をかけた。「腕だけでやらない。ここから回す」そう言って胴のあたりを叩いた。「不安なら小さくこぐ。大きくやりすぎると、曲がりすぎるだけだ」
母はウォーターシューズで岸近くの水に足首まで入り、カイトのカヤックを押さえていた。
「カイトから」
カイトは、それを予想していたようにも、納得していないようにも見えた。
彼は慎重にカヤックへ足を入れた。
揺れた。
表情はほとんど変わらなかったけれど、手が縁を強くつかんだので、ユキには彼が不安になったのが分かった。
「ゆっくり」と母が言った。
「分かってる」
「縁をつかみすぎ」
カイトは自分の手を見下ろし、ほんの少し力を緩めた。
「思ったより動いた」
「水はそういうものよ」
ユキは一度笑い、カイトが振り返ったので口を押さえた。
カイトは座って脚を調整し、パドルを受け取った。母が彼を押し出す。
最初の数メートル、彼はきれいに流れた。
それから前にこごうとして、ゆっくり円を描いて回った。
ユキは唇を押さえた。
カイトはもう一度こぎ、直しすぎて、今度は反対向きに回った。
少し先にいる父は、数秒だけ助けを出さずに見ていた。たぶん、自分たちで感覚をつかませたかったのだろう。
次はユキの番だった。
座席へ体を下ろすと、カヤックは腰の下で軽く反応し、自分で勝手に決めてしまいそうに揺れた。
「肩に力を入れないで」と母が言った。
「勝手に入ってる」
「やめるように言いなさい」
「今までそれで聞いてくれたことない」
押し出されると、ユキはパドルを強く握りすぎたまま、短く不安な動きで進んだ。カヤックは、細い椅子に座るようなものだと思っていた。けれど実際には、水が小さな動きの一つ一つに答え、バランスを保たないとすぐに揺れた。最初はカイトよりうまくいった。ほとんどまっすぐ進んだので、ほんの短いあいだだけ、理屈に合わない勝ち誇った気持ちになった。
そのあと、カヤックが葦の方へ流れた。カイトは少し止まっていて、彼女の方を見ていた。
「ユキ」とカイトが呼んだ。
「分かってる」
「葦に入ってる」
「分かってるって言った」
「分かってるのと止めるのは違う」
ユキは後ろへこごうとした。カヤックは横を向いた。葦が肘に触れた。
カイトは笑った。そのせいで、ユキの中の負けず嫌いのどこかが切り替わった気がした。
「兄さんだって最初、回ってたでしょ」
「葦には入らなかった」
「ぎりぎりだった」
「入るよりまし」
ユキはもう一度後ろへこごうとして、さらに横を向いた。
カイトは一度笑い、それから母に見られて止めた。
父が近づいてきた。
「二人とも、手の力を抜きなさい。パドルは逃げない」
ようやく母も自分のカヤックに乗り、二人に合流した。父ほど見せる感じはなかったけれど、動きはもっと落ち着いていた。母はユキのパドルの角度を直し、カイトにはパドルをブレーキみたいに引きずらないで止まる練習をさせた。前に進み、止まり、曲がり、後ろに下がり、何もないところに軽くぶつかり、こぐのを止めたあともカヤックがどれくらい流れるのかを覚えた。
カイトは、動く場所が十分にあると上達した。
ユキはその場で曲がるのはうまくなったけれど、慎重になりすぎると速度が落ちた。父は、大きな浮き葉に向かってこぎ、当たる前に止まり、それから後ろへ下がる練習をさせた。カイトは一回目、葉を完全に外した。ユキは止まるのが少し遅れ、カヤックの先で葉に触れた。
葉はくるりと回って離れていった。
カイトはしばらくそれを見ていた。
「当てた」
「葉っぱだよ」
「あれが目標だった」
「近くで止まった」
「触った」
ユキは流れていく葉を見た。
「十分近い」
カイトは言い返さなかった。たぶん、自分の一回目の方がもっと大きく外れていたからだった。
練習は、動きが別々の説明ではなく、少し自然に感じられるまで続いた。ユキのパドルの柄が一度カヤックの側面に当たり、空洞のあるプラスチックの音を立てた。ブレードから冷たい水が手首へ流れ、袖口の下へ滑り込む。強く曲がりすぎると、思ったより大きくカヤックが振れた。力を抜きすぎると、石の方へ流れた。
どれも優雅ではなかった。
それが助けになった。
短い休憩のために岸へ戻るころには、カヤックが一つ動くたびに自分を裏切るもののようには感じなくなっていた。ユキはまだ曲がる前に考えなければならなかったし、止まるのにも思ったより時間がかかった。けれど、パドルは手の中で少しずつ意味を持ち始めていた。大きく揺れずに前へ進んだとき、もう終わりにしたいだけではなく、もう一度やってみたいと思っている自分に気づいた。
まだ簡単ではなかった。
でも、楽しくなり始めていた。
上着の下で腕は温かくなっていて、ライフジャケットの前には熱がこもっていたので、母に水を飲むよう言われたときは少しほっとした。
川に出る前に、入り江の近くのベンチで水を飲んだ。それでも母は、少し食べるように言った。せんべいを一枚ずつと、ボトルから数口だけ。
「お腹が空いてるからじゃないわ」と母は言った。「あとで空くから」
カイトは反論せずにせんべいを受け取った。
「警告みたいに聞こえる」とユキが言った。
「警告よ」と母が言った。
カイトはスポーツドリンクを開け、長く飲んだ。
「もう腕が疲れてる」
ユキはせんべいの包みを開けた。
「私も」
「安心材料にならない」
「兄さんと同じくらいできてるってこと」
彼はユキをちらっと見た。
「そう?」
「そう」
「葦に入ってた」
「兄さんは回ってた」
「最初だけ」
「私も」
カイトは入り江の方へ視線を戻した。石の近くでは、まだ何枚かの葉が回っていた。
ユキは笑った。
「しかも私は動画を見ないでやった」
彼は一秒黙った。
「一本だけ」
「それでも動画」
父が空を見て、それから水を見た。
「そろそろ始めよう。ここに長くいすぎると、あとで遊歩道で響く」
母はユキにおやつの袋を渡した。
「川で休憩するときに私が取れるところへ入れておいて」
カイトはドライバッグの上にかかったストラップを見た。
「これ、小さいバッグの上に載せられる」
ユキは彼が示した場所へ袋を動かし、口が母の方へ向くようにした。
「こう?」
「それなら留まると思う」
母が一度確認し、自分でストラップを締めた。
「よし。これなら私も取れる」
カイトがうなずいた。
「じゃあ大丈夫」
ユキは何か言いたくなったけれど、スタッフがすでに乗り場の方へ手を振っていて、会話はカヤックを動かすことの中へ溶けた。
川は、入った瞬間に入り江とは違っていた。
怖いわけではない。
ただ、もっと広い形で生きていた。
練習した静かな水とは違うので、もう一度注意を鋭くしなければならなかった。ユキはまた少し緊張し始めた。
カヤックの下で流れがつかんだ。ゆるやかだけれど、確かにある。小さな失敗が、目に見える動きになった。岸近くの水はユキが思っていたより澄んでいて、深いところでは茶色がかった緑になり、浅い石の上では白く光った。木々はところどころで近くまで枝を伸ばし、水面に途切れた影を落としている。パドルを入れると、冷たいしずくが柄を伝い、袖に点々と落ちた。
父が先頭だった。
ユキとカイトは真ん中にいて、母が後ろについた。狭いところでは一列になる。川が広がると、ユキとカイトが数メートル離れてこげるくらいの空間が開いた。少し声を張れば話せる距離だった。
最初の十分、ユキは自分が恥ずかしいことにならないように集中していた。
それから、動きが少し落ち着いてきた。
入れる。引く。上げる。
カヤックは滑った。流れと戦うのをやめると、それほど強くこがなくてもよかった。
パドルが水へ入る音は、追えるものになった。まだ直すのが遅れることはあったし、一度は向きがずれて、カイトの声が聞こえた。
「岸の方を向いてる」
ユキは顔を上げ、彼の言う通りだと気づいた。岸はさっきより近くなり、前では葦が水の上へ倒れかかっていた。
「分かってる」
カイトはそれ以上言わず、自分のカヤックを少し遅らせた。彼女が向きを直すまで、少し後ろの斜め横にいた。
ユキはこぐのをやめ、少しだけ流されてから、左側を小さくこいだ。
先端はゆっくり葦から離れた。
なめらかではなかったけれど、十分だった。
振り返ると、カイトはまだ近くにいた。
彼は小さくうなずき、また前へこぎ出した。
ユキは止めていた息を吐き、あとに続いた。
レンタルの受付は、もう曲がり角の向こうに消えていた。世界は、水と木々と光、それから水面の上で不思議に届く家族の声へ変わっていた。
川の上のカイトは、いつもより目が覚めているように見えた。
大きな声を出すわけではない。はっきり楽しんでいる様子を見せるわけでもない。けれど、水の先を見て、進む向きを直し、浅いところを知らせるために振り返って声をかけ、時々少しのあいだ動かず流れに運ばれる彼を見ていると、この数日彼にあった重さは見えにくくなった。たぶん楽しいのだろうと思えた。本人は、たぶん口にはしないけれど。
ユキは、それがなぜ自分をうれしくさせるのか、立ち止まって考えなかった。手の中のパドル、顔に当たる風、前方で曲がっていく川のあいだに、そんな余白はなかった。
広いところで、浅い石の列を挟んで水が二つに分かれた。父が先に行き、それからどちら側を通ったのか示すために片手を上げた。
カイトは、分かったふりをせずに速度を落とした。ユキも同じようにして、父が通った道筋を見ながら、数秒だけ流れに運ばれた。
「あっち?」ユキが声をかけた。
「だと思う」とカイトが言った。
「思う?」
「お父さんについていく」
「兄さんについていくより安全そう」
「うん」
その返事があまりに素直だったので、ユキは笑い、父の線に合わせてカヤックの向きを変えた。
最初の浅い曲がり角は、石のあいだを川が細くなる、長くなめらかな区間のあとに来た。父は速度を落とし、二人が通るのを見られるようにカヤックを少し横に向けた。
「真ん中寄りに」と父が声をかけた。「右に水面すれすれの岩がある。近づきすぎるな」
ユキが先に行った。
手に力が入った。それから母に言われたことを思い出し、力を抜いた。カヤックは動く水の上で軽く傾いたけれど、岩には余裕を持って通り過ぎた。一瞬だけ、誇らしくなって振り返った。
カイトは前の水ではなく、ユキのカヤックを見ていた。
「兄さん」
言いかけたとき、彼のカヤックがこすれた。
音は大きくなかった。でも全員が振り向くには十分、鋭かった。先端が隠れていた岩に一瞬引っかかり、向きが変わって片側が持ち上がった。カイトは反対側へ体重をかけるのが早すぎた。パドルが水を叩いた。水しぶきが扇のように上がり、袖と胸元、それから顔の一部にかかった。
一息分のあいだ、ユキは彼が落ちると思った。
それからカヤックはまた平らになった。
カイトはぎこちなくパドルを前に持ったまま、固まっていた。前髪から水が落ちている。
父は動こうとしたようだったが、カヤックが安定したのを見て踏みとどまった。
「大丈夫か?」
カイトは片目の水を拭った。
「大丈夫」
母が後ろから近づいてきた。
「どこかぶつけた?」
「ぶつけてない」
ユキはパドルを水に入れたまま動かさなかった。
しばらく、彼を見ていることしかできなかった。濡れた前髪。湿った袖。足元で一度揺れてから落ち着いたカヤック。
彼がこちらを向いた。
「そういう顔するな」とカイトが言った。
ユキは止めていた息を吐いた。
「落ちるかと思った」
「落ちてない」
彼の声が十分落ち着いていたので、ユキ自身の緊張もその周りで少しずつ落ち着き始めた。
「ほとんど」
母は近づいて、もう一度彼を見た。
「大丈夫ね。でも、だから曲がり角の前は前を見るの」
カイトの耳が赤くなった。
「前は見てた」
ユキは岩を見て、それから彼を見た。
「ずっとじゃなかった」
彼は言い返さなかった。ただ、今度はもう少し慎重にパドルを水へ入れた。
父はカイトが浅い場所を通り過ぎるまで待ってから、また前を向いた。
そのあとの数分、ユキは彼のカヤックが安定しているか何度も確かめた。安定していた。カイトはさっきより慎重にこぎ、一つ一つの普通の動きが、ユキの胸の固さを少しずつほどいていった。
曲がり角を過ぎると、川は広くなった。風が水面の上を走り、細かな模様を作る。葦の中から鳥が一羽、鋭い声を上げて飛び立ち、彼らの前を横切って木々の中へ消えた。ユキは少し斜め後ろからカイトを追い、彼がさっきより丁寧に向きを直すのを見ていた。
時々、袖からまだ水が落ちていた。
それに気づいてユキは笑った。落ち着いたら、そのことでからかえると思った。
川は、ずっと話していられるほど簡単ではなかった。読まなければならない曲がり角があり、避ける浅瀬があり、向かい風が来てユキの肩を痛くさせる区間があった。父が役に立つことを声に出すこともあれば、息を別のことに使っているので、うなずくだけで返すこともあった。
その静けさは空っぽではなかった。
その中にも流れがあった。
最初の長い区間を終えたあと、四人は砂利の岸に着いた。
そこはゆるいカーブの内側にあり、木々のそばに色のあせた小さな木の杭が立っていた。水の流れは穏やかで、一艇ずつ寄せることができた。父が最初に下り、みんなが岸へ上がるあいだカヤックを押さえた。立ち上がったとき、ユキの脚はふらつき、水に戻りかけたところをカイトが支えた。
「気をつけて」
ユキは下を見て、片方のかかとがまだ水に近すぎることに気づいた。
「ありがと」
カイトは、彼女の両足がちゃんと砂利の上に乗るまで支えていた。それから手を離した。
脚にはまだ頼りない感じが残っていた。川が陸の上までついてきたようだった。
カヤックを砂利の上へ少し引き上げ、四人は木の縁の近くに座った。隣では、川が石の上を一定の音で流れ続けている。葉のあいだから、光が揺れながら落ちてきた。整えられた意味でのピクニック場所ではなかった。テーブルも、屋根も、自販機も、きれいな四角い芝生もない。それでもそこは、川そのものに止まることを許された場所のように感じた。
母が水とおやつの袋を回した。
「ごみはこの袋に戻してね。包み紙を逃がさないように」
カイトは砂利の上に足を伸ばして座り、濡れた上着を見ていた。
「まだ濡れてる」とユキが言った。
「気づいてる」
「ぶつかった岩も気づいてると思う」
彼はユキを見て、それから上着の水の跡を見下ろした。
「乾く」
「たぶんキャンプまでには」
母がユキにビスケットの袋を渡した。
「水を飲むまでは、誰も食べないこと」
ボトルが回された。
「先に飲んで」
その小さなやり取りは薄れていき、しばらくはただ休んだ。
ビスケットは、家で食べるよりおいしく感じた。温かさで少し柔らかくなっていて、袖に川の水がまだ乾ききらないうちに食べたからかもしれない。小さな蟻がユキの靴のそばの石に登り、それから彼らには興味がないように向きを変えた。木々の奥では、虫の声が不揃いな波のように聞こえていた。
父は片手を後ろにつき、川を眺めた。
「このあたりは、あまり変わってないな」
ユキもその視線を追った。
「ここ?」
「この岸そのものじゃない。旧船着き場はもう少し下流だ。でも、この川のあたりは」父は曲がる水の方へうなずいた。「お母さんと、君たちが生まれる前にここを通った」
「私たちも若かったわね」と母が言った。
「過去ってだいたいそういうものだろ」
「荷物も持ちすぎていたわ」
「それは本当だ」
カイトは、興味がないふりをしきれていなかった。
「キャンプ?」
「一度は友達と」と父が言った。「そのあと、もう一度は二人で。友達とのときは騒がしかったな。誰かが米を忘れた。別の誰かは電池のないランタンを持ってきた」
ユキは、もっと若い二人を想像した。台所や夕食の席にいる両親ではなく、この同じ川の近くに、荷物を持ちすぎて、道を見失いながら座っている人たち。自分たちがまだ存在していないころの母のリュック姿。迷っていないふりをする父。物語を聞くユキもカイトもいないころの、水の上の光。
そのイメージは、長くは持てなかった。
「友達とはキャンプ地、見つけられたの?」ユキが聞いた。
「完全にはね」と母が言った。「地元の案内所に、登録制の宿泊場所の情報があったの。今使う場所も、その静かな方の一つよ。お父さんは、隠れているみたいな感じが気に入ったの」
「人が少ない感じがするんだ」と父が言った。
「登録制です」
「感じが、って言った」
カイトはボトルに手を伸ばした。
「つまり、お父さんの秘密の合法キャンプ地」
父がうなずいた。
「だいたい合ってる」
「だめよ」と母が言った。「調子に乗せないで」
そのあと、会話はまたやわらかくなった。
母は父を見ずに、半分に割ったビスケットを渡した。父も、ずっと前から決まっていた動作みたいにそれを受け取った。カイトは膝についた砂利を一粒払った。ユキはビスケットの袋を手の中で返してから、もう一度開けた。
カイトが一つ取ろうと前に体を倒し、それから止まって指を曲げ伸ばしした。
「腕?」ユキが聞いた。
「少し痛い」
「私も」ユキは片手を上げ、指を開いたり閉じたりした。手のひらは温かく、かすかにこわばっていた。「このあと歩く方が大変そう」
「荷物持つんだよな」
「うん」
カイトはカヤックの方を見た。
「まだ考えないようにしてた」
ユキは自分のチョコビスケットを一つ差し出した。
カイトはそれを見て、それから彼女を見た。
「落ちかけたから?」
「落ちなかったから」
彼は少ししてから受け取った。
「そっちの方がいい」
二人の指は触れなかった。ビスケットはきれいに渡った。普通で、乾いていて、もう少しだけ温かさで柔らかくなっている。カイトは二口でそれを食べ、それから何も重要なことはなかったみたいに川を見た。
ユキは自分の分を、もう少しゆっくり食べた。
疲れていた。ライフジャケットの下は温かかった。説明しようとしなくていい種類の満足があった。
しばらくのあいだ、それ以上考えなければならないことはなかった。
休憩のあと、コースの後半は、さっきより不安定ではなく、楽しく感じられた。
砂利の岸から、一艇ずつ出ていった。ゆるい流れへ押し出される。ユキのカヤックは座り直すときに揺れたけれど、手はさっきより自然にパドルを見つけた。数メートル先では、カイトが水の上で横向きになって待っていた。ユキがまっすぐになるまで、彼は後ろの空間を見ていた。
川は、長い呼吸のように狭くなったり広くなったりした。ほとんど水に触れそうな枝の下を通った。場所によっては、流れがあまりに穏やかに運んでくれるので、舵を取るだけでよかった。別の場所では、風が向かってきて、一メートルごとに長く感じた。パドルのブレードに陽が弾けた。水はユキの頬や手首、ライフジャケットの前に点々と飛んだ。
一度、カイトのカヤックの近くで魚が水面を割ったが、彼は振り返るのが遅くて見逃した。
「見逃した」とユキが言った。
「何を?」
「魚」
「どこ?」
「もういない」
カイトは、もう一度現れるかもしれないというように水を見た。
「当然そうなる」
ユキの笑いは、もう少し楽に出るようになっていた。
毎回ではない。いつも大きいわけでもない。けれど最近の学校で、笑ったあとに自分で気づくことがあったときより、ここでは測る前に出てきた。
広い曲がり角で、父は二人をしばらく並んでこがせた。ぶつからないくらいの距離を空けて。母は後ろで、急がず見守っていた。川は低い丘の方へ開けていた。木々は斜面を登り、根元は濃い緑で、上の葉は日が当たるところだけ明るかった。
カイトがパドルで、水の向こうの白っぽい岩筋を指した。
「あれ、顔に見える」
ユキは目を細めた。
「どこ?」
「左側。鼻と口」
最初はただの岩だった。それから、端の下の影が口になり、その上の出っ張りが鼻になった。
「あ」
「見える?」
「怒ってるみたい」
「少し」
「なんで怒った岩を教えたの?」
「こっちからだと、どれくらい怒ってるか分からなかった」
流されながら、ユキはもう一度それを見た。
「こっちの方がひどい」
川はまた別の曲がり角へ二人を運んだ。
そのあとは、ユキはしばらく話すのをやめた。腕の存在が大きくなりすぎていた。一こぎごとに肩のどこかが引かれ、それが背中の下の方へつながっていく。ライフジャケットは襟元のあたりをこすった。膝の位置を変えたかったけれど、変えられる場所はなかった。
それでも、早く終わってほしいとは思わなかった。
川が静かになる場所では、カイトのパドルが水へ入る音を、自分の音の近くに聞くことができた。違う間隔。似た音。彼は前にいて、隣に来て、それから母が浅いところを回るのを見るために速度を落とすと、少し後ろにいた。
ユキとカイトは、カヤックが特別うまいわけではなかった。
でも、朝よりはうまくなっていた。
それで十分だった。二人は不揃いに進み、遅れて直し、離れたり近づいたりしながら、川の形に合わせていた。疲れていたから、そして水が見るものを十分にくれていたから、話すことは減っていた。
父が、旧船着き場が近いと合図したころには、ユキの腕はもう注意するのをやめて、直接文句を言い始めていた。ライフジャケットの下で肩が痛い。カヤックに座っていたせいで、膝も固まっていた。
旧船着き場は見逃しやすかった。
最初は右岸の木々が切れた場所として見え、それから葦に半分隠れた、平らな土と石の細い帯だと分かった。縁の近くには、古くて簡素な木の標識が立ち、矢印が遊歩道を指していた。その向こうで、地面は木々の中へ上っている。
父は一艇ずつ誘導した。
降りるとき、ユキはまた自分の脚が川の途中で頼りなくなっていることに気づいた。でも今度は、川の方へ倒れないようにした。
ストラップ、船着き場の低い金属の輪、どのバッグを先に持っていくのか。それらを分かる形にするには、四人全員が必要だった。
父はメインのロープを扱い、母はリストと照らし合わせながらドライバッグを確認した。ユキは小さいストラップの一つを使って、自分のカヤックの前側を船着き場の金属の輪に固定した。
カイトがその横にしゃがみ、指さした。
「ねじれてる」
ユキは下を見た。
確かにねじれていた。
「あ」
彼が手を出す前に、ユキは直した。カイトは待ち、彼女が終えるとストラップを一度引いた。
「これなら大丈夫だと思う」
ユキはうなずいた。疲れていたので、彼が確認したことも特に気にならなかった。
母はドライバッグを下ろし始め、水から離れた場所へ一列に置いた。
「早めに歩き始めた方がいいわね」と母が言った。「明るいうちにテントを立てて、印のある薪置き場から薪を運んでおきたいし。休むのはそれからにしましょう」
父は一番大きなドライバッグを持ち上げ、肩にストラップをかけ直した。
「これは俺が持つ」
「それと焚き火台のケースも」と母が言った。
父は言い返さずに、二つ目の荷物も受け取った。
旧船着き場の後ろから始まる遊歩道は、木々のあいだを上っていた。歩き始めるまでは緩やかに見える坂だった。
山登りというほどではない。案内に難しいとは書かれないような道だった。それでも、長い車移動、カヤックの練習、川下りのあとでは、荷物を持って一キロ半ほど歩くのは、思ったより長く感じた。
ドライバッグのストラップがユキの肩に食い込んだ。足元では葉が割れる音がした。木の下では空気が涼しくなり、土、苔、古い樹皮の匂いがした。
父は重い荷物を持って先頭を歩いた。
母は食べ物と水の容器の一つを持ち、ときどき止まって、みんなが近くにいるか確かめた。カイトは、ユキが思うより多く持っていたけれど、文句は言わなかった。ユキは小さめのドライバッグ、自分の鞄、それから巻いたマットを持っていた。マットは変な位置に結びついていて、歩くたびに足の後ろを叩いた。
最初の数分、誰もあまり話さなかった。
遊歩道は、川とは違う形で注意を奪った。水の上では、世界は外へ開いていた。ここでは、根、石、影、次の数歩へ狭まっていく。最初のうちは、背後から川の音が残っていた。それも歩くにつれて薄れ、車を降りてから初めてのような静けさに変わっていった。
巻いたマットが五回目に足へ当たったところで、ユキは止まって振り返った。
カイトがぶつかりそうになった。
「何?」
「これ、足に当たる」
彼はマットと、緩んだストラップを見た。
「こっち側がずれてる」
「ちゃんと結んだと思ったのに」
「片方は締まってる」
「それでか」
ユキはストラップの端を渡した。カイトはそれを直し、結び目をきつくしてから一歩下がった。
「歩いてみて」
ユキは三歩進んだ。マットは動かなかった。
「よくなった」
数秒後に、ユキは小さくありがとうと言った。聞こえないふりをしたければできるくらいの声だった。けれど彼は聞いていた。答えは喉の奥の小さな音だけで、そのあと根をまたいだ。
道は川から離れ、それからまた川の方へ曲がった。木々のあいだから水音が聞こえることもあれば、虫の声と自分たちの足音だけになることもあった。小さな動物が前方の道を横切り、ユキが何かちゃんと見分ける前に下草の中へ消えた。
分かれ道の近くで、父が止まり、左を見た。
母は足を緩めずに言った。
「右」
父はもう一度標識を見た。
「右だな」
「左を考えていたわね」
「標識を確認していた」
「標識は右を指しているわ」
「それが助かった」
カイトは息を吐いた。ほとんど笑いのようだったけれど、何かを足すには疲れすぎていた。
太い綱のような根が道を横切っている大きな木のそばで、水を飲むために止まった。ユキは数秒、幹に背を預けた。ドライバッグに横へ引っ張られないよう気をつける。肩は熱を持ち、顔のそばでは髪が緩んでいて、手には川の水とストラップのプラスチックの匂いがかすかに残っていた。
カイトは近くでボトルの水を飲んでいた。上着はほとんど乾いていたけれど、さっき川で濡れたところだけ、薄い跡が残っている。
「静かだね」とユキが言った。
「疲れてる」
ユキは彼の手の中のボトルを見て、それから袖を見た。
「私も」
少し前から、母が振り返った。
「二人とも大丈夫?」
「大丈夫」とカイトが言った。
ユキもうなずいた。
「よかった。じゃあ、もう少し」
十分ほどすると、木々が薄くなり始めた。
空気は湿った土の匂いよりも、日の当たった枯れ葉の匂いになっていった。道は少し下り、二つの岩のあいだを曲がり、不意に小さな空き地へ出た。
一瞬、ユキは肩に食い込んでいたストラップのことを忘れた。
キャンプ地は、木々に囲まれた平らな場所にあった。向こう側の斜面の下から、川の音が聞こえる。広くはない。小屋も、自販機も、ほかのテントも、停まっている車もなかった。入口の近くには小さな木の標識があり、場所の名前と登録番号が焼きつけられている。片側には簡単な指定調理場所があった。平らに整えられた淡い砂利の区画、火の扱いについて書かれた古い標識、金属の灰入れ、それから、気をつけていれば火の粉が木に届かないくらいの空間。
そのほかは、草と固い土と散った葉だった。
枝のあいだから斜めに日が入り、空き地を不揃いな金色で照らしていた。空気には、夕方に近い乾いた匂いと、たくさんの木に囲まれているせいの新鮮な匂いがあった。
父は満足そうに息をついて、ドライバッグを下ろした。
「ここだ」
母は彼の横に荷物を置き、周りを見回した。
「運がよかったわね。私たちだけみたい」
父は調理場所を見て、それからその向こうの木々を見た。
「久しぶりだな」
一瞬、ユキはそこが自分とカイトのものになる前に、両親のものだったのだと想像できた。もっと若い両親が、同じ空き地に立っている。荷物を持ちすぎて、指示を待つ子どもはいない。その考えは数秒しか続かなかった。カイトが彼女のそばで、荷物を少し重く下ろしたからだった。
ドライバッグが鈍い音を立てて地面に当たった。
母が振り向いた。
「それは気をつけて」
カイトは下を見た。
「食べ物だった?」
「違う」と父が言った。「でも投げない方がいいものの袋だ」
カイトは疲れすぎていて、何か返すかどうか考えたあと、やめたようだった。
ユキは空き地ではなく、彼を見た。ヘルメットのストラップと風のせいで、こめかみのあたりの髪が少しつぶれている。ズボンの片膝には土がついていた。彼女と同じくらい疲れているように見えた。それでも、目は空き地に向いていて、次に動く前にちゃんと見ておきたいと思っているようだった。
一日が、彼を疲れさせた。
それでも、彼を戻してもいた。
ユキはまたうれしくなった。そして、ここまで来られたことに満たされた。
しばらくのあいだ、四人はただそこに立っていた。
父は記憶と比べるように空き地を見回していた。母は食べ物の袋の上から葉を一枚払い、濡らしてはいけないものが大丈夫か確認し始めている。
母が一度手を叩いた。大きな音ではなかったけれど、四人を集めるには十分だった。
「暗くなる前に始めましょう。眺めるのは作業しながらでもできるわ」
父はドライバッグの一つから、黒いケースと畳まれた灰色のシートを取り出した。
「焚き火台とシートを調理場所へ持っていく」
「地面に直接火はつけないで」と母が言った。
「覚えてる」
「さっき左の曲がり角を覚えていたくらい?」
「それとは違う」
父は返事を避けるように、焚き火台のケースを持ち上げた。
母は調理場所の方を見た。灰入れの横には、切った薪が小さく積まれ、簡単な札の下に置かれている。
「スタッフの人が、あの印のある薪置き場は登録者用だって言っていたわ」と母が続けた。「ここはあまり使われないからって。森のものは拾わないこと」
父がうなずいた。
「印のあるところだけだな」
カイトは、空き地の中でいちばん平らそうな場所の近くにテントの袋を置いた。リビングで見たときより長く、色も濃く見えた。道中でついた乾いた草が、もう少し布に絡んでいる。
母がユキにペグの袋を渡した。
「二人はテントを始めて」
ユキは空き地の中のカイトのところへ歩いていった。
テントの袋は二人のあいだに横たわっていた。リビングで見たときより長く見える。
カイトはしゃがみ、ポールを通す部分を探した。
「一回練習した」
ユキは木々と、そのあいだで低くなっていく光を見た。
「一回は、多くないよ」
「うん」
それでも彼はテントの袋のファスナーを開け、ポールを引き出し始めた。




