バレン伯夫人の昔話③
晩餐の用意が整ったとメイドが知らせに来たので皆で食堂に移動した。
伯爵夫妻とアリスは王宮なので今日はルーファスとグレイスそれにゲストのオーレリア夫人三人だけの食卓である。
「帰られた後、領地は結局夫人が治めておいでなのですか?」
お聞きしていいですか、と前置きしてからルーファスが聞いた。
「少し恥ずかしいのですが⋯その後私パートナーを得る事が出来ましたの」
花が綻ぶように笑って夫人は言った。
逃げるようにバレン領に再び戻ったオーレリアを助けたのはその時は代官の助手を務めていた青年で、近隣の農家の息子であったが孤児になったのを亡きバレン伯爵が引き取って面倒を見ていた男だった。
頭の良さを買われ育てて貰ったのを恩義に感じ勉学に励みやがて領地を助ける大きな戦力になった。
年齢を重ね引退した代官のあとをオーレリアと共に担って行くうち情が芽生えた。
「息子も懐いておりますし立派に男親役も務めてくれます。
ですが私には戸籍上はいまだ夫が居て⋯でもこの先たとえ離縁が叶ったとしても結婚は無理でございましょう。身分の無い者でございますから⋯」
それを承知の上でオーレリアを守り愛してくれる。
領民からは領主夫人の事実上の夫として認知され頼りにされ尊敬も集めている。
「それで良いのです。それに彼は⋯私より七つも年下なのですから」
少し頬を染める夫人を少女のようだとグレイスは思った。
晩餐を終えサロンに移ってからオーレリア夫人は棚上げしていた重い荷を再び抱え直すような憂鬱さと決意をないまぜにして話の続きを語り始めた。
「先ずは毒、の話です」
グレイスは心臓に氷でも押し付けられたような気がした。
ルーファスは冷静に聞いているように見えた。
「毒、つまり以前私の父が商っておりました麻酔薬、名称を『黒百合の眠り』と申します。毒の花の事かしら?悪趣味でございますわね。以前はよく捌けていたようでしたが、その頃はすでに注文も途絶え売れないまま、在庫はでもまだ倉庫にございました。その頃とは、私がパーシーと結婚致しました頃です」
パーシーは今迄で領地には二度来た。二度目は惨事のあったあの夏で一度目は結婚式であった。オーレリアの母は肺が弱く王都の空気が駄目だったので領地の教会で式を行う事にしたのである。
その時は二週間程を領地で過ごしたので『黒百合の眠り』に興味を持ち知識も得ようと思えば出来ただろう。
その時はただの興味だけだったとしても。
「そしてその後、彼が愛する女性と結ばれそしてその女性が懐妊したと致します。その女性にも夫がおります。私はその場合その二人が何を考えたか想像してしまったのです」
ヴィクトリアは帰って来ない夫を憎んだと言っていた。惨めだと言った。
つまり夫は帰って来なかったのだ。惨めな程、憎む程の長い期間を。
はたしてヴィクトリアにはフレドリクの子が孕めたのだろうか。
子が出来たと告げてフレドリクは我が子だと認めるだろうか。
いや他の女を愛する男には離縁の格好の理由を与えるだけなのではないだろうか。
そしてヴィクトリアは自分を差し置いて夫の子を生んだ女とその子を憎まずにいられただろうか。
そこにパーシーが囁くのだ。良い薬がある、と。
オーレリアは思い出す。
ラッセル家の兄弟の仲が希薄だった事を。
兄は弟にあまり興味が無かったし弟は劣等感故なのかどうか兄を避けていた。
ヴィクトリアとパーシーは何故あの避暑の時だけクラリスとフレドリクにあんなにも親しげで親切だったのか。
オーレリアは思い出す。
あの時湖でパーシーがフレドリクに勧めた酒は何だったのか。
フレドリクは本当にただの泥酔だったのか。
パーシーが湖のヴィクトリアに叫んだのは何かの合図ではなかったのか。
帽子は本当に誤って落ちたのか。
フレドリクを起こす時何故過剰に乱暴だったのか。
目覚めた彼にパーシーが叫んだ言葉は⋯
クラリスが落ちた!湖だ!湖に飛び込んで早く。早く飛び込んで⋯!ではなかっただろうか。
そして覚束無い足を縺れさせつんのめりながら進むフレドリクを止める事はパーシーには可能だったのではないだろうか。
分からない。あの時のオーレリアは出来事が突然すぎて最悪すぎて、正確な判断力すら失いただ赤児を抱いて呆然としていただけだったからだ。
「だから私はつい最近までその想像を否定し押し殺して参りました。
余りに恐ろし過ぎる想像だったからです。
でも、訪ねて来たトーマスの話を聞いて、私はその想像と立ち向かう決心を致しました。ヴィクトリア様のあの時の息子を見る空洞の目に、私の恐怖の源にも⋯」
ルーファスは息を飲みグレイスは心底から恐怖が湧き上がって来る気がした。
まるで夫人の心を映したようだ。
「ヴィクトリア様の目はこの子をどう苦しめどう殺してやろうかと言う目です。私はそれを感じて恐れ慄いたのです。
あの時あの湖で私はあなたを預かって後悔したと言いましたが訂正致します。
あの方の一番の望みは赤児を抱いたままのクラリス様を沈める事だった筈ですから」
夫人は膝の上に重ねた両手を硬く組みながら言った。
「いつでも苦しめ殺す事が出来るのです。きっとあの夏パーシーは屋敷の倉庫からそれだけの量の『黒百合の眠り』を持出していたのでしょう。幼いルーファスにもふんだんに使えた量を」
「そんなっ。それではルーファス様はただ苦しめるだけではなく命を狙われておいでだったのですか⋯」
グレイスはもう本当に震えながら言った
「そうだと思います。幼い子には立派な毒ですから⋯」
と夫人はルーファスを見た。
「僕がなんとか助かったのは幼い頃は人の何倍かの時間をかけないと食事が出来なかったからだと思う。だから毒が入っていると全部食べ終わる前に手や喉が痺れて来てしまうから半分も食べられない。
そしてそんな事が数度続けば何が毒かは察しがつくよ」鼻で笑う様に言った。
以前毒の話をした時はあんなに傷ついた風だったのに。
そう感じてグレイスの気持ちが妙に落ち着いた。
「そう⋯あまり食事を与えられなくてきっと胃の腑が小さくなっていたのだわ。皮肉にもそれがあなたを救ったのね⋯そして、とても聡い子だったのねルーファス」
夫人は優しく笑った。
オーレリア夫人はバートン邸を去る時、何かから解放されたような何かを喪ってしまったような妙な気分だと言って俯いた。
「ごめんなさいね。ルーファス⋯立ち向かうなどと言ったけれど私はただ肩の荷をあなたに押し付けただけかも知れない。トーマスから聞いた無事に生き抜いて幸せを掴んだ強いあなたに少しだけ頼りたかったのかも⋯」と肩を落とした。
「いいえ聞けて良かった。いろんな疑問も溶けました⋯僕も小母様とお呼びしてもいいですか?」と微笑み、頷く夫人を緩く抱き締めて「感謝していますオーレリア小母様」と言った。
宮中の夜会に行った家族の帰りはきっと真夜中過ぎるだろう。
今夜は月も星も美しい夜だ。
オーレリア夫人を送り出したあと、気分を変えたい二人は寒いけれど少し中庭を散歩する事にして歩き出した。
「ルーファス様はとても心の強い方だと思いましたわ。オーレリア様のお話を聞いてお辛くはなかった?私は心が張り裂けそうでしたのに⋯」
グレイスの肩を抱いてルーファスは「それは君が両親にとても愛されて育ったからだよ。君が優しいから僕の両親の話を自分に重ねてしまったんだろう?」
と囁くような小声で言った。
ルーファスは物心ついた時から一人だったから実の両親と聞いても実感が無い。だからただ物語を聞いている気分だったと言う。
「もし僕が君を真似て自分に重ねて考えてみるなら⋯そうだな⋯ラッセル侯爵、
僕の父親?⋯の立場かな。もし僕がその立場ならグレイス⋯君の立場の人を棄てる選択をすると思う。もし僕が君が居るのに家の為に望まない相手との結婚を迫られたらまず爵位を捨てて君と逃げる道を考える。
それが無理なら君を手放す、そのほうが絶対君の為になる。そして僕はその結婚相手を愛せずとも大切にはするだろう。
もし父親がそうしていれば全ての悲劇は防げた筈だ⋯」
そこまで話して横を見ると、立ち止まったグレイスが軽く握った拳を胸に当てていた。「ルーファス様⋯あなたはそんなに冷静に私を棄てる判断をなさるの?
私はどんなに不幸になっても貴方に棄てられたくありませんわ。たとえあなたの奥様になられる方を傷つける事になっても⋯なのに、あなたは⋯」
「い、いや。これは例え話で⋯あ、例えが悪かったよ⋯」
焦ったルーファスが手を伸ばすとグレイスは身を避けた。
ルーファスは逃げようとするグレイスの手を強引に引き寄せて握ると目を覗き込んで言った。
「棄てられるのは君じゃない⋯僕の方だよ。考えてみて、小母様の話が真実なら戸籍上僕の母親にあたる侯爵夫人は人殺しなんだ。明るみに出れば今迄とは比べられない程の悪評に晒されるような話だ。一緒に居れば巻き添えをくうのは君でありバートン伯爵家だよ」
考えてもいなかった事を突きつけられて目を見張るグレイスに静かに言った。
「⋯僕を棄てる権利があるのは君の方なんだ」
「そんな事⋯!」
思わずルーファスに抱きつき胸に顔を埋め何度も首を振るグレイスに
「本当に明るみに出る事なんかは無いと思う。だけど、ね。
事実は変わらない。清廉潔白な伯爵家の婿が⋯そんな不名誉な家系の出の僕であっていいのか⋯そんな僕が望んでもいいのか⋯とは思うよ」
ルーファスはしがみつくグレイスを強く抱き締めた。
「でも僕は君に棄てられたくない⋯。君は僕の光なんだ、棄てないでほしい⋯」
悲しく、抑えたような声で言った。
グレイスはもう切なくて愛しくて声も出ない、伏せていた顔を上げ今度は幾度も幾度も頷いた。
ルーファスは涙を流すグレイスをじっと見つめた。
そして「君だけを愛してる⋯」と泣き出しそうな顔で微笑む。
いつからか舞い始めていた風花の中で二人は優しく深く唇を重ねあった。
「昨夜の夜会は如何でした?そのアリスは⋯」
翌日の昼過ぎ、グレイスは遅くまで眠れなかった少し重い頭のままサロンでお茶を飲んでいた。
隣にいるルーファスも似たような状態だ。
昼前に起きて遅い朝食を終えサロンに入って来た両親にグレイスは聞いてみた。
アリスの婚約の周知でのラッセル家の動向や他の貴族家の反応が気になっていた。
バートン伯爵は微妙な顔で首を捻ってから「まあ⋯周知は叶ったと言った所だ。御婦人方の反応はどうだった?」とマーガレット夫人に聞いた。
「そうですわね⋯半々と言った所かしら?」本当に喜んで祝福してくれる婦人と、祝辞を口では言うが何か含みがあるような態度の婦人が居たと言う事だ。
「まあラッセル侯爵夫人の取巻きのような婦人もいるからな、そのような物だろうよ。夫人には挨拶もされなかったからね」と苦笑いした。
王宮の夜会には勿論侯爵家一同も招かれるのでトーマスには決してアリスの側を離れない様にさせたしレストルームにはマーガレット夫人が伴った。
「まあそのうちに追々とでも良くなってくれるのを願うよ。それよりそちらはどうだった?二人共顔色があまり冴えないようだが⋯」
オーレリア夫人の話を伯爵も気にしていたのだろう。
二人は顔を見合わせ頷きあってからルーファスが話の要点だけを掻い摘むように話し出した。
それでも結構長い話になり所々をグレイスが助けて付け足していった。
さすがにいつもは楽観的な伯爵夫妻さえも想像以上の話の重さに暫し沈黙してしまった。
ルーファスは夫妻の反応に少なからず恐怖を覚えながらも、昨夜グレイスにした話もした。こんな自分が伯爵家に入る価値と資格そして罪の露見の可能性について。
「もしその話が真実だとして⋯内輪の者にしか知られようがない話だと思うよ。
露見はまず無い、第一それだと君は加害者じゃなく被害者側の息子じゃないか?」
さっきまでの雰囲気と気分を切り捨てる言葉だった。
「⋯あ」驚くルーファスに事も無げに伯爵は言った。
「何だ、気が付かなかったのかい?じゃあ君にとっては遠い世界の話なんだよ。」
遠い世界⋯。確かに両親だった人達には感情移入していなかった。そのせいでヴィクトリア夫人側の自分の立場にしか考えが及ばなかったんだ。
ルーファスは本当に自分は孤児なんだな⋯と変な感想を持った。
「とにかく!被害者だろうが加害者だろうが遠い世界の遠い昔の話は君には関係ない。しかも君がさっさと廃嫡になってくれればもう侯爵家との関係も終わりだ」
手を広げるようにして微笑んだ。
「ルーファス、君はもう既に私の息子だろう?そろそろ父と呼んでくれてもいい頃じゃないかい?」
父?孤児の自分に⋯父。ルーファスは伯爵の言葉が優しすぎて思いもよらず涙ぐみそうになって俯いてしまった。
隣に座って居たグレイスがそっと背に当てた手を感じながら
「ち⋯義父上様。ありがとうございます」呟くような声しか出ない。
マーガレット夫人もルーファスとグレイスの手を取って
「そうよ。あなた方は私の可愛いい息子と娘です。早く我家の婿になって
あの家との関わりをさっさと切ってしまいましょう!」と明るく笑った。
「義母上⋯さま」ルーファスは泣き笑いでやっと言えたのだった。




