第六十八話 教興寺の戦い その5 天気雨
飯盛城が包囲されて、丸ひと月が経った。
鳥養の義興陣には、ついに三好方最後の軍団、四国勢が合流を果たす。
主君を失い、あまたの兵を失い、しかしその親、兄弟、子らが、なおも雪辱のために立ち上がったのである。
阿波勢に三好長逸が説いて集めた畿内の兵力を合わせ、その総勢、およそ六万。
飯盛城を囲む畠山勢の四万を圧倒する、超大兵力である。
この兵を背に受けて、安見宗房は戦慄した。
実休を討ち果たし、京、和泉、河内を制圧し、敵本拠を包囲している。
完全な勝勢と言っていいはずだった。
そのはずが、今は自軍をはるかに上回る敵兵力を背に抱え、目の前の城はいまだ落ちる気配も見せない。
勝利目前から一転して、窮地に陥ってしまったのである。
だが、まだ希望はあった。
京を制圧した六角勢およそ二万余が南下し、畠山軍とともに三好義興を挟撃することができれば、勝算は十分にある。
宗房は六角承禎および伊勢貞孝に向けて、悲痛なまでの催促を送った。
その翌日のこと。
宗房からの催促を受け取った承禎は、即、伊勢貞孝との会談を取り付ける。
「伊勢殿、公方様はまだ御翻意なされぬか」
承禎の言葉は張り詰めており、もはや一刻の猶予も無いことが、貞孝にもはっきりと伝わっていた。
だが、貞孝の答えは曖昧であった。
「い、いましばし、時を……」
「時はもうござらぬ。畠山殿より矢の催促、すでに鳥養には三好義興の軍勢六万が結集しており、いつ決戦となるやも知れぬ。必ず先手を打ってこれを叩かねばなりませぬ」
「わかっており申す、しかし」
承禎は拳で床を叩き、怒りを露わにして言う。
「そのためには、公方様のご同意が必要不可欠! 石清水八幡に在する将軍の軍勢、その数僅少と言えども、率いるは足利将軍。われらが南下したその刹那、六角討滅を呼号されでもすれば、浅井、斎藤が喜んで南近江へと侵攻して来よう。六角はその側背を突かれることになり、たとえ三好に勝ったとて、滅亡は必至。よもや……」
承禎の目に、怒りとともに強い猜疑の色が浮かび上がる。
「よもや、漁夫の利を狙うておるのではありますまいな」
「馬鹿な、そのようなこと!」
貞孝は即座に否定したが、承禎の疑いはもっともであった。
もし三好と六角、畠山が三者ともに食い合って滅べば、最後に無傷で畿内に立つのは義輝ただひとりである。
「伊勢殿、心得置かれよ。六角は将軍のお墨付きが得られるまで、決して動かぬ。仮に畠山が三好に討たれ、われらもまた長慶に膝を屈することとなろうとも、近江が滅ぶよりはましだ」
承禎はそう言い切り、さらに一言を付け添えた。
「しかし、もしそうなったとき、伊勢殿、貴殿のお立場がいかなるものとなるか、よくよく考えられたほうがよい。この数日が、貴殿の命運を決しまするぞ」
承禎の言葉に、貞孝はふるえた。
貞孝は、将軍が石清水八幡へと退くにあたってこれに同道せず、六角氏支配下の洛中で、政所としての政務を継続している。
もはや三好を、そして将軍を裏切ったといっていい。
もし三好勢が勝利し、再び京が三好の手に戻ることとなれば、貞孝が討たれるのは確実であった。
「重々……承知しており申す」
貞孝はそう答え、会談を打ち切ると、そのまま石清水八幡宮へと馬を飛ばした。
石清水八幡に急行した伊勢貞孝は、将軍の前に転び出るようにして平伏し、頭を地にこすりつけて言った。
「上様、今一度、今一度ご再考願えませぬか! 今ご決断いただければ、三好を討ち滅ぼし、畿内の覇権を取り戻すことができるのでございます!」
しかし、義輝は静かに首を振り、ぽつりと言った。
「貞孝、三好を討って、天下をなんとする」
「は、天下を……」
「六角承禎、あるいは畠山高政に、天下の大乱鎮める器量があると思うか」
問われて、貞孝は答えに窮し、苦しまぎれのことを言った。
「天下を治めるは、上様にございまする」
義輝は、はっきり不快感を表して応じる。
「……佞言、忠に似たりという。我一人で天下を治めることはできぬと、朽木ですでに痛いほど思い知っておるわ」
貞孝は墓穴を掘った。
義輝が近江朽木でそのことを痛感している間、貞孝は義輝を裏切り、京で長慶に仕えていたのである。
そして今また、貞孝は義輝と同道せず、京に残っている。
二度目の裏切りであった。
言葉を失い、頭を垂れる貞孝に、義輝は言う。
「貞孝、今からでいい。我とともにここに残れ。さすれば、義興に伊勢家を不問に付すよう頼んでやろう」
しばしの沈黙ののち、貞孝は沈鬱な表情のまま、力なく答えた。
「……実休殿が討たれておりますれば、今更、元へは戻れませぬ」
「左様か。好きにせよ」
貞孝はうな垂れたまま、八幡宮を去った。
六角承禎はついに動かず、決戦のときが迫っていた。
「父上からの文はまだ届きませんか」
軍勢ひしめく鳥養の陣で、義興は焦りを抑えながら、久秀に問う。
久秀は険しい表情で首を振った。
「こっちの数が揃うにつれて、敵方も警戒を強めてやがる。飯盛城へは猫の子一匹入れないほどの分厚い包囲だ。やつらもここが畿内の趨勢を決める戦場だとわかってる。六角が動かずとも、一歩も退かぬ構えだな」
久秀の答えに、三好長逸が不安げに問いを重ねた。
「飯盛城の包囲もひと月におよび、もはや持ちこたえていること自体が驚異といっていい状況です。ここは大殿の指図を待たずして、攻勢をかけるべきでは」
およそ二万兵にも及ぶ大募兵を成し遂げた長逸は、すでに畠山・三好の戦力差を逆転させた大功労者であるが、その武功も飯盛城が落ちては水泡に帰す。
それだけに焦りの色も濃かった。
そこに、使番が駆け込んでくる。
「飯盛城よりの矢文に!」
義興は息を切らせた兵をねぎらい、文を開く。
「なんと書いてある」
久秀が問うと、義興は声を低くして言った。
「雨を待て、と」
短い指示であった。おそらく、矢文も数を放たねば届かず、敵方に回収されるゆえに、作戦の意図を詳しく書き込むわけにはいかぬものと見えた。
時は五月の半ばである。
五月雨が降り始めれば、雨はしばらく降り続くであろう。
しかし、義興も長逸も、この指示には疑問を感じずにおれなかった。
長逸がかえって不安が増したといった顔で言う。
「おそらく鉄砲の使えぬ雨の日を待てということと推測しますが、久米田で実休殿は、雨中狙撃されたと聞いております。根来の鉄砲衆は雨でも射撃能う様子。飯盛城は早期に包囲されたため、大殿のもとに久米田の詳しい情報が入っておらぬのでは」
しかし、久秀はそれを否定する。
「いや、おそらく長慶が正しい」
久秀は二人にだけ伝わるよう声を潜める。
「前線から届く小競り合いの状況を聞くに、どの戦闘でも敵方の鉄砲の威力すさまじく、その射撃の精度、発すればことごとく士卒を射抜くという」
義興がうなずく。
「それは私も聞いています。敵方の鉄砲、恐るべきもの。しかし敵は雨中も射撃できるとなれば、かえって我が方のみ鉄砲を使えず、不利になるのでは」
久秀が首を振る。
「考えてみろ。敵勢は四万に及び、北は飯盛城、南は畠山高政の本陣がある教興寺あたりまで、三里もの距離がある。だというのに、いずれの戦場からも同じ報告が上がってくるのは計算が合わねえ。敵方はおよそ四千丁もの鉄砲を用意しておるそうだが、百発百中の鉄砲手が四千もいると思うか? 敵方の十人に一人の割合となるぞ」
久秀の問いに、長逸が応じる。
「つまり、敵は根来衆を分散配置しておると?」
「そうだ。小競り合いでは分散配置された根来の鉄砲上手のみが射撃するゆえ、どの戦場でも百発百中の精度を出しているのだ。しかし雨中射撃できるほどの手練は、多く見積もっても全体で数百。これを分散して配置しておるとすれば、せいぜい一箇所に数十人」
久秀の言葉を、義興がつなぐ。
「鉄砲は数を束ねて火力を増すもの。雨中射撃できる者がひとつの戦場に数十ほどしかおらぬとなれば、雨の中での乱戦に持ち込むことで敵方の鉄砲はほとんど無力化できますね」
「そうだ。長慶はもうひと月も、敵の最も激しい攻撃をしのいでいる。おれたちよりもはるかに深く、敵の戦術を知悉していると考えるべきだ」
この言葉を受けて、義興は決断を下す。
「将を集め、軍議を開きましょう。次に雨が降るときが、決戦のときです」
そして、雨の夜が来た。
夜半、三好勢の諸将は義興の本陣に参集し、決戦の手立てを確認して散る。
飯盛城の救援には、三好咲岩(康長)らの率いる四国勢と義興の本隊が。
長逸、久秀、宗勝らはこれを支援すべく畠山本陣のある教興寺方面を攻める。
早暁に行軍を開始した久秀らが畠山方の部隊と接敵したのは、すでに朝日が登り切ったころであった。
久秀に馬を並べ、宗勝が物見からの報せを告げる
「兄者、前方の敵方は十市、筒井らの大和衆のようだ。畠山本陣からは、安見宗房の河内衆が向かってきている」
久秀は苦笑した。
「筒井勢には気をつけろ。やつら、とんでもなく手強いぞ。おれも何度も煮え湯を飲まされた」
「島清興か。兄者をやり込めるなら相当なものだろう。しかしそれより、雨が上がってしまった」
宗勝は手のひらを天に向け、雨粒が落ちてこないことを示す。
雲間からは青空すら覗いていた。
「仕方あるまい。すでに全軍が動いている。引き返すわけにはいかん。おれたちの役目は、義興が飯盛城の包囲を破るまで、敵を足止めすることだ。馬を降りて戦い、狙撃を警戒しろ。討死だけはするなよ」
「兄者もな。武運を祈る」
言って、宗勝は馬を駆けさせ、自軍へと戻る。
「さて、厄介なやつが来たもんだな」
久秀の目にも、筒井の旗が映った。そして、敵方から大きな声が聞こえる。
「あれに見ゆるは松永が旗印! 一石二鳥かな、ここにて松永霜台討ち果たし、大和を取り戻してくれようぞ!」
島左近の声である。
馬上にその大きな身体を誇示しながら、兵を奮い立たせている。
久秀にとって、その姿はかつての自身を見るようであった。
「おれの声は、もはやあいつに及ばんな」
そう、独りごちた。
久秀は今年、齢五十二を数える。
もはや老年である。
かつてはどんな武芸者が相手でも打ち勝てるような気がしたものだが、今、あの島左近と一騎打ちでもしようものなら、間違いなく数合で敗れて死ぬであろう。
「長慶……おれは、勝てるかな」
そう呟き、天を仰ぐ。
そのとき。
ぽつり、と、久秀の頬を打つものがあった。
ぽつり、ぽつり。
日の注ぐ青空から、不可思議にも降ってきた、雨粒であった。
それはたちまち数を増し、柔らかな夏の雨となっていく。
「……天気雨、か」
久秀の脳裏に、過去の情景が浮かぶ。
船で堺へと攻め込んだ、長慶との初めての戦。
あのときも、雨が降っていた。
久秀は総身に力の湧き出るのを感じ、声を放つ。
「見よ、敵は筒井の島左近! よき敵ぞ、彼奴を此処に押し止めよ。さらば御味方の勝利疑いなし! 天下の帰趨、この地に在るぞ!」
その声は、島左近の声をもかき消し、天を貫くが如くに轟いた。
兵もまた、腹の底からの声でそれに応える。
「応! 応! 応!」
地に、声が満ちる。
戦が始まった。




