〜 グレイヴ 〜
滅多に足を踏み入れないのに城内の自室を片づけないのは、捨てられないものが置いてあるからだ。
それを美しい言葉で表現するなら、思い出、希望、夢――そんなところになるだろう。
己の身の上に起こったとは信じがたいほどの幸福が人の姿をしたものを抱きしめながら、グレイヴはそっと目を閉じる。
最初の椅子を求めたのは、十二歳の晩秋のこと。なんの目的だったか忘れたが、とにかく街中を歩いていて見つけたのだ。雑貨屋の軒下、うたた寝をする老婆が座っていたものだった。
長年愛用しているのだろうヨレた毛織の肩掛けを巻いた老婆と、その足元には地べたに座り込んだ自分と同年代の少年。商売人の子らしく、小銭を使って釣銭の早勘定の練習をしていた。
品物を買い求めに来た客が声をかけると、彼は無言で人差し指を口にあて、静かに立ち上がって応対をし始める。そして客が引けると、また元の場所に座り込むのだ。下がっていた老婆の肩掛けをそっと直し、自分が着ていた薄っぺらい上着を脱いで膝にかけてやってから。
軒から差し込む昼下がりのやわらかな陽光が、彼らを侵し難く神聖なものであるかのように、街の景色から浮き上がらせた。
涙が出たことを覚えている。
平静を装って店の前を通り過ぎながら、どこも痛くないのに涙がとまらなくて、慌てて路地裏に駆け込んでしゃがみこんだら立てなくなった。
祖母と孫。小さな雑貨屋の、何気ない日常であろう光景。
羨ましいと、思いたくはなかった。なんの不安もなく往来で昼寝のできる老婆と、そんな彼女を当たり前のように守れる薄い肩の護衛の姿が、自分には決して手の届かないものだと気づくのが怖かった。
数日後、どうしてもあの光景が忘れられなくて、老婆が座っていた椅子を買った。驚いたことに、椅子はちゃんと売り物だったのである。
いつもばあちゃんがあっためてたから、きっと飯も美味く感じるよ。少年はそう言って、数枚の銅貨と引き換えに椅子を売ってくれた。稽古着で街をフラフラしているグレイヴは王子に見えなかっただろうし、お世辞にも中古の域を出ない素朴な椅子は、きっと暖かな家族の食卓に据えられるべきものだったのだろう。
八年経って、それは今でもグレイヴの、滅多に足を踏み入れない、自室の隅に置いてある。生まれた場所で、両親と兄弟が住んでいて、けれど決して「家族と住む家」とはいえないこの城で、それでもあの椅子を見れば幸福な絆がそこにあるような気がしたのだ。
その後も椅子は増え続けた。
大きくて立派な一人掛けは、きっと父親に似合うだろうと思った。背もたれが優美な曲線を描く寝椅子は、二番目の兄が見たら喜んで寝転ぶだろうとおかしく思った。
決して椅子が好きなわけではなかったし、現実には一度もだれも座ることなどなかったが、不思議と虚しかったことはない。目に見えないもの、得られなかったものが、たまたま椅子の形をしていただけだったからだ。
けれど、一つだけ本来の役目を果たせる椅子がある。
一番新しい、草花の彫り込まれた可愛らしいものは、いま腕の中にいる少女が座るならと夢想して買い求めた。望めばいますぐにでも叶うそれは、だが叶うとなるとなぜか惜しくも感じる。
グレイヴは、まさに夢のような言葉をくれた娘を抱きしめていた腕をほどき、その滑らかな頰に掌を添わせた。荒れて歪な肌の感触がくすぐったいのか、彼女は小さく笑い声を立てた。
その、やわらかい唇に吸い寄せられる。吐息を奪い、薄い舌を探り出す。大きな目が驚きに見開かれるのがわかったが、見ないことにして目を閉じた。逃げようとする頭を支え、腕ごと抱き込んで抵抗を封じる。
なかなか応じてくれないから、どんどん執拗になっていく。逃げれば追い、抗えば抑え、そうするうちに身の内で膨れ上がる熱に煽られた。いつの間にか艶やかな髪を乱し、細い首、襟元から覗く鎖骨までを撫でていた。
「あ、あ……やめ、も……っ」
切れ切れの高い声に顔を離せば、うっすらと涙をためた黒い瞳が見上げてくる。濡れた唇と忙しない吐息、上気した頰が、あらぬ妄想と交差してとまらない。
たまらず首筋に吸いついた。自分の息も上がっている。やわらかくてスベスベとした感触がするなと思ったら、青いドレスの裾をたくし上げて日差しを知らぬ白い脚をつかんでいた。
「ヤヨイ、ヤヨイ――」
熱に浮かされ、名まえを呼んだ。あの日、初めて自らの裡にある渇望に気づいた日から八年、ようやく手に入れた幸福の名まえ。
首筋に、耳の下に、頰に、そして唇に口づけながら、目の奥が熱くなる。
きっと彼女は、どれほどの幸せを自分に与えてくれたか知らない。でもそれでいい。
切なさのすべてを封じ込めた椅子は、もう増えることはないだろう。ただ彼女が、一番新しくて、草花の彫り込まれた可愛らしい椅子に座って、いつまでも、いつまでもそこにいてくれれば、それでいい。
――いつの日かその足元には、幼い少年が座っている。
その想像は、いくらかグレイヴを冷静にした。知らず狭い口内に深く差し込んでいた舌を抜き、危うい場所に限りなく接近していた手でさりげなくドレスの裾を直す。
すんでのところで獣の顎門から逃れたことを乙女の勘で察したのだろう、もはや涙目を通り越して本当に泣いていたヤヨイが、心から安堵したように息をついた。しかしグレイヴの服を握りしめた手はふるえているし、強張る肩からは力が抜けていない。
怖がらせてしまった。しかも露わな首筋には、隠しようのない赤い痕があるではないか。
(……ヒロに殺されるかもしれない……)
イゼの家に滞在しているという男の顔を思い浮かべ、背筋が寒くなる。反面、怖がらせた当のグレイヴにしがみついて息を乱すヤヨイの姿に、性懲りも無くたまらなくなった。
グレイヴは細心の注意を払って、そっとヤヨイを抱きしめた。
ただ彼女に、愛していると伝えたいだけなのだ。もちろん言葉をもらえば嬉しいし、いずれは身体も求めたい。子どもが生まれてから結婚するのが普通なのだ、別に責められることではない。だが、いまは、グレイヴの心を受け取ってくれるだけでも満足すべきなのだろう。
愛らしい額に唇を寄せ、こぼれた涙を優しく拭う。泣かせたのは自分だというのに、大人しくされるがままのヤヨイに深い深い喜びを得る。
「すまなかった」
あまり誠意のこもっていない謝罪を囁けば、ヤヨイは一瞬の間の後で首を振り、身をよじって抱きついてきた。ドンと心臓が跳ね上がり、宙に浮いた手が行き場を失う。
これは続きをしてもいいということか、と血迷いかけるが、そんなわけがない。耳元では鼻をすする音がするし、細い肩はまだふるえている。
浮いていた手で、おそるおそる頭を撫でた。さらにぎゅうっとしがみつかれて、今度は己の身が宙に浮いたかと思った。
そうだろうとは思っていたが、彼女は男に身体を預けた経験がないのだ。スウェンバックで口づけた夜もどこか挙動不審だったし、それすらも初めてだったのかもしれない。もしかしたら、つい先ほどグレイヴが脚を撫ですさっていたことも気づいていないのでは。
可愛い、大切にしよう、心からそう誓う反面、さてなにをどう教え込もうかと黒いものも湧いてくる。
自分が涎を垂らした獣にすがりついていることも知らないヤヨイは、やがて気恥ずかしげに身を起こし、ちらりとグレイヴを見やった。
「……王子はいきなりで、なにも言わないと……怖い」
「そ、そうか。悪かった」
やましいことを考えていたので、清らかな抗議に思いのほか狼狽えた。
これに懲りて、もう触れるなと言われたらどうしよう――グレイヴがそんな煮えたことを危ぶんでいると、しかしヤヨイは再び抱きついてきた。
「もう……怖いの、しないで……」
拙い言葉で、恥ずかしそうに囁かれ、グレイヴは咄嗟に掌で口元を覆った。妙な声が出そうだったし、鼻血が出ていないか確認しなければならなかったからだ。
込み上げる幸福感のまま、竦む身体を腕の中に閉じ込めた。それから体の一部に不都合があることに気づいて、さりげなく座り直して彼女から遠ざける。
なんだろう、どうしたらいいのだろうか。
少し前まであんなに胡散臭そうに、警戒心も露わにしていたヤヨイが、心通じた途端にこうも可愛くなるなんて、もう本当にどうしてやるべきなのか。
とりあえず抱き込んだヤヨイの背中をさすり、力が抜けていくことに安堵した。
そうだ、まずはここが安心できる場所だと、定位置になるのだと思ってもらうのが先決ではないか。どうしたらもこうしたらもないのだ。
愛しい女が座ってくれればと願った椅子に、そっと目を向ける。
怖くしないと約束することはできないが、努力はすると伝えよう。それからあの椅子を贈って、座る姿を見せてもらうのもいい。
新居の居間で暖炉の前に置くとするなら、火除けの衝立も必要だ。暖かさまで奪わないよう小さなもので、面には絹を貼ろう。出入りの商人に布を持って来させて、ヤヨイに選ばせてもいい。
ほうっと息をついて顔を上げたヤヨイは、照れくさそうに微笑んできゅっと唇をかんだ。
そこから目が離せないグレイヴは、やっぱり約束は無理だとしみじみ思いながら顔を傾け、王からの贈り物――城下の屋敷に引っ越すのは、明日にしようと心に決めた。
二人で暮らす家なのだと、まだヤヨイに告げてもいないのに。




