婿取りの成功
グレイスが気が付いた時、辺りは静かだった。
寝心地の良い寝具⋯ゆっくりと目を開けるといつもの自分の部屋の自分のベッドだった。
混濁していた記憶が徐々に鮮明になって来て心臓が激しく波打ち急いで起きようとした身体を誰かが優しく支えてくれた。
「お目覚めですか?大丈夫ですよ⋯まだ横になっていて下さいませ」
見慣れた、自分付きのいつものメイドだった。
「ル⋯ルーファスは⋯」自分の声とは思えない掠れた弱々しい響きだった。
「只今皆様をお呼び致します。お水はお飲みになれますか?」
頷くと横に居たもう一人のメイドに目配せして部屋を出て行った。
クッションを背に当てられ渡された水を飲み干した所でルーファスが飛び込んで来た。
「グレイス!」名を呼びながら抱き締めた。
片目と口を除いた顔の大部分が包帯に覆われた痛々しい姿にグレイスは涙が溢れ無言でその顔を包むように手を添えた。
ルーファスはグレイスになすがままにさせながら微笑んで
「気分は?⋯大丈夫?」と聞いた。
頷いて眉を寄せ包帯に目を這わせるグレイスに同じように頷き
「僕は大丈夫だよ目も無事だ。傷口が長いから包帯が大袈裟になっただけだよ」と優しい小声で言った。
ルーファスの後には心配そうな顔の両親とハンカチで目を押さえ心配のあまり泣き腫らした顔のアリスが立っていた。
グレイスの感覚ほどは時間は経っておらず、先程までは心配したトーマスも邸に残って居り憲兵達や医者が引き上げたのもつい先程であるらしい。
バートン家の普段では夕食の終わるくらいの時間帯であった。
「二人が運び込まれた時は心臓が縮む思いだったが⋯」
バートン伯爵が眉を下げて小さく笑った。
ルーファスは出血した見た目は凄絶だったが眼球は傷ついておらず傷の範囲は広いが全体的に浅かった。
グレイスも心因性の貧血による卒倒で2~3日の安静を命じられただけで済んだ。
その後皆で少し遅い夕食を取る事になり、グレイスにもベッドに柔らかいパン粥が運ばれた。
「あまり聞きたくない話かも知れないが⋯ライアン殿の意識が未だに戻らないそうでね⋯」
夕食後また皆でグレイスを囲んだ時にバートン伯爵はライアンの発見の顛末を話した。
グレイスはその麻痺薬を経験して真の苦しみを知りそれを幼いルーファスが味わった事に戦慄し涙していた。
そしてそれの倍以上を摂取させられたというライアンにも同情を禁じ得なかった。もう関わりたくは無かったが彼の不幸を望む訳では無かったからだ。
捜索されたラッセル邸の地下の当主用ワインセラーから木箱が見つかり藁を詰めた中に蝋で固めた親指程の小瓶があった。
もうそれ程の数は残っていなくて経年劣化で漏れ出して居る物もあったそうだ。
効き目にもバラつきがありそうだと言う話だった。
だが禁制品と言う訳ではないので明るみに出たところで顰蹙を買う事はあれど罪には問えないという事であった。
ルーファスとグレイスは精神的ダメージを癒す為に暫く学園を休んで休養を取る事をバートン伯爵に命じられた。
その間に官憲による事情聴取を受けたり心配して訪ねて来たバーバラに会ったりして過ごしていたのだが気力は無事順調に回復し2週間前後で学園に復帰が叶った。
それと時を同じくして貴族院による裁判は国王側が取り下げると云う形で無効となった。
お陰でバートン家の皆が学園を休みがちだった原因を全て冤罪による裁判での心因的な疲労のせいに出来た。
しかしその陰で自分の姪を甘やかし要らぬ進言で王に恥をかかせたと臣民の不興を買った皇太后は王宮を出される事になった。
地方の離宮での静養と言う形で事実上の王都放逐となったのである。
「ご卒業おめでとうございます。ルーファス」
「うん。ありがとう、グレイス」
まだ学園の敷地内で人目があるというのにルーファスがグレイスの唇の端に軽く口付けた。
ラッセル邸での出来事から4ヶ月余り、包帯は取れて傷も塞がってはいるが傷跡はまだ少し赤みを帯びて痛々しく目立つ。
ルーファスの学園復帰直後は顔の包帯について盛んに取り沙汰されていたが本人は元より全員が〝不慮の事故による怪我〟としか説明しなかったせいですぐに下火になってしまった。
その頃からルーファスのグレイスへの愛情表現は人目を憚らなくなった。
自分というナイトの存在を印象づけた上で知力体力とも鍛え、全ての悪意からグレイスを守ると宣言したからである。
トーマス相手に剣の練習を始め今日の卒業式では主席の表彰もされた。
秀でた能力に優れた人間性、整い過ぎた容貌に一筋の野性的な傷⋯魅力的過ぎる。この方の目指す高みは高すぎて目が眩みそうだわ。
ルーファスの決意を尻目にグレイスは少し引き気味だった。
しかし愛しいルーファスが自分を守る宣言をしてくれた事はこの上ない喜びでグレイスも二人で寄り添う事に人目を気にするのはやめた。
同じ日にラッセル侯爵家の廃爵が国王の名で正式に宣言された。
表向きの事由は財政崩壊。
後見を務めていたバレン伯爵亡き後、後継者のライアン・ラッセルも病を得た為財政の建直しが期待出来ない故の措置とされた。
バレン伯爵は事件後、既に病死と発表されていた。
領地は一旦王家が預り、その後近隣の領に分配する事で領政の安定を図る方針に決まったようだ。
「今日、久しぶりにスペンサー侯爵殿にお会いしたよ」
月に一度程度出仕の義務のあるバートン伯爵は午前中に王宮に赴き帰邸してマーガレット夫人と軽い昼食を取っていた。
「まあ⋯ラッセル家の事でお力落としではありませんでした?」心配顔の夫人に困った顔で笑い「私に謝罪を下さったよ。世に秘されたとは言え姉が御令嬢夫妻にした卑劣な行為は王から聞き及んでいる、と申されてね」
「⋯そうでしたの。その後のヴィクトリア様のご様体は如何なのかしら」マーガレット夫人は首を傾げた。
「それは⋯さすがに私などがお聞き出来る事ではないからね」
「そうですわね⋯」
ヴィクトリアと子息のライアンはあの後王の命でスペンサー家預りとされていた。
ヴィクトリアは傷は完治したものの精神崩壊が甚だしく記憶も曖昧な状態で未だに官憲による聴取にも応じる事が出来ないと捜査関係者に内々に聞いていた。
スペンサー家はバレン伯爵の病死により侯爵家の財政が破綻した為に神経耗弱を患ったと先に世間には公表していた。そして子息のライアンは骨と筋肉の病気によって療養中としている。
実態は麻酔薬の後遺症で右側の手足に麻痺が残り未だ自由に動ける状態では無いと、これも内々でバートン伯爵だけが聞いた話である。
「いずれにしてもスペンサー侯爵家からの手厚い保護は期待出来ないと思うよ。
当代のスペンサー侯爵はヴィクトリア殿の弟君とはいえ元々が妾腹であられた方だからね⋯」
夫人が頷いて「そうでしたわね。ヴィクトリア様のご生母様亡き後正妻に納まられた方だとか⋯」
「ああ⋯幼い頃から仲が悪かっだと聞く⋯今日もあの方の事は吐き捨てるような口調で話しておられたからね」
事実、後日の社交界で出回った噂ではヴィクトリアは僻地の別邸に隠遁させられ、ライアンは西の方の修道院に入ったとの事であった。
しかしスペンサー家が決して表に出さないので真偽の程は定かではない。
暗い表情になる二人に「ルーファス様とお嬢様方がお戻りです」と
執事が告げに来た。
途端に笑顔になった夫妻はともに席を立った。
「主席卒業を褒めてやらねばな⋯」と笑う伯爵に「我家の自慢の婿ですわね」と頷く夫人だった。
そこは深い緑が反射して鏡のような湖面に吸い込まれそうな感覚を覚える湖であった。見る者に恐怖にも似た陶酔を感じさせる美しさがある。
「ここにお二人は⋯」
「ああ、今でも一緒に眠っているんだろうな」
グレイスはルーファスとバレン伯爵領に来ていた。
夏休みが半分程過ぎた頃、帰郷するトーマスに同行して辺境伯領で二週間程の休暇を過ごし王都に帰る途中でオーレリアを訪ねたのだ。
アリスはトーマスと共にまだ辺境伯領にいる。学園の始まるギリギリまで帰らないと言っていた。本当にあの地が気に入っているんだろう。
そしてトーマスの許嫁として辺境伯領の人達に愛されてもいた。
バレン領に寄ったのはルーファスがこの湖を見たいと言ったからだ。
グレイスに出会うまでの自身に起こった悲劇のひとつとなった場所が物語では無く現実にあるのだと認識したいと言った。
「以前義父上に指摘されるまで自分が両親の側に立てていない事にさえ気付けなかった⋯少し切なかったんだ」
ルーファスの切なさは幸福に育ったグレイスには本当には理解出来ないのかも知れない。でも永遠に寄り添っていたいと心から思っている。
ルーファスが卒業して既に2ヶ月。伯爵に学生として最後の夏休みを楽しむ事を許されている日付迄もうあと僅か。
王都に帰れば次期バートン伯爵としての仕事や社交が待っている。
「この先、傷のせいで困る事はないかしら?社交で何か言われたり⋯」
怪我から半年余り、まだ傷は目立つし傷跡は何年も残り続けるだろう。
「僕は気に入ってる。ヤワな顔に迫力がついたからね」と傷を指でなぞる。
「もう⋯お気楽過ぎです。⋯私のナイトである証とまた仰る気ですの?」
「ああ。勲章だ」まったく⋯と言ってグレイスが笑う。
なんだか涼しくて良い風が吹いてきた。
湖面が揺れて色が変わる、目眩がする程美しかった。
昔、ここであの人達のいろんな思いが交錯したのかと思うと不思議な
くらい平和な風景だ。
「君と出会ったのが去年の秋だったからもうすぐ一年だな。
たった一年で僕の人生は驚く程変わった⋯こんな幸福信じられないよ」
湖を見つめ目を細めたルーファスが言う。
「私もです。今はあなたが側にいる。私達、来年は本当の夫婦ですわね」同じように湖を見つめながら言うと「義父上のお許しが早く出るように努力するよ。君の望みは全て僕が叶えたい。僕は君のものなんだから」
ルーファスの左腕に廻していたグレイスの手を右手で包むように握って言った。
グレイスは頷いて微笑む。
「私の婿取りは大成功ですわね」
遠くにオーレリアと弱冠十五才でバレン伯爵となった息子が手を振るのが見えた。
夕餉の時刻を知らせに来てくれたのかも知れない。
湖には既に夕焼けが映り湖面には朱が照り映えていた。
完




