92.決断
もう何がなんだか分からない。
震える手を組み、女神像の前に跪く。
毎日繰り返されたこの慣れ親しんだ行為がこんなに重い意味を持っていたなんて思わなかった。
女神様、女神様、女神様、女神様、私は、どうすればいいのでしょうか。
手が真っ白になるほど強く、冬の朝に凍えてしまうほど長く、私は祈りを捧げた。
―――
――
―
「カノンッ!」
「……ルーク……」
イーサリオンの屋敷に戻った翌日、朝の早い時間に彼はやってきた。まだ本調子でなく、寝台に横になる私を見て、ルークは顔を歪めた。フルーツの入った籠をナイトテーブルに無造作に置いて、すぐに私の顔を覗き込む。
「襲われて、1ヶ月も意識が戻らなかったって……。どれだけ心配したか。……傍にいれなくてごめんね」
ルークはそう言ってぎゅうと私を抱きしめた。
「もう平気?」私の背を撫でながら耳元でそう囁く。
ルークの優しさに涙が出てきそうだった。私の事を本当に心配しているのだと全身で伝えてくれる。
こんなに素敵な人に、こんなに私を愛してくれている人に、私はこれからひどい仕打ちをするのだ。
ぎゅっと手を握る。
「カノン?どうしたの?なにか心配事?」
ルークはすぐに私の変化に気づいた。心配そうに琥珀の瞳が揺れる。
「……大切な話があるの。少し、いい?」
「もちろん!なぁに?」
ルークは無邪気に微笑む。この人を虜にする笑顔にも慣れたものだ。
「二人きりが、いいんだけど……」
「そう?分かった」
控えめにルークについてきた護衛さんに視線を送る。ルークが「外で待機してくれる?」と指示をだすと、護衛さんたちは静かに退室してくれた。
「これでいい?」
「ありがとう」
私はベッドから出る。「無理しないで」と慌てるルークの前に立った。
「カノン……?」
不思議そうにこちらを見てくるルーク。
柔らかな銀髪がふわりと揺れた。
「ごめんなさい。私、やっぱり、ルークとは結婚はできないわ。婚約を破棄して欲しいの」
頭を下げる。
「………………え……」
沈黙がおりた。何も言わないルークを前に、私は、頭を下げ続けた。
「……どうして……?なにか、不安な事でも、ある?」
ルークがどんな顔をしているか分からないが、やっと絞り出したであろうその声は今まで聞いた事がないくらい震えていた。
「考えたの。私はやっぱり、王妃には向いてない」
「なら、僕がイーサリオンの籍に入ってもいい。別に王座には執着してないし、ゼンもいる」
「それはダメよ。あなたは国を導くに相応しい人。ルークをイーサリオンに婿入りさせるなんてことになれば、大きな反発を生むと思う」
「……大丈夫!イーサリオンは家格の高い家だし、僕が君しか見てないことは周知の事実だ。みんな僕に呆れるだけで、受け入れてくれるよ。僕が勝手にそうしただけ。それでいいじゃない。ね?」
ルークはその瞳を潤ませながらこちらに手を伸ばしてきた。
頬に添えられようとする、その優しい手を叩き落とす。
「私は、貴方を拒絶してるのっ!!」
「……っ」
ルークの方を見ることができない。泣いてしまいそうになるから。
「僕のこと、嫌いになった?」
「そうよ……」
嘘。
……そんな訳ない。
「なんで……?」
ルークは魂が抜けたかのように、身体を震わせる。
「悪いところがあるならなおすよ!これでも僕、一途だと思うし、カノンのこと絶対、絶対幸せにする」
「そういう所が重いのよ」
嘘。
優しいルークらしい美点だと思う。
「お願い、カノン。そんなこと言わないで」
「慰謝料は、きちんと払うわ。私の自分勝手な理由だもの……」
諦めず手を伸ばすルークを振り払う。
「まって!」
「しつこいのよ!!!」
ぎゅうっと、ルークは私を抱き締めた。離さないと言うようにかき抱かれ、心も、身体も苦しかった。
「僕に、僕にチャンスをちょうだい」
抱きしめられる力が強まる。
「本当に、ずっと、ずっと、君が好きなんだ。愛してるんだ。きみの全てが欲しい。隣に立ちたいっ!」
わがままだ。
でも、それも仕方がないのだろう。ルークは、甘やかされて育てられている。
全て自分の思い通りになると、そう思っているみたいに。
「聞き分けのない人は、もっと嫌いになるだけよ……」
ルークは明らかに身体を跳ねさせた。
「カノン、お願い。カノンは少し、疲れてるだけだよ……」
ルークの身体を押して、離す。
「もう決めたの。…………ごめんね」
アルセリオン王家を、聖女の血に巻き込んではいけない。
彼がなんと言葉を紡ごうと、私の決意は揺らがない。
ルークの動きが止まる。
「まって」
「ルーク、いい加減にしてちょうだい……」
「だって……いやだ。認めない。婚約破棄なんて、君の経歴に傷がつくだけだよ」
「構わないわ……」
「カノン、よく考えて。王家との婚約がそう簡単に白紙に出来るわけない」
「できるわ。私はカノン・イーサリオンだもの」
ルークは顔を歪めて黙り込む。
「カノン……お願い……愛してる……」
「しつこい!!」
「カノン……」
「もう嫌なの!」
「カノン!!!」
がしりと肩を捕まれる。
「僕の目を見てそう言える……?」
そっと彼の方に視線を向ける。
綺麗で、純粋で、真っ直ぐな瞳からは涙がこぼれ落ち続け、何かを探るようにこちらを見ていた。
「嫌いよ……」
私、どんな顔してるだろう。
もう分からなかった。
「ずっと鬱陶しかった」
そんな風に考えたことはないけれど。
「私の気持ちなんて考えないんだろうなって」
その分ルークの気持ちは伝わってきた。
「ただ押し付けられて、外堀まで埋められて、婚約者にされて、逃げられないし」
でも、私のことを本当に大切にしてくれた。
「こっちの身にもなってよ―――」
「もういい!!!」
ルークは涙声で叫ぶと私をベッドに押し倒した。覆いかぶさられるように抱きしめられ、重くて動けない。
「ルーク……」
「しばらく、こうさせて……」
するりと手を重ねられる。
「お願い……」
私はまた抵抗の言葉を吐こうとしたが、ルークが静かに泣き続けているのがわかったので、この状況を受け入れた。
―――
どれくらい時間が経っただろうか。一刻か、二刻経ったかもしれない。ルークの呼吸のリズムを覚えてしまうくらい、それぐらい長い時間、ルークは私を抱きしめ続けた。
のそりとようやく動き出した彼は泣き止んでいた。
まるで別人のように、金の瞳が冷たく光る。
その瞬間、彼の中で何かが決定的に壊れたのだろうと、分かった。
「僕を選ばなかったこと、一生後悔して欲しい」
冷たく毒付いたルークは、口付けを落とした。
それは今までのものとは比べ物にならないくらい優しく―――呼吸ができないほど深かった。




