88.龍
「……」
なんだろう。何故こんなことになっているのか。
私の眠気は既に吹き飛んでいた。
龍。
それは山岳地帯の奥に生息する生き物。生物の食物連鎖では頂点に君臨する凶暴な存在だ。そして、こんな街中に現れるものではない。ゴクリと喉がなった。
『驚かせてしまったか。だが、恐れる必要はない』
また、あの声。鈴の音のようなこの声は、間違いなく目の前の龍から発せられていた。
「しゃ、しゃべれるの?」
『あぁ』
龍はゆっくりとした動きで首を振った。龍って喋れたっけという疑問は浮かんだが、とにかく敵意はないみたいだと、展開した攻撃魔法陣を霧散させる。
改めてまじまじと目の前の龍を観察する。真っ白な鱗は真珠のように輝き、その瞳は美しい紅色。スラッとした体躯は少し大柄で、私一人くらいなら乗せて飛べそうだった。
『お前は魔力が多いね。あまり、好ましくはないのだが……』
龍はそう言って私を見下ろす。どういう意味だろうか?
でも、会話ができるならと、私は口を開いた。
「貴方は何?どうしてここにいるの?」
私がそう質問すれば龍は少し私に近づいた。何故だか分からないけれど、私は自然に手を伸ばしていた。ひんやりとした鱗に触れる。
『我はお前たち人間が聖龍と呼んでいる存在。名をゼゼと言う』
「聖、龍?」
聖龍―――ゼゼは頷いた。
それは聖女史に出てくる存在。女神の血から産まれた、聖女と聖樹を守る存在。
実在したんだという感情と、何故そんな存在が私の元へという疑問が同時に湧き上がった。
『お前の名は?』
「カノン。カノン・イーサリオンよ」
ゼゼは『良い名だ』と言ってくれた。
『お前は、クレイトニーから何も聞いていないのかい?』
「聞くって、何を?それより、クレイトニー婆ちゃんを知っているの?」
『知っているよ。レティシア、クレイトニー、マチルダ、ユメニー……お前の祖先は全部言える』
ゼゼは母様も知っているらしい。
聖龍に名前を覚えられる一族。
そんなの―――一つしか心当たりがない。
『カノン。お前は―――今代の聖女なのだよ』
ゼゼは目を細め、私の疑問を払うようにそう言った。
「せい、じょ?」
ポカンとしてしまった。だってそうだろう。聖女は千年も前にこの世の仕組みから姿を消している。
それに、
「私に浄化の力は無いわ」
『そんなはずはない。お前は世界で唯一本当の浄化をできる存在だよ』
ゼゼは鼻先でコツンと私の額に触れた。
『とにかく、我と一緒に来て欲しい』
そう言ってゼゼはぐるりと私にまとわりつく。びっくりして身体を強ばらせた瞬間、僅かに浮遊する感覚があった。
気がつけば私は洞窟の中のような場所に移動していた。今のはなんだったのだろう。仕組みが分からない、謎の移動方法だ。きっと、奇跡と言われる部類の現象なのだろう。
「ここは?」
『聖樹の中核部だ。我の住処であり、代々聖女が祈りを捧げてきた部屋でもある』
その部屋の上部は、よく見れば聖樹の根が這っているようだった。土の中であるのに真っ白な聖樹から放たれる光でほんのりと明るい。
『ここはちょうど聖樹の幹の真下にある空間だ。ご覧。見えるかい』
ゼゼが指す方をよく見やれば木の根に沿って穢れのようなものがまとわりつき、怪しく脈打っていた。
『これが今の聖樹だ』
「やっぱり祈り子様だけじゃ浄化が追いつかないのね」
『いや、問題はそこではない』
「どういうこと?」
『そもそも祈り子は浄化などできないのだよ』
「えっ?」
ゼゼは穢れた根を見つめながら続けた。
『彼らに出来るのは穢れを別の器に移し替えるだけ。知らないかい?彼らは聖樹の枝が無ければ何も出来ないだろう?』
祈り子が、浄化をできない……?
その話には思うところがあった。イーサリオンに穢れが溢れた時、確かにユリウス様は大量の聖樹の枝に穢れを吸収させていた。
それに、初めて会った時のユリウス様も穢れを自身の身に移すというありえない解決方法をとっていた。
あれは、浄化が出来なかったから……?
『思い当たる節があるみたいだね』
「……」
『祈り子は穢れを移し替えることしか出来ないが、お前は違う。その祈りで穢れを浄化することができるのだよ』
「私が……」
『だがまぁ、そんな事を突然言われても困るだろう。今は深く考えずとも良い』
ゼゼはそう言うと洞窟の中央部で身体を丸めた。
『お前をここに呼んだのは、ここで祈りを捧げて欲しかったからだ。昼間上で祈ってくれていたようだが、あそこからの浄化は効率が悪い。ここで一刻ほど祈ってはくれまいか』
「私がここで祈れば、世界から穢れは消えるの?」
『うんにゃあ。すぐにこれだけの穢れを全て消すのは無理だ』
「そう、なのね……」
『それに、今は穢れを世界から消さない方がいい』
「なんで?世界から穢れを消しちゃいけないの?」
穢れは悪いものだ。聖龍と呼ばれるゼゼがその考えを持っているのにはとても驚いた。
『穢れを消せばどうなると思う?』
「……?穢れが無くなるのはいい事だわ。みんな喜ぶと思う」
『そうかもしれないね。だけど、お前の祖先はもっと別のことを恐れたんだ』
「別のこと……?」
ゼゼの言い分が全く理解できなくて聞き返す。
『聖女が穢れを消せば、祈り子は気づくだろう。そして世界は知るのだ―――聖女を殺しても、新たな聖女が産まれることを』
ゼゼの瞳が怪しく光る。
「……?それの何が悪いの?」
やっぱり何を言いたいのかが分からない。新しい聖女が産まれてくるのは良いことのように思える。
『お前は動物を飼ったことはあるかい?』
「……ないわ」
『そうかい。では考えてご覧。飼うことにした猫がとんでもない暴れん坊で常にお前を引っ掻いたり、望んでいない場所でふんをする。何度言ってもなおらない。猫は飼いたいけど、こんな言うことを聞かない猫には辟易していた。お前ならどうする?』
「檻に入れる?」
『もっと簡単な方法があるよ。言うことを聞かない猫を捨てて、新しい猫を飼えばいい。そして、自分の言うことを聞く、従順な子ができるまで繰り返せばいい』
ゼゼの言い方にゾクリとした。聖女という存在が尊い大切にされるものから、一気に道具になる。
殺しても、替えの効く存在だとバレてしまう。
「そんなの……空想論だわ」
『お前は人間の善性を信じているのだね。人間というのは醜い生き物だよ。でなければ聖女が磔にされて失われることなどなかった』
確かに、千年前、聖女が失われたのは人間の悪意のせいかもしれない。あの悲劇がまた繰り返される……それをゼゼは恐れているのだろうか。
『お前がどうするかは、お前が決めればいい。我には関係の無いことだ。ただ、お前の祖先たちは皆、隠れ住む選択をしてきた』
「……」
『少し、難しい話をし過ぎたね』
ゼゼは私を手招く。近寄れば洞窟の中央部に座らされた。
『お前は毎日お祈りをしているだろう?』
「分かるの?」
『あぁ。世界がこの程度ですんでいるのは、お前の祈りあってこそだ。数日でもお前が祈りをサボれば、すぐに穢れは世界を覆うよ』
「それほど……」
『祈りさえ、祈りさえあればいい。世界のどこかで聖女が祈ってさえいれば現状維持は容易だ』
「本当に、消さなくてもいいの?」
『構わないし、どうせ今日一日の祈りでは無理だ。世界の穢れを消すには聖女が毎日聖樹の元で祈る事が必要だ。アリエステも世界の穢れを完全に消すまでに長い年月がかかった。その後は一生をこの地で過ごし、祈りを続けた』
ゼゼは器用に前足で私の頭を撫でた。
『お祈りをしておくれ。気負うことはない』
そうは言われても……。
手を組み、祈りの姿勢を取る。今知ったばかりの情報がいっぱいで、とても女神様に祈る気分にはなれなかった。
でもひとつ、はっきりとわかったことがある。
―――だから、母様は父様の元を去ったんだ。
聖女は陽のあたる場所にいない方が断然良い。ゼゼの言いたいことはそうなのだろう。聖女であると申し出る事は注目を集めてしまうということだ。
歴代の聖女はひっそりと、世界の隅で、誰にも気付かれずに祈りを捧げてきたのだ。
私は、このままアルセリオンに居てもいいの?
ルークの婚約者という立場で居ていいのだろうか。
ぶわりと嫌な汗が出てきた。
私が聖女であると名乗りをあげたらどうなるだろうか……。
歓迎される?
エリュナ・サンクティアに連れていかれる?
分からない。
女神様、女神様。私はどうすればいいのでしょうか。
世界から穢れは消えて欲しい。だけれど、聖女だと知られたあと、世界が私をどう扱うのか―――怖かった。
祈り子達はその身を犠牲にして穢れに対処している。穢れのせいで住めなくなってしまった土地もいっぱいある。
でも、今、世界は平和なように見える。
ここに一石を投じてしまって本当にいいのだろうか。
聖女ということが露見したらまず自由には過ごせない。きっとルークとの婚約も白紙になり、無理矢理エリュナ・サンクティアに連れていかれ、祈りを捧げ続けなければならないのだろう。望まぬ役目も負わなくてはならないかもしれない。―――祈り子達が愛のない子を産んでいるように。
ゾッと寒気がはしる。
私は―――
私は―――自分が可愛い。




