73.転換点
「アズール、体調悪い?」
「えっ?」
夜に予定確認に来てくれたアズールは、どこか上の空だった。いつもなら安心する柔らかい笑顔で話してくれるのに、今日は眉間にシワが寄っている。
「そう、ですね……。体調が悪い訳では無いのですが、少し考えなければならない事がありまして……」
アズールは少し狼狽え、観念したように項垂れた。
「それは……」
言いかけて口を噤む。やはり聞くのは恥ずかしい。
だけど、聞くのなら今このタイミングしかない気がした。
「……あの、噂の事……?」
言ってしまった。顔に熱が集まる。
「……やはりお嬢様のお耳にも入っているのですね。申し訳ございません。私が至らぬばかりにご不快な思いをさせてしまい」
「う、ううん!アズールのせいじゃないよ!」
責任感の強いアズールは、こんな事も自分のせいだと思っていたみたいだ。こんな噂なんて誰の責任でもないのに。
「アズールが通学別にしたいって言い出したのもこの噂が原因?」
「はい。お嬢様と外で共にいる時間を減らせばすぐに収まるだろうと思っていたのですが……」
それでも噂は止まらなかった。
アズールは、私のためを思って距離を置いてくれていたのに。
「噂なんてそんなものよ。私が可愛いからみんなに妬まれちゃってるだけ」
「お嬢様を妬む人間など許せません」
キッパリと言い切ったアズールに頬が緩む。
アズールはいつも私の味方でいてくれる。私のことを一番に考えてくれる。私が欲しい言葉をくれる。
……大好き。
私は嬉しくなってニコニコしていたけど、アズールはまた、何か考え込むように視線を下げた。
「どうしたの?」
「……いえ、その」
アズールは歯切れ悪く視線を彷徨わせる。
も、もも、もしかして照れてる!?やっぱりアズールもちょっと私の事意識してくれているんだ!
ちょっと嬉しいかもしれない。ぼうっと見とれているとアズールの口が開いた。
「……この噂をそろそろ終息させたいと手を打とうとしたのですが…、少しややこしい事になってしまい……」
そう言ってアズールは顔を手でおおった。耳まで真っ赤になっている。
……こんなアズール、初めて見た。
そして、疑問もあった。
「終息って、何かするの?」
「……いえ……」
アズールは顔を真っ赤にしたままごほんと咳払いをした。
「そ、それよりもお嬢様。今日は砂糖菓子をお持ちしましたよ」
話を逸らすように、アズールはいつもの小瓶を取り出した。中には色とりどりの砂糖菓子が詰まっていた。よく見るとお花の形や蝶々の形になっている。
「わぁ!可愛い」
「今日は城下町で評判の砂糖菓子を取り寄せてみました。どれがいいですか?」
「んー。あっ、そのオレンジ色の小鳥さんがいい!」
「ふふ。こちらですね」
アズールは小瓶を振って小鳥さんの砂糖菓子を取り出す。
いつも通り、私はアズールが砂糖菓子を食べさせてくれるのを待った。
アズールは、じっと私を見つめた。
……どうしたんだろう。やっぱり今日のアズールは様子がおかしい。
そんなことを考えていると、アズールが少しだけ屈んで、私の手をとる。そして小鳥の砂糖菓子を私の掌に乗せた。
「アズール……?」
アズールはいつものように微笑む。
思わず目を見開く。毎夜アズールにお菓子を食べさせてもらうのは、イーサリオンに来たばかりの頃から続く、習慣だったのだ。彼に惹かれることになったきっかけの一つと言ってもいい。
「……食べさせて、くれないの?」
「もうお嬢様も子供ではないのですから。私が食べさせるのは終わりです」
掌の小鳥を見つめる。
アズールが何を考えて、こう言い出したのかは分からない。
だけど、私にとっては涙が出てしまいそうになるくらい悲しい事だった。目尻に溜まってしまった涙を零れ落ちる前に袖口で吸い取った。
「お嬢様?」
アズールが不思議そうに見下ろしてくる。
泣いてるだなんて、バレたくなくて、アズールから顔を背けた。
「なんだか、さ、寂しくなっちゃったーなんて」
誤魔化すように笑った。掌の小鳥を自分で口に放り込む。砂糖菓子は口の中ですぐに溶けてなくなってしまった。
「……美味しいね、これ」
味なんて分からなかったけど、口の中がとても甘くなった。
「……それは良かったです。もう一ついかがですか?」
アズールはそう言って小瓶を差し出してくるのを、私は手で制した。
「ううん。今日はもう休むことにするよ。ありがとうアズール。もう下がっていいよ」
「そう、ですか」
アズールは「では、失礼します」と言って小瓶の蓋を閉めた。
「お嬢様」
出来れば涙が見つかる前に早く出ていって欲しかったけれど、アズールは私を呼んだ。
「……なぁに?」
「……何か悩み事があるのなら、お話を聞きますよ……?」
バレてしまっていたようだ。
だけれど、この涙の理由までは気付かれていないだろう。私は困ったように微笑むしかなかった。
「噂の件ですか?」
「それもあるけど……色々」
「私ではお嬢様のお力になれないのでしょうか?」
「アズールは充分私の力になってくれてるよ」
無理矢理微笑んだ。
「ありがとう。でもこれは、私の問題だから……」
好きな人とちょっとだけ距離ができてしまったのが悲しかっただけ、だなんて本人に相談できるはずもなかった。
―――
―――
―――
お嬢様は泣いておられた。
私があのような事を言ったせいで、余計に思い詰めさせてしまったのかもしれない。
ずっと思っていた。幼い頃からの習慣だったとはいえ、お菓子を食べさせるという行為は私達の関係からすれば……親しすぎる。
いつか終わらせなければと思っていた。
レイン様から叱責を受けたのは良い歯止めになった。
それにしても大丈夫だろうか。お嬢様は思い詰めると睡眠が疎かになってしまうお方のようだ。睡眠不足で倒れられたことはまだ記憶に新しい。
悩まれているというのはやはり昨今の噂の事と……想い人の事だろうか。
父さんから内密にと教わった事だが、お嬢様にはルーケンフォード様以外の想い人がいるらしい。
……その方との事で悩まれているのだろうか。
お嬢様は私には、相談事をして下さらない。もし話してくれたら力になるのに。
お嬢様のために出来ることはなんだろうか……。
やはり噂の終息……だろう。
夜の戸締り確認をしながら、廊下を進む。
噂の終息……となると、エミリィのことが頭をよぎる。
あれは、告白されてしまった……と捉えて良いのだろうか。
告白自体は別段初めてではない。家政学校で何度かそういう事を言われた経験はある。だが、その度に丁重にお断りしてきた。
今は、誰か特定の人と恋人関係になるつもりはなかった。私には、お嬢様のお側でお仕えすることが何より優先だった。彼女が婚約、ゆくゆくは結婚されてからそういう事を考えるつもりでいた。
エミリィに婚約をお願いしに行ったのも、彼女なら後腐れなく婚約者役を演ってくれそうだったからだ。
「婚約者役ですかっ?はいはいっ。任せて下さい〜っ」
くらいの軽いノリで協力してくれると思っていた。
そ、それがまさかだ。
あのエミリィがそんな事を言ってくると思わなかった。
エミリィとは同じ屋敷で育った幼なじみ。歳の近い子供は私たちしかいなかったので、昔はずっと二人で遊んでいた。
正直に言うと今までそういう対象として見てはいなかった。けれど、いざ告白されてみたら、今まで告白されたどの女性とも違う。即断でお断りしようとは思えなかった。真剣に考えてしまうくらいにはエミリィのことを好ましいと思っているのだろう。
このような事は、その場の勢いで決めるものではないだろう。だけれど、不思議と、エミリィとなら将来もうまくやっていける気がした。
彼女は決して器用な方ではないが、あの朗らかな性格には惹かれるものがある。
何より今は、お嬢様の問題を後回しには出来ない。
それに……。
足が止まる。窓の外はもう真っ暗で、反射した自分の姿が硝子に写った。
お嬢様と接する度に、得体の知れない罪悪感が生まれるのだ。無防備に触れてくる彼女を愛おしいと思い始めてしまう前に、私は誰か決められた相手を持っておいた方がいいのかもしれない。
……本当は、もっと考える時間が欲しい。
コンコンと部屋をノックする。
キィと少し開いた扉から茶色の瞳が覗いた。
「……こんばんは」
「……何しに来たんですか〜」
扉は外の様子が覗ける程度にだけ開かれ、それ以上は動く様子はなかった。
「これは返さなければと思い……」
そう言ってエミリィの枕を持ち上げる。
エミリィは枕を見ると、小さく息を吐き、ようやく扉を開けてくれた。
私の手から黙って枕を受け取り、そのまま胸に抱えた。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。エミリィは枕を抱きしめてこちらを見ない。
「その、エミリィ」
「……なんですか」
「ありがとうございます」
私がそう言うと、エミリィはふと顔をあげた。
「まだエミリィが望むような言葉は用意していません。私が今から伝える言葉もお嬢様の良からぬ噂を止めるためという本来の目的を果たすためでもあります」
一呼吸おいて、姿勢を整える。
「それでも、やはり、私と、婚約してくれないでしょうか」
言ってしまうと途端に恥ずかしくなってきた。だけど、エミリィだって勇気を出して好きだと伝えてくれたのだ。答えなければならない。
「エミリィのことは好ましく思っています。それは本心です。この先も貴女となら上手くやっていけるのでは、ないかと……思うのです。貴女のことをもっと、よく知っていきたい。出来れば、婚約者として……」
エミリィは枕を抱えたまま固まってしまった。そして、見開かれた瞳が潤んでいく。
「……私、弄ばれてやる気はないですよ?本当にいいんですか?」
「はい」
「本当によく考えました?」
「迷いが全くないと言えば嘘になります」
だけど、今決めるべきなのだと思った。
「やっぱりアズールの一番はお嬢様なんですね……」
「えっ?」
「なんでもないですっ……」
エミリィはそう言うとまた枕を抱えた。
「アズール……は本当に優しいですね」
「そう、ですかね」
エミリィは何かを決意したかのように顔をあげる。
「分かりましたっ。婚約の話お受けしますっ」




