愚かな男
暑さも和らいだ初秋の頃。
オーレリアが王都に戻りラッセル邸を訪ねて来た。
バレン伯領での事がオーレリアにとってかなりの負担になったのだろう
少し痩せた気がする。
だが顔色は悪くなさそうだ⋯自分なりに乗り越えてくれたのだろうか。
パーシーは久しぶりに会った愛しい妻を抱き締めたかったが応接間の扉の向こうに女の気配を感じ気が気ではなかった。
見張っていないと何をするか分からない状態だったのでオーレリアを一刻でも早く邸から出したかった。
仕方無しに引き受けた後見役だったがラッセル家の財政は本当に酷いものだった。
領地の運営も手に負えない状況だか侯爵家の内情は目も当てられ無い程だ。
フレドリクは財産を擦り減らすどころか、金庫にあるのは借用書の山でラッセル邸の抵当権まで担保に取られている有り様だった。
蔑ろにした正妻の持参金を返そうと随分無理をしたんだろうが、全くこれじゃ元も子も無かっただろうに。
「あいつは案外無能だったんだな⋯」呟いても楽になる筈もなくさしあたり打てる手は緊縮くらいしかない。
「これも自業自得⋯か」パーシーは一人虚しく笑った。
暫くして、女が女にそっくりな顔をした男児を生み落とすとやっと少し落ち着いてくれた、赤児が愛しいらしい。
一ミリも可愛さが理解出来なかった自分をまたあの女が責め立てる、それが面倒くさいので気を使うふりだけはする事にした。
そろそろバレン邸に帰らせろと要求すると、また暴れオーレリアに何もかもバラしてやるこの人殺し!と喚いた。
この女が下手に喚いて事が露見したら⋯兄とあの女の遺体が見つからない限り刑事罰は無くても貴族家の一連のゴシップは命取りだ、バレン家も無事では済まないかも知れない。オーレリアを傷つけるのだけは避けたい。
また自業自得と諦めるしかないのか⋯。
オーレリアから離婚の申し出があって「後見のあなたが爵位を失うなんてありえない。たまになら帰る事を許すわ」と上から言われた時は本気で殺害を考えた。
でもオーレリアに会える。
僅か一年足らずだったがこれが自分の生涯で最後の幸福な時間だった。
パーシーは、ああ違う⋯最後じゃない、最後はあの時だ。と思い直した。
自分にとって最後の幸福で残酷だったあの時間。
オーレリアがオーレリアの生んだ自分の息子を連れてきた時。
息子が可愛かった、愛しかった。
一度しか会えなかったけれどあの温もりが幸福だった。
でも、オーレリアが自分から抱いていた息子を奪うように引き離した時の目。
その目を見た時パーシーは悟った。
息子の手を引き逃げる様に去る後姿に、ああ彼女は全て理解ったんだな⋯
と思った。
この日がパーシーが全てを失った日だった。
「私が何をしたかったかですって?」
ヴィクトリア夫人はルーファスを見てから自身を確かめるように自身の手を見て「フレドリクを⋯愛しい人をあの悪魔から取り戻したかった。
あの悪魔が生んだお前を⋯地獄に落として⋯消し去りたか⋯った⋯」
グレイスは夫人を身勝手だと感じルーファスを思った。
いくら辛い事があったとしても他人を踏み躙っていい理由にはならない。「⋯だ⋯だからルーファスを⋯幼い、独りぼっちのルーファスを苦しめて殺そうと⋯」
俯いたまま自身の手を見つめヴィクトリア夫人は答えた。
「あの悪魔にそっくりだったの笑った顔が⋯ラッセル邸に来た時⋯
領地で亡くなった前侯爵の所から乳母だという女が勝手に置いて行ったのよ⋯
その子があの悪魔と同じ顔で私の顔を見て笑ったの⋯」
顔を上げグレイスを見た。
「あなたわかる?消し去った筈の悪魔がまた現れた時の絶望。
前もそうだった、始末した筈なのに現れてフレドリクを奪って行った。だからもう一度始末したわ、なのにまた⋯またよ⋯」
頭を抱え蹲った。「憎悪せずにはいられない!」
「⋯そんな、ルーファスのせいじゃ⋯」グレイスが言いかけた時「やめろ⋯刺激するな」ルーファスが止めた。
ヴィクトリア夫人が突然ルーファスを睨め付けた。
「うるさいっ!お前だけは絶対に許さないわ。お前が幸福になるなんてあり得ないのよ!!」
グレイスは思わず叫んだ。
「やめて!酷い事言わないで。あなたは、あなただって息子にそっくりだわ。その傲慢な考えか⋯た」
「⋯いいから!⋯やめろ」押し殺した声のルーファス。
次の言葉を止めたグレイスの耳に〝くくくっ〟と笑うバレン伯の声が聞こえた。
三人の目がバレン伯に集まる。
「⋯いや、失礼。なかなか面白いお嬢さんだったんだな、と思って。⋯その女とあの息子、傲慢な所が似ている⋯と思ったんだ?」
片膝をつけ床にしゃがんでグレイスを見た。
「残念だが少し違う⋯似ているのには違い無いが、それは傲慢さでは無く愚かさの方だ。」
足元からダガーナイフを拾い歩き出した。
「何を⋯」呆然とするヴィクトリア夫人にゆっくり近付きながら言った。
「あの面倒くさいあなたの息子はあなたにそっくりな愚かな男に育ったと言った。バートンの娘両方に嫌われて⋯だからああなったんだろ?」
「何⋯を、あの子は可哀想な⋯」言い返そうとする夫人にまた一歩近付く。
「あの息子は誰にも愛されない⋯誰もあなたを愛さないように⋯
それは愚かだから」
「何を⋯ふざけないで⋯近付かないで!」
「フレドリクは未来永劫あの女と一緒に居る。決して愚かなあなたなんか愛さない⋯!」と嘲笑った。
目を見開いた夫人は唇をきつく噛み締めバレン伯を睨め付ける。
そしてナイフの柄をゆっくり握り直した。
「⋯あの女を許さない⋯あく⋯まの息子を」呟く。
「グレイス!」ルーファスが顔色を悪くして低く叫んだ。
その時。夫人がいきなり上体を起こしナイフを持つ手が振り上げられた。
「この娘さえ居なくなれば⋯!」
グレイスはまるでコマ送りの画像を見るかのように自身に向かって降りて来る
ナイフの刃先を見つめていた。
⋯突然、何かが視界を遮った。
目の前にルーファスの広い背中⋯
コマ送りはさらに速度を緩めやがて画像が止まった⋯
次に動き出した時。
ルーファスからポタポタと厚手の絨毯に滴り落ちて染み込んで行く何か。
「き、きゃー!!あ⋯ぁ!!」手足の自由が無いグレイスは叫ぶしかなかった。
同時にルーファスの肩越しに見えるヴィクトリア夫人がナイフを落とし斜め前につんのめり崩れ落ちるようにゆっくりと床に倒れ伏した。
そして、その後には夫人の背から抜いたダガーナイフを握る無表情のバレン伯爵の姿があった。
ルーファスは半分血塗れの顔で前方を睨み据え必死にグレイスを守ろうと両手を広げ庇っていた。その斜め前には白いブラウスの背から鮮血を滴らせた侯爵夫人が横たわっている。
バレン伯爵は片膝を立ててのっそりとルーファスの前にしゃがんで言う。
「すまない一歩遅れた。酷い傷だ⋯まさかお嬢さんに振り下ろすほど壊れてたとは思わなかったな」血で汚れたダガーナイフの柄を嫌そうに指でつまんで言った。
「そう怯えなくていい。君達には何の感情もないよ⋯私は傷付けたりしない」
体をずらし夫人の落としたナイフを拾い柄を向けてルーファスに差し出した。
「これでお嬢さんの縄を⋯私は離れるから」
と言って立ち上がり向いのソファーに座った。
ルーファスはそれを確認してからグレイスの縛めを解いた。そして「グレイス⋯」と顔を覗き込む。
その覗き込む顔には額から目の端を通り唇に達する切り傷が見えた。
「ルーファス⋯」涙か溢れた。
グレイスは震える手を血だらけの顔に伸ばす。
ルーファスの手がその手を掴み「大丈夫だ⋯早く掴まって」と言って横抱きに抱き上げた。
そのままバレン伯爵を見据えながらゆっくりと後退る。
扉まで行き着いてからグレイスを肩に抱え直すとノブを開け大股で廊下に飛び出した。
フレドリクの息子が飛び出して行った開けっ放しの扉から
何かざわざわした空気が近付いて来る気配がした。
大勢が口々に何か叫んでいる⋯。
あぁ何か大事になったんだな⋯まあ、そうだろうな⋯。
パーシーは思った。
誰よりも自分が一番愚かしい⋯と。
愚かな女の言う事をもっと愚かな男がいちいち全て聞いてやって来たんだから⋯
今まで上手く行っていた事の方が不思議だ。
バレン伯家に類が及ぶ事がなければいいが⋯それが心残りだった。
「すまなかったオーレリア⋯おまえだけが愛しいよ⋯」
小さく呟きパーシーは開いた扉を見つめながらダガーナイフを自らの頚、耳の下辺りから斜めに当てた。
そのあと扉から数人の憲兵がなだれ込んで来るのとほぼ同時にそのナイフを自らに深く刺し貫いた。
グレイスを抱えて廊下を走り出すと階段下辺りでラッセル家の老執事の声が響き大勢が踏み込んで来る気配がした。
それに気付いたルーファスは廊下を走り階段に着いた辺りで下から駆け上がって来た数人の憲兵に向かい必死て叫んだ。「彼女を⋯グレイスを助けて下さい!」
二人を保護した数人を残し他はルーファスが指し示した二階の部屋に向かう。
「大丈夫か」声を掛けられルーファスは首を振りながら自分の肩のグレイスを見た。肩に担いた時辺りから彼女の力が抜けぐったりしたのを感じていたからだ。
憲兵に手伝われ下ろされたグレイスは、ほぼ気を失った状態だった。
「グレイス⋯グレイス!」
朦朧とするグレイスをルーファスは抱き締めた。
医療知識のある兵が脈を見て頷きながら「彼女は大丈夫だ。安心して⋯それより君はこちらで血止めだけでも⋯」声をかけるが、ルーファスは首を振るだけでグレイスを抱き締めたまま離さなかった。
精神的な安定を優先して二人はそのまま馬車でバートン邸まで運ばれる事になり事情の聴取も後日となった。
先触れを送りバートン邸で侍医を呼ばせて医療班も待機させる手続きを取ったのだ。
踏み込んだ憲兵に保護され応急処置を受けた侯爵夫人ヴィクトリアの命は
かろうじて助かった。出血は多かったが傷は急所を外れていたらしい。
パーシー・バレン伯爵は正確に頸動脈を切断したせいでほぼ即死だった。
バレン伯爵が急所に詳しかったのなら夫人の傷はわざと外したものであろうか。
グレイスが閉じ込められていた奥の客室の廊下を挟んで一番階段寄りの部屋がライアンの私室でライアンはそこで眠った状態で見つかった。
例の麻酔薬を基準の倍以上摂取させられて意識不明に陥っていた、食事に盛ってバレン伯爵に与えられたものらしい。
命に別状は無かったもののその後暫くは後遺症に苦しむ事になったのだ。
この日の一連の憲兵の行動は指揮を取ったのが王が直接差し向けた私兵と云う事もあり騒ぎにはならず、全てが密かに行なわれ密かに終わったのだった。




