第六十九話 教興寺の戦い 終幕
朝に一度上がった雨は、昼前に再び本降りとなった。
飯盛城の包囲陣に加わっていた津田算長は、紀州勢を束ねる湯川直光に、一時撤退を直訴する。
「鉄砲の上手が各所に散っちゃあるよって、雨ん中射撃能う数が足らんのし。一度教興寺か高屋城まで退いて仕切り直さんと、どっかがもじけたら雪崩を打って崩れるのし」
直光は算長の言を重く見たものの、飯盛城の包囲を解いての撤退は彼の一存で決定できるものではなかった。
「わかった、わかった。安見殿に早馬遣わすよって、しばし堪えちゃってくれ。しかし敵ゃ肝が座っとるのう、実休が雨ん中討ち取られちょるもんで、雨中決戦を狙っては来んと思っちょったんじゃが」
「……待つなら一刻がええとこやのし。それよりかかるようなら、わえら勝手に去んでくるのし」
算長はそう言って大鉄砲を抱え、戦線に戻る。
果たして算長の予想は的中した。
安見宗房の陣へと遣わした早馬は戻らず、午刻を過ぎたころ、包囲陣の一角から火の手が上がったのである。
火が出たのは、和泉松浦勢の陣所からであった。
松浦勢は久米田以降、実休の死と岸和田城陥落により、妻子を人質に取られ、前線に立たされている降兵たちである。
あるいはこの失火、城内の長慶と通じてのものであったかもしれない。
ともかく、陣所に火が出たことで、混乱が生じた。
松浦勢の一部が崩れ立ち、そこに三好咲岩の軍勢が押し寄せてきた。
「こりゃあ、あかん。根来衆は急ぎ集まれ。さっさと退こら」
火の手を見るや、すかさず独断で退却を下知する算長に、無名の男が言う。
「しかし監物殿、ここで我等が退いては、湯川殿が孤立いたします」
「わえらが堪えたとて、連れもて死ぬが落ちじょ」
「私は残ります。もう負け戦はこりごりです!」
男は、燃えるような瞳を算長に向けてそう言った。
算長はしばしの沈黙ののち、十匁の侍筒を一丁渡して言う。
「わかった。じゃが、おまはんは見どころある侍じょ。こんなとこで死ぬなよ」
言うと、算長は身をひるがえし、集まった根来衆とともに退いていく。
根来衆の退却は速い。
鉄砲と弾薬を背負ったまま隊伍を組み、射撃しながら後退するのである。
傍目にはとても退いているようには見えなかった。
男はその様子を見ながら、湯川直光の陣へと急ぐ。
根来衆の退却を伝え、算長の具申通り、教興寺までいったん退くことを再度進言するつもりであった。
そのとき。
飯盛城の追手門が、轟音を上げて開いた。
長慶の旗本、ひと月におよぶ籠城の中でもその肉体と士気を保ち続けた最も精強なおよそ二百騎が、待ちに待った逆襲のときとばかりに、湯川陣へと殺到したのである。
前後挟撃を受けた湯川勢は、たちまち大恐慌へと陥った。
各所で、次々と火の手が上がっていく。
将兵は入り乱れ、もはや戦場に秩序は消え失せた。
間もなく、三好勢の声が上がる。
「敵将、討ち取ったり! 湯川民部、討ち取ったり!」
燃え盛る火と轟く馬蹄の音の中で、無名の男は鉄砲を抱き、倒れ伏した。
不運の人生を呪いながら、ようやく死ねるという安らぎとともに、煙にまかれ、彼は気を失った。
かくて飯盛城で敵の包囲を破った義興は、返す刀で南へと向かう。
教興寺畷では、松永勢と大和勢、そして来援した安見宗房の河内勢が入り交じり、一進一退の激戦を繰り広げていた。
いや、明らかに松永勢の分が悪く見えるが、押されては再び盛り返して、防戦一方でありながら不思議にも陣を崩さない。
そこに、万を超える義興の本隊が、北から横撃を加えたのである。
精強を誇る大和勢も、これには抗すべくも無かった。
敗勢を悟った島左近は、馬上、少しも枯れぬ声のまま吠える。
「松永霜台、まずは御見事! 決着は大和にていたそう! 退き鉦鳴らせぃ!」
吠えながら、言葉とは真逆に自ら槍を振るって突進してくる。
左近は守りに徹する松永勢を蹴散らし蹴散らし、押しに押したところで突然馬首を返すと、すでに一町ばかりも退いた自軍の最後尾について、悠々と退いていった。
「……くそったれ、あいつとは二度と戦いたくねえ」
対する久秀はすでに馬を降り、鎧も顔も泥まみれになっている。
将の姿だけを見れば、どちらが勝ったか判然としない。
しかし、大局はすでに決していた。
大和勢の退却により、安見宗房の部隊も崩れ、河内勢は散り散りになって逃げ惑う。
義興はこれを巧みに追い立て、畠山高政の陣へとさらに追撃の手を伸ばす。
高政は身辺の手勢だけを連れ、高屋城に退却したが、義興の軍が止まらず追ってくるのを見て、軍をまとめる間もなく、紀伊へと落ちていった。
畿内の趨勢を決める大決戦は、三好長慶の勝利に終わったのである。
……いまだ火が燻る中、飯盛城では戦死者の収容が始まっていた。
無名の男は意識を取り戻したものの、体は動かなかった。
算長に渡された侍筒を抱きしめたまま、ただ死ぬときを待つばかりであった。
「サンチョ殿、こやつ息があり申す」
男の生存を確認した兵が、部隊長と思しき武将にそう報告するのが聞こえた。
サンチョと呼ばれた武将は、男の顔を覗き込んで言う。
「三箇城主、三箇サンチョと申す。その侍筒、名のある武士とお見受けするが、名を名乗られよ」
「……殺せ」
男は力なくそう答えた。
半ば、満足もしていた。
津田算長ほどの男に、侍として認められたのだ。
その証であるこの鉄砲を抱いて死ぬのが、自分にできるもっとも誇らしい死に方であるように思えた。
三箇サンチョは周囲を見渡し、嘆息して言う。
「火と煙にて、この辺りだけでも死者は百名を数える。かくも過酷な戦場でなお生き残りたるは、デウスが生きよと命じておられるのであろう。生きられよ。そして為すべきを為し給え」
言うと、サンチョは男の手に竹筒を握らせた。
清涼な水がその中に満ちているのを、男の焼けた掌が感じた。
「この辺りはもうよい。生存者がおれば知らせよ、敵なりとも無用な殺生はするな」
サンチョが周囲にそう命じると、幾人かの武者は切支丹がよくそうするように、胸の前で十字を切り、散っていった。
男は震える手を持ち上げ、ゆっくりと水を喉に流し込んだ。
――まだ、死ねぬ。
積もりに積もった不運。
積もれば積もるほどに、心に染み付いた屈辱と挫折がより大きな栄光を求める。
この男の傷つき果てた心の染みを拭い去るのには、いったいどれほどの栄光が必要だろうか。




