婚約解消
冬季休暇まであと数日の昼休み。
いつもの様に図書室でランチを取りながらグレイスは何げなく聞いた。
「トーマス様がおっしゃってらしたのですがルーファス様は学園のレストランがお嫌いとか?」
最近の学園ではルーファスとトーマスの話題でグレイスとライアンの噂が下火になっている。侯爵家の放蕩息子が辺境伯の息子を誑かし二人で街を遊び歩いている、と言う噂である。
なぜなら放課後一緒に何処かへ消えて行く姿が再度目撃されていたからである。
二人が消えて行く所は街では無くバートン家の通用門であったが、バートン家令嬢との事を取り沙汰されたくない二人にとってはかえって都合が良い噂だった。
創立記念日以後アリスは体調の悪化と称し学園を休んでいた。冬季休暇まで間もない事もあるが何より本人がライアンに絡まれる事を避けたがったのが原因である。
トーマスはバートン邸を訪ねて講義に出ていないアリスの勉強を手伝っている。
それが嬉しいのか気が引けるのかアリスはいつもにも増して真剣に励んでいるのである。
一方、ルーファスがバートン邸を訪れる理由は所謂〝婿入り修行〟である。
ルーファスはバートン伯爵から仕事を辞めて邸に通う事を命じられた。
伯爵家の経営についての指導を受ける為である。
それに伴って伯爵家からの金銭援助を受ける事もまた命じられたのだ。
ルーファスは素直に納得し有難くバートン伯爵の命を受け容れ先週で雑貨店を辞めた。
グレイスとの未来へ方向性を定めた今は労働の露見で退学にでもなれば本末転倒だし何より婿としての自身の価値を伯爵に認めて貰う事が肝要であるからだ。
かくして現在は、まだ多方面には大っぴらに出来ないにしても立派なグレイスの婚約者扱いを受けている。
「トーマス様が“放課後にレストランで〟と誘ったら一考の余地無く断わられたと笑ってらしたので⋯何かお嫌な所が?」
噂など物ともしない朗らかで屈託のないトーマスに懐かれたのか、学園で一緒に行動している姿を最近よく見かけていた。
一緒にバートン邸に向う際の待ち合わせ場所の話ででもあったのだろうか。
ルーファスは暫し俯いた、学園では相変らず黒髪の下のその表情はよく分からない。
「う⋯ん。情け無い話だって呆れられるかも知れないけど⋯白状すると⋯怖かったんだ」微かに唇が上がった。
「あの、レストランの壁にある女性の肖像画を知っている?
あれ、あのモデルは実は⋯⋯僕の母親だって⋯以前、聞いたんだよ」
「⋯え?」話の方向が以外過ぎてグレイスは言葉を失った。
高等部に通い始めてからルーファスはレストランの壁の絵の女性が自分に似ている気がして少し気にはしていた。
だが、さほどレストランに行く機会も無く忘れかけていた頃、ライアンが入学して来たのだ。ライアンも同じ事を思ったらしく母親のヴィクトリアにその不思議を語ったらしい。
「その絵のモデルはルーファスを生んだ女で学生時代にふしだらにも美術教師を籠絡して自身の肖像画を描かせたのよ」
と教えて貰ったとライアンはルーファスに語った。
母の言葉の内容にさらに悪意を込めてこの言い方になったのだろうか。
何て事を⋯グレイスは思った。
ヴィクトリア夫人にしても、母親たる者が臆面もなく息子にする話だろうか⋯
ますます苦手になってしまう。
「それを聞いてからあの絵が⋯もしあの絵に近付いて見比べられる事でもあったらと怖くなって」
ライアンの話した事すべてが本当だとは思わないが絵の女性が母親なのは間違い無い気がした。
今の学生が気付き、もし親や教師に事情を知る者でもいたら⋯詮索されるのは嫌だし少しでも話題にされたく無い。
何かあって侯爵家に余計に目を付けられるのが怖かった。
そうしてルーファスは学園でますます顔を隠し身を潜める様になって行った。
言われてみれば確かに似ている。グレイスは思った。
なぜ今迄、気が付かなかったのか⋯あの絵はいつも暫し見惚れる程気に入っていたはずなのに。
女性の肖像画に男性のルーファスを重ねる事が無かったからなのかもしれない。
でもそれよりグレイスが意外だった事がある。
「私、ルーファス様が学園で顔をお隠しになる理由はライアン様のせいだとばかり⋯」
「え、何⋯で?」ルーファスは何を言われたのかわからないようだった。
「だって彼より優れた所はすべて封印されていたんですよね?」
「は⋯?」
彼のきょとん顔もさぞ可愛いのだろうな⋯いや、そんな事より⋯。グレイスは溜息を堪えて思った。
この方の地を這う自己肯定感を培った人達と一日でも早く決別して頂かなければ⋯。
冬季休暇初日の午後。
グレイスとバートン伯爵夫妻はラッセル家の応接間にいた。
ライアンは侯爵夫人ヴィクトリアと叔父で後見のバレン伯爵に護られる様に座ってこちらを見下す様な視線を送ってきていた。
“虎の威を借る狐”とはこの事かしら⋯グレイスは内心で思った。
「お越し頂いた理由はお分かりですわね⋯グレイス様。学園のダンスパーティであなたが起こした揉め事についてご両親は御存知なのかしら?」
ヴィクトリア夫人が切り出した。
口を開こうとしたグレイスをバートン伯爵が手で止めた。
「何を仰っておられるのか分かりませんな。娘が揉め事を起こしたなどと言う事実は一切ございませんよ。」
ヴィクトリア夫人は眉を上げてから少し黙った。そして溜息を吐いてから言った。
「そちらのご意向は承知いたしましたわ。致し方ございませんわね⋯
では、パーシー」バレン伯に目を向ける。
呼ばれたバレン伯は手にしていた書類を2枚テーブルに並べ指差した。
「⋯こちらが婚約解消についての同意書で、もう1枚が新たな婚姻申込書です」
ヴィクトリア夫人は頷き言った「⋯こちらにサインを頂けますかしら?」
バートン伯爵は2枚の書類にさっと目を走らせた。
「なる程⋯。では御子息と我家の長女の婚約解消は円満な⋯という形でよろしいですか?」
「勿論でございますわ。グレイス様がまともな御令嬢ならきっとまた新しいお相手が見つかりますわよ」
笑いながら「ええ⋯きっとすぐに」と持っていた扇で口を隠した。
この時期で令嬢が婚約解消ではまともな相手などもう無理だと言いたいのだろう⋯
グレイスは安心した。ルーファスの事などまだ知る由もないのだ。
バートン伯爵は添えてあったペンで婚約解消の書類に署名した。
「このお互いの贈与品の返還の項目は‹無し›とさせて頂いてもよろしいかな?」とグレイスを見た。
「はい。宝飾品やドレスなども一切、頂いた事はございません」仲が拗れる前でさえ花束くらいしか贈られた事はない、なので当然こちらも以前は贈っていた誕生日プレゼントさえもう何年も忘れたふりをしていた。
ヴィクトリア夫人とライアンが憮然とした顔でこちらを見た。
体裁が悪いのも仕方ないでしょ、事実なんだから⋯グレイスはちらっと見返してツンと顎をあげた。
ペンを置いたバートン伯爵は指を組み膝に置きながら、サインの為少し屈んでいた身体を起こした。
「⋯これで長女の婚約解消は円満に成立したという事でよろしいですか?
で、こちらの当家次女に対する婚姻の申し込みの方は意味がわかりませんね」
書類に目をやっていたバレン伯爵がゆっくりと目を上げた。
「貴族家同士の婚姻話は相手が問題を起こしたり不都合があった場合その弟妹を新たに差し替えるのは儘ある事です⋯」
この言葉にバートン伯爵は目に剣呑さを含めた。
「先程、長女の婚約解消は円満に成立したかとお聞き致しましたが何か異議でも御座いましたか?もし貴殿が当家に問題があると仰せなら、当方にも申し上げたい事などいくらでも御座いますよ」
そして不愉快げに続けた。
「ライアン殿は御次男でしょう。それゆえ当家長女との婚姻を望まれていた筈、
次女と婚姻して何となさる?次女の婿に爵位を譲るつもりは御座いませんよ」
バレン伯爵は口を閉じてしまった。
ヴィクトリア夫人は強張ってはいるが笑顔を作って言う。
「勿論、円満でございます異議は御座いませんわ。この度の事はまあ⋯私どもは令嬢として如何なものか⋯と思いましたけれど、各家それぞれの教育方針というものも御座いましょうし⋯ねえ」
いったいライアンはあの時の事をどうゆう風に母親に説明したのか、学園の噂を考えれば推して知るべきであろう。
それに⋯とヴィクトリア夫人は続けた。
「後継の事についての心配は御無用で御座いますわ。ラッセル侯爵家はライアンに継がせる事になると思いますのよ。当家がアリス様を望むのはそれも理由で御座いますわ。」
その言葉を聞いたライアンはまたも見下す様な視線をグレイスに向けた。
まるで自分だけ貰った玩具を見せびらかす幼児のようだ。
グレイスは段々と腹が立って来た。
ヴィクトリア夫人は続ける。
「当家長男の評判は伯爵様もお聞き及びでございましょう?私、愛情を以てあの子を育ててまいりましたのに⋯あの子は幾ら言っても心を入れ替えてくれませんのよ。それに何事に於いても次男の方が優れておりますでしょう?⋯とても悲しい事ですけれど長男に家督は無理だと判断いたしておりますの⋯」
嘘つきっ⋯虐げたくせに。
悪評をばら撒いたのもどうせ侯爵家なのよ⋯
最初からルーファスを排斥するつもりだったでしょう!?
それに彼は粗大ゴミ男より何万倍も優秀だわっ。
グレイスが侯爵夫人を睨め付けそうな気配を察してマーガレット夫人が何気なさを装い娘の膝に軽く手を置いて横目で制した。
「ですので当家はアリス様に嫁いで来て頂いて一向に構いませんのよ⋯⋯そしてグレイス様。あなたの悲しくて悔しい気持ちは良く解るわ。でも御姉様ですもの、妹の幸せを願うべきではなくて?だって二人は愛し合っていますのよ」
バートン夫妻は驚いて目を見開いた。
「アリスが⋯次女が⋯いつ?いつその様な⋯その様に見える素振りでも致しましたか?」全て夫に任せるつもりでいたマーガレット夫人も余りの事につい口を挟んでしまった。
「アリス様はいつも御姉様に遠慮していらして、お気持ちを表せないと⋯⋯そうね?ライアン」
「そうです。初めて出会った時にアリスの気持ちに気付きました」ライアンは胸を張ってそう言った。
アリスは僕が見詰めるといつも恥ずかしそうに目を逸らし俯く。姉の婚約者である立場の僕に憧れ恋する愛らしい少女なのだ。でも優しく気弱なアリスは姉を慮って自分の心を少しも口に出来ないでいる。
その姿をいじらしく愛しいと思ったライアンは年を追うごとに惹かれていった。
「特に近頃は僕の母上に似た美しい金の髪もエメラルドのような瞳も輝きを増して⋯彼女ももう僕への気持ちを隠し切れていないのです」
バートン夫妻は何とも言えない様な表情でお互いを見た。
もしやと思ってはいたけどこの方本当に愚かだったのね。
全て間違った独り善がりの解釈にグレイスは呆れて暫し怒りを棚上げした。
アリスがライアンの目を見ないのは厭だからであって微塵も恥ずかしがってはいない。そして近頃綺麗になって来たのならそれはライアンではなくトーマスに向けた恋心ゆえだ。
それに、僕の母上に似たって何?アリスの顔立ちはうちの母似なのよ、ヴィクトリア夫人と同じなのはせいぜい色合いくらいじゃない⋯
ああ、この粗大ゴミは頭がおかしい上にマザコンだったのね⋯
グレイスは心の中でけっこう毒づいていた。
「⋯とにかく」ようやく立ち直ったバートン伯爵が話を元に戻した。
「貴家にどんな事情がお有りだろうが次女との婚姻はお断りいたしましょう。」
見当違いな事でも言われたような表情でライアンはバートン伯爵を見返した。
「僕がこんなに説明したのに⋯僕がこんなに望んで差し上げているのに⋯
なぜお分かり頂け無いのでしょうか?」
ライアンは悲劇の主人公にでもなった様に嘆いた。
「ライアン⋯諦めなければいつか許して頂けるわ。そうだわ!
お手紙を差し上げなさい。アリス様にも勇気を出して頂けるようなお手紙⋯
伯爵にことづけて頂くのよ⋯」
ヴィクトリア夫人はライアンの手を握り締め励ます。
グレイスは頭が痛くなって来た。最愛の息子の言葉かも知れないがこんなにも盲目的に信じきれるものなのかしら⋯?
「いや、申し訳ないが諦めて頂く。手紙もお預かりなどいたしませんよ。
なぜなのかと言うと⋯披露前なのでまだ伏しておりましたが⋯当家次女アリスは」
バートン伯爵は息を継ぎ、言った。
「⋯既に嫁ぎ先が決まっておりますので」一瞬の一同の沈黙のあとライアンが
「!?⋯うっ⋯嘘をつくな!」
さっきグレイスが心の中で叫んだ言葉を本当に叫んだ。




