気まずい帰り道
「そのときのあの人たちのあわてふためく顔ったら!ジャルディニエなんか耳まで真っ赤にしていたのよ。ホントにかわいかったわ、あなたにも見せてあげたいくらいに」
リッシュ夫人は笑い続ける。
彼女は堅物のように見えて、意外と茶目っ気があるようだ。
「はあ、さいですか」
話し込んでいるうちに緊張が少しほぐれてきたから、ジュスティーヌはテーブルの皿の上に置かれたマドレーヌをひとつ、人差し指と親指でつまみ上げて口に入れた。
ほのかな甘みと柔らかさが舌から伝わって、とても美味しい。
ジュスティーヌは食にこだわりはないから、庶民の間で売られている菓子でも美味しく食べられるが、ときどきジュリエット嬢のところで食べていたお菓子が恋しくなるときがある。
このマドレーヌは、その当時に食べていたのと似たような味がする。
長いこと恋しく感じていた味に再会できると思っていなかったジュスティーヌは、これを用意してくれたリッシュ夫人に少しばかり感謝した。
「それと、ベンジャミン様は勉強家で知恵者でいらっしゃるから、大臣としての昇進も遠くない話だわ。すでに何人かの大臣との信頼も築けておりますの。見事なまでのスピード出世ですわ」
「あの人ならば、それぐらいのことがあっても納得ですわな。実に素晴らしいことです」
ジュスティーヌは、今日は留守にしているリッシュ氏のことを考えた。
リッシュ氏は商人である。
商売は頭を使うし、法律にも明るくなければ務まらない。
それで成功したリッシュ氏だから、大臣にもなり得るだろう。
「でもまあ、いいことばかりではありませんわ。困ったこともあるもので…」
リッシュ夫人の表情に、翳りが見えてきた。
「なんです?」
ここでジュスティーヌは、ひょっとして呼び出した理由をこれから話されるのではないかと考えて、心の準備を始めた。
「いま、ベンジャミン様は郵政大臣さまの助手をしているのです。お仕えしている郵政大臣さまからの信頼も厚いし、周囲の皆さまからも慕われていますわ」
「それはいいことですな」
ジュスティーヌはティーポットを持って傾けると、カップになみなみ紅茶を注いだ。
「ベンジャミン様はよくも悪くも真面目で優しくていらっしゃるから、そういう敵意にまるで気づかないのよ。困った人だわ」
リッシュ夫人が、しなやかな肩を上下させるくらいに大きなため息をついた。
「うーむ…言っちゃあ難ですが、政界っていうのは清濁入り混じる界隈と聞きますからねえ」
ジュスティーヌは今度はクッキーをつまんで、口に放り投げた。
サクサク軽い食感と、ふんわりとしたバターの甘みが舌に伝わる。
真剣な話のときにお菓子をつまむなんて行動は、本来なら許されざる行為だが、リッシュ夫人は顔をしかめることさえしなかった。
「ベアトリーチェ様、ひょっとしてアタシをここに呼んだのは、ベンジャミン様に命の危機が迫っているからでございますか?あのお方の命を狙うヤカラがいて、それを退治したいからとか、そういうことでございますか?」
ジュスティーヌは、先ほどカップいっぱいに入れた紅茶を飲み干した。
飲まずに置いていたものだから、紅茶は少しばかり冷めていたが、それでも美味しかった。
──ベアトリーチェ様、こんないいところの茶を淹れてくださるとは、実にありがたい
死ぬか生きるかの話をしているのに、ジュスティーそんなことを考えた。
「なぜそんなふうに思うのかしら?」
リッシュ夫人が質問に質問で返した。
「…違うのでございますか?」
はて、違うとしたら自分はなぜ呼び出されたのだろう。
ジュスティーヌは、リッシュ夫人の真意を探った。
「違うわ。いまのところは目くじらを立てる人がいるけれど、命まで奪おうと考える輩はいない。少なくとも、それらしき人はいない。そういったところね。でもまあ、そう。そう言ってくださるということは、あなたはもしベンジャミン様に危険がせまったら、助けてくださるのよね?」
「ええ、まあ、こないだはなかなかの額の報酬をいただきましたからね…」
そう返した途端、リッシュ夫人の唇が意味深に弧を描いた。
それを見たジュスティーヌは、しまった!と思った。
「そう。では今後ともよろしくお願いするわね。何かあったら、また来てちょうだい。報酬はたくさん出すから」
リッシュ夫人がニッーと笑った。
「……ええ、かしこまりましたよ、ベアトリーチェ様」
ジュスティーヌは、自分の迂闊さを反省した。
同時に、リッシュ夫人の狡猾さに驚き感心もした。
──アタシとしたことが、こいつは一本取られた!
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リッシュ夫人の狙いは、これからもジュスティーヌを利用し続けることだった。
そして、そういった約束をジュスティーヌの側から取り付けることだったのだ。
なんだってこんな回りくどい手口を使ったのかといえば、それは彼女のやんごとなき生まれに深く関係している。
この国では、いや、この国に限らず、たとえ王侯貴族といえども、下の立場の人間を好き放題できるわけではない。
何か大変な願い事をするには相手の了承を得て、相応の報酬を与えることが、王侯貴族の暗黙の了解なのだ。
もし強制的に面倒を押し付けて、それを誰かに告発されたなら悪評が立ち、立場がまずくなる。
それを防ぐために、リッシュ夫人はこんな遠回しな手口を使ったのだ。
そしていま、事実上ジュスティーヌとリッシュ夫人との間に、新たな契約が成立した。
ジュスティーヌは今後リッシュ夫妻やその家の人々のために働き、リッシュ夫人はそれに見合った報酬を渡す。
というものだ。
契約の内容自体は別に構わない。
謝礼を貰えるなら、ジュスティーヌはいくらでも動く。
しかし、リッシュ夫人のこの頼み事とは名ばかりの罠に引っかかった自分が、どうにも歯がゆい。
そんなジュスティーヌに、リッシュ夫人は変わらぬ様子で優雅に微笑みかける。
「今日はわざわざ来てくれてありがとう。そのお菓子、ぜんぶ持って帰っていいわよ」
──見事なまでの厄介払いだなあ…
目的は果たしたのだから、相手を帰すのは当然であろう。
冷酷にも思える反面、この切り替えの早さは見習いたい気持ちにもなった。
──前のダンナのところで散々揉まれてきたのだろうなあ……そうじゃなきゃ、こんな算段は到底思いつくまい………
ジュスティーヌは腹を立てるどころか、これまでのリッシュ夫人の軌跡を考えて感心さえしていた。
「へえ…ありがとうございます」
お言葉に甘えて、ジュスティーヌは出されたお菓子をすべて持って帰ることにした。
さらにリッシュ夫人がヴァイオレットに命じて、厚意でほかにもお菓子や高価な茶葉、パンなんかを追加して持たせてくれた。
庶民特有のさもしい部分も持ち合わせているジュスティーヌなので、普段なら喜んで受け取るのだけど、今回ばかりはそれらを不要のお荷物のように感じられた。
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そんなわけで、リッシュ邸からの帰り道はかなり遠く感じられ、足取りもとてつもなく重かった。
どうしたわけかわからないが、リッシュ夫人が持たせてくれたお菓子や茶葉やパンは、いつだったかジュリエット嬢がくれたドレスよりはるかに重く感じられた。
それこそ、持って帰ったお菓子や茶葉をジャン・ジャックとガブリエル、そして勤め先の居酒屋の店主にも分けてやったところ、大いに感謝されたが、心の引っかかりはしばらく居残り続けた。
──ろくでもないもん持って帰っちまったなあ……
そんなジュスティーヌのため息なんてつゆ知らず、ガブリエルとジャン・ジャックと店主は、高価なお菓子や紅茶をありがたく堪能していた。




