毒の話
ラッセル侯爵家とバートン伯爵家の仲は決裂した。
侯爵家の要望を伯爵が容赦無くぶった切り席を蹴って帰る結末を迎えたからである。侯爵家にしてもいつも温和なバートン伯爵がこれ程強硬な姿勢を見せるとは思わなかっただろう。
ヴィクトリア夫人が脅しても透かしてもライアンがいくら駄々を捏ねようが伯爵夫妻は決して娘を差し出したりはしなかった。
しかし、ラッセル家訪問の時のライアンの言動を聞いたアリスはひどく不安を感じる様子をみせた。
一計を案じた夫妻はアリスを辺境伯領へ帰ると言うトーマスに託し同行させる事にした。王都にいれば不安もあるし見知らぬ土地は気晴しになろう。何よりいずれ嫁ぐであろう地を見ておくのも良いとの配慮である。
アリスの機嫌は途端に直り夫妻を呆れさせた事は言うまでもない。
今朝、専属の侍女と護衛を付けて二人を送り出したところである。
ライアンの為人は充分知っている、もうどちらの娘とも関わらせたくは無い。
幸い長女への懸念は解消した。
夫妻は婿になるだろう青年を殊の外気に入っている。
以前の婿候補と比較対象出来た事が大きいのだろう。
人柄にも能力にも雲泥の差があった。自己を肯定する力は乏しいものの、その素直な部分もまたいじらしく思え伯爵夫妻の親心をくすぐる要因になった。
可愛がられ既に息子同然に扱われている。
冬季休暇に入るのと同時にルーファスは殆どを伯爵邸で過ごすようになった。
伯爵の業務補佐は普段よりはるかに時間がさける分格段に多くを学べるし、合間には本来の自分の学業の為の時間もとれる。
バートン夫妻に与えられる慈しみに涙し心底から感謝して期待に応えたいと懸命に励んでいる。自分には縁が無いと諦めていたグレイスが側に居る事も夢ではないかと思うほど幸福なのだ。
しぜんルーファスは以前に比べ格段に多彩な表情を見せるようになって行った。
邸のダイニングルームで家族の晩餐をかこみながらバートン伯爵が切り出した。
「グレイスの婚約解消が叶った今は、うちが君の婿入りを望んでいる事はラッセル家に伝えない方が賢明だろう」
ルーファスは食事も全て伯爵邸で取っている。
休暇中、学生の殆どが居なくなる寮は食堂を閉鎖してしまう。今、学生寮は帰って寝るだけの場所だ。
「わかっています。侯爵家いえ、侯爵夫人に僕は憎まれています。伝えても許されない⋯彼女は僕の幸福を望まないから」
艶の出た黒髪を項で纏めた顔を曇らせ俯いて言った。
グレイスに出会ってから今日迄で少し肉付が良くなり以前のような薄く尖った印象も薄れている。
「うん。まあ、そこなんだが⋯グレイスとの縁が無くなった今ライアン殿の為にラッセル家は早く君を廃嫡したいだろう?しかし世間の悪評など証拠も無い曖昧な噂ではかなり難しい。今迄の経験でそこはもう侯爵家も解っているはずだ⋯そこで君に提案なんだ」
伯爵はルーファスの顔を真っ直ぐ見つめて言った。
「今、君が自ら廃嫡を願い出てはどうだろう?」
グレイスは父の言葉に驚いた「お父様、そんな事をすればルーファス様は学園を卒業出来なくなってしまいませんか?」
学費も払われないし、第一あの学園で貴族家を追われた者が学ぶ事は事実上許されない。
「ラッセル家はまだ我家とルーファスの関りを知らないんだ。
⋯私が味方をするとは思ってもみないだろう?」
ルーファスに向き直って微かに笑む。
「君は今まで散々虐げられて来た。とうとう噂にも世間の扱いにも耐え切れなくなって後先考えずに逃げ出すんだ。⋯⋯愚かにもね」
マーガレット夫人が「そうすればヴィクトリア様はきっと、さっきのグレイスと同じ事をお考えになりますわね。あの方にとっては一石二鳥じゃございません?喜んで願いを叶えて頂けそう」とこちらも薄く笑んだ。
グレイスとルーファスは目を見合わせた。
そこからが私の出番だよ⋯と伯爵は続けた。
「廃嫡届が出され承認されたら、間を置かず私は君達の結婚許可証を請求する」
廃嫡されたルーファスの身はもう〈縁者のいない野良の貴族〉というだけでしかない。結婚にも許可は必要無いしどう言う身の振り方をしようが顧みられない存在となる筈だ。
わが国教の結婚許可証は貴族家当主の名で当主本人が書類を揃え請求さえすれば、教会は即日発行する。
日を置かずルーファスは伯爵家の娘婿、次代の伯爵である。
当然、学費も伯爵家から出せるから全てが保持され学園の問題も解決する。
さらに後々ルーファスが上位の成績で卒業出来れば人々の見る目も変わり一瞬の凋落など「何か家同士で複雑な事情でもあったのだろう」くらいで見過され周囲の反発も世間の噂も最小限に押さえられるはずだ。
「どうだろう。ルーファス?」
問いに迷い無く伯爵を見つめ答えた。
「⋯はい、やってみます。よろしくお願いいたします」
ルーファスにとって侯爵家の呪縛から解き放たれるまたとない機会なのだ。
「あら、ではもうすぐ二人はご夫婦ね?すてきだわ」
「ただし!グレイスの卒業までは書類上のみの夫妻だよ」
父母の掛け合いを聞きながらグレイスは希望と不安で胸が少し苦しくなってルーファスを見やった。
彼は息を詰め緊張しているように見える。
当然だ廃嫡は思い荷となり得る。が、このままにしていても彼は結局は似たような結果を押し付けられるだろう。
だったら先手を打つと云う父の判断は妥当に思える。
あぁ、父の思惑が上手くゆくと良い⋯もう二度と彼に辛い思いはしてほしくない。
グレイスは切実にそう思った。
侯爵家への連絡は手紙が妥当との判断で返信用の私書箱を設けた上で数日後に郵送した。
内容は廃嫡を希望する旨と 廃嫡届提出後は家督財産の再請求をしない事。 廃嫡後は妨害暴行等で接触しない事。
それらを記した交互の署名入の契約書の作成、である。
ルーファスは祈る気持ちで投函した後、姿を隠した。
人生の大きな分岐点になるだろう今、事が成るまで居場所や動向を侯爵家に知られないよう伯爵の提案で邸に引き篭もったのである。
学園の寮も引き払って伯爵邸に部屋が与えられた。
邸は広く何の不自由も無かったが、宙ぶらりんな自分に焦る気持ちを宥めながら
伯爵の手伝いと勉強に励んでいた頃。
アリスとトーマスが辺境伯を伴って帰邸した。
アリス達が伯爵邸に着いたのは新年まであと数日の午後である。
先触れがあったので辺境伯の歓迎の準備は整えられて居て
その日の晩餐は大層賑やかだった。
トーマスと似た見事な体躯の辺境伯は笑顔を振り撒き終始機嫌が良さそうだった。両家の顔合わせも無事に果たし、夜更けにトーマス親子は辺境伯家のタウンハウスに帰って行った。
「王都に着いたばかりだと言うのにお疲れのご様子もお見せにならなくて、流石辺境を統べる方ですわね。」
母の言葉に、辺境の地が気にいったらしく上機嫌のアリスは「そうなのですお母様。とてもお強い上に優しい方で、親子二人家族でも少しも寂しく無かったってトーマス様、おっしゃるのよ」と笑った。
トーマスは幼い時に母を亡くし、辺境伯は周りが勧める再婚も全て断って一人息子を守り育てたらしい。
とは言っても乳母やメイドや侍従等、昔からの家族のような使用人がトーマスの実質の面倒は見てくれた。
辺境伯は出来うる限りの時間を割いて優しく時に厳しく息子を慈しんだのだ。
トーマスはそんな父をたいそう尊敬している。
「早めに休みなさい。明日からも暫く忙しいのだから」
心配顔の父に促されアリスは素直に自室へ戻って行った。
笑顔を溢れさすアリスも長旅だったので身体は疲れている。
それに明日からはパーティーの身支度の準備もある。
ドレスの注文は既にしていて明日は試着の為に衣装商が訪れる、直しもあるだろうし小物選びもこれからだ。
毎年開かれる王宮の新年祝賀の夜会までさほどの間はない。
辺境伯の来都の主要な目的もこれで、この機会に王に辺境の現状や要望を伝えるのである。それ意外で王都を訪れる事は滅多に無いのでいろいろと手筈や根回しもあるのだ。
それに今回は息子の婚約の周知もしなければならない。
伯爵家も辺境伯家も暫し大忙しである。
そんな中グレイスはルーファスに袖を引かれ立ち止まった。
「トーマス殿が先程、帰り際にラッセル家について耳に入れたい話があると⋯僕にだけ話したいと言うんだ」
それでルーファスは明日また夕食後の再訪を願った。
「君には隠し事など何もない。あの家とはもう関わる事も嫌だが知っておく必要のある話かも知れない⋯君に一緒に居て欲しいんだ」
グレイスは不安気なルーファスの肘に軽く触れ黙って頷いた。
何があろうと支えるのは自分でありたい。
翌日、夕食が終わり伯爵家の面々が丁度サロンに移動した頃にトーマスの来訪があった。怪しさ満載の“ルーファス殿に学園の課題についての質問がしたい”との口実での訪いであった。
場を読んだ夫妻が「私達はここでもう少しワインを楽しんでいるよ」と笑ってくれ、アリスもある程度事情を飲み込んでいるのか「ごゆっくり」と自室に引き上げて行ってくれた。
応接間に案内されたトーマスにグレイスの同席を乞うと「僕も誰にどこまで話して良いか判断が付かなかったのです⋯なのでルーファス殿のご判断におまかせします」と笑って頷き、話を始めた。
「⋯⋯バレン伯爵をご存知ですよね。実はバレン伯領はマーシャル辺境伯領に隣接していて⋯そこに夫人がお住まいなんです」
二人は話が意外な方面から飛んできたように感じて顔を見合わせた。
グレイスはラッセル邸でのバレン伯爵の陰気そうな面差しを思い浮かべ「バレン伯爵とお知り合いなのですか?」と聞いた。
グレイスの問いに「いえ、伯爵にはお会いした事はありません。ですが夫人⋯夫人はオーレリアと言うお名前で⋯」
トーマスは幼い頃オーレリア小母様と呼ぶくらい親しく交流があったと言う。
「それで、あの⋯話は少し飛ぶのですが⋯以前ルーファス殿のお話し下さった⋯その、毒、の話なのですが」
幼い頃ラッセル家で盛られた毒の事だろう。バートン家へ通い始めた頃、ルーファスは自分の立場の説明の必要からトーマスに打ち明けた事が確かにあった。
「実は僕も三年程前なのですが、それと同じ毒を経験したのです。いえ、正確には原材料が同じだと僕が思う毒ですが⋯」
「⋯!!」
二人は言葉も出ずトーマスを見つめた。
「僕が受けたのは吹き矢に塗られた毒で⋯」
トーマスは当時の話を始めた。
マーシャル辺境伯領とバレン伯領は隣あっており、ほぼ横並びになる一部の地域には厳しい山脈が横たわっている。
その山脈の裾野にしか咲かない花がありその花の根からとれるのは猛毒である。
少量でも口から摂取すれば即死するクラスの神経毒で、昔近隣の国々で互いに争っていた時代には弓矢の矢じりに塗布し兵器としても使われた代物である。
領土争いに決着がつき、それぞれの国に別れ平和が訪れてから需要の減ったその毒は次第に忘れられて今は辺境伯領周辺でしか知られなくなった。
ゆえにこの地域で後暗い組織などが集まって闇の取引を行うようになり領主を悩ませる原因になっている。
マーシャル領は辺境であるので当然、隣国との国境がある。
平和になったとは言え今も小規模な小競り合いや揉め事はあるので傭兵や間者、中には盗賊崩れなども紛れ込んだりする。
「いえ。町や村は概ね平和なんです。ただやはり市街地の一部にはスラムと言うか危険な一角があり、父や他の大人にも出入りを禁じられていたのですが⋯」
15歳だった。反抗期になり大人になりかけの変な慢心もあって悪友だった悪ガキ共と遊び半分で足を踏み入れた。
足を踏み入れた途端、と言っていいだろう。
吹き矢が飛んできてトーマスの背を貫いたのだ。
「未だに犯人は分からないんです。間者だったのか盗み目的か、僕が狙われたのか流れ矢だったのかも⋯」
屋敷に運ばれ手当を受けたが三日三晩生死の境を彷徨った。
「有効な解毒剤があったんで命だけはなんとか助かりましたがその後が本当に辛かったんです。そうです、その辛かった症状がルーファス様からお聞きしたものと似ていたのです」
トーマスの回復にはおよそ二年かかった。
最初は起き上がれなかった。悪夢にうなされ禄に眠れず手足は麻痺に近い。内臓にも影響があるのだろう頻繁に吐気や頭痛に襲われるし浮腫も取れない。
半年近く経ってやっと機能回復訓練に入れた。痩せて枯木のようになった身体に懸命になって肉を付け筋肉を取り戻し、やっと剣を持てた時は17歳を迎えていて、それからの猛勉強。
王立学園高等部の入学はきっちり三年遅れた。
「僕はアリスと同級生ですが実はルーファス殿と同じ歳なんです。下級生にしては随分フケてると思っていたでしょう?」
和ませたかったのかふざけたトーマスに二人も少し笑った。
「で、僕を救ってくれた解毒剤なんですけど、やはり同じ地域で取れる他の花が原料なんです」
猛毒の方は黒に近い紫色の花の多年草で根の部分が主な毒だが、解毒剤の方は白っぽい花の一年草で種を落として繁殖する、その種から抽出される成分なのである。
「それで、その二種類の花の原料を上手く配合すれば効果を打ち消し合うのかどうか⋯麻酔薬が作れるらしいのです」
その麻酔薬はトーマスが生まれる前くらい迄は頻繁に使われていたのだがその後、性能が良く安価な新しい麻酔薬が開発され姿を消して行く。なぜなら副作用が酷く重いからであった。数時間は感覚を奪い意識が希薄になるが効果が切れ始めた時に襲われる吐気や頭痛、幻覚に耐える必要がある。
需要はジリ貧ですぐに流通は止まり今では医者でさえ目にする事もない代物である。
「ルーファス殿が苦しまれた毒はそれなのでは?⋯それに」
トーマスは意を決したように続けた。
「その麻酔薬の流通を担っていたのは前バレン伯爵⋯つまり、オーレリア小母様の父上だったのです」
トーマスの話は二人共かなりの衝撃だった、まさか毒の出処についての情報が得られるとは思わなかったからである。
「何故ルーファス殿に毒の話を聞いた直後ではなく、今話しているのかと言うと、確信が持てなかったからです」
トーマスは、とにかく辺境伯領に戻ってオーレリアに会おうと思った。なので予定に無かった帰郷を、往復併せて四日を超える道程を、僅か十日しか無い日程に組み込んででも強行したのである。
その道程にアリスを巻き込むとは思ってもみなかったトーマスは自分のせいでも無いのに随分申し訳無く思ったのだった。
オーレリアに会うまでトーマスが思っていたのはルーファスの毒は自分のと同じなのでは無いか、迄であった。
「それ以上の事は全部オーレリア小母様に聞いた話なのです。⋯それで」
話を聞かせて貰う為にトーマスはオーレリアに掻い摘んでルーファスの事情を話した。すると⋯
「小母様がルーファス殿に是非お会いしたいと申されるのです。」
王都のバレンタイン邸に戻るからどうか約束を取り付けて貰えないかと頼まれた。
「ルーファス殿に何かお話しされたい事があるらしいのですが⋯」
「私はバレン伯爵にしかお会いした事が無いけれど、ルーファス様は夫人をご存知なの?」
グレイスが問うてもルーファスは心当たりが無いのか
黙ってただ首を横に振るだけだった。




