婚約破棄計画の後
婚約破棄計画が見事に破綻した、あの騒ぎから数ヶ月後(実際は騒ぎと言えるほど大したトラブルではないのだけど)。
ジュスティーヌはリッシュ邸に呼ばれた。
ラフィヌモン侯爵夫人、いや、現在はリッシュ夫人が、「あのときの礼を言いたいので、差し支えなければこちらに来て欲しい」という旨の手紙をよこしてきたのである。
──うーむ、これはいったいどういう風の吹き回しか…
知らせを受けたとき、ジュスティーヌはそんなふうに疑ったが、こんな手紙を受け取ったからには来ないわけにもいかない。
相手はやんごとなき生まれの女性で、王侯貴族にも顔がきく。
何より、莫大な謝礼をもらった恩もある。
そんなわけで、ジュスティーヌはまたリッシュ邸に向かうこととなった。
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「奥さま、ジュスティーヌさんがいらっしゃいましたよ!」
リッシュ邸に着くなり、ベテランメイドのヴァイオレットがリッシュ夫人のところまで案内してくれた。
「お久しぶりですね、ジュスティーヌさん」
案内された広い部屋の真ん中で、リッシュ夫人が待っていた。
イスに座っているだけなのに優雅さが滲み出るのはやはり、彼女が生まれながらの貴族ゆえだからであろうか。
「お久しぶりでごぜえます、ベアトリーチェ様」
初めて顔を合わせたときとは打って変わって、ジュスティーヌはくだけた口調で挨拶した。
もう素性は割れているのだし、今さら気取る理由もないだろう。
リッシュ夫人も、あまりを気を悪くした様子ではなかった。
夫とその愛人の存在をあっさり許容するような彼女にとっては、ジュスティーヌのコレはそんなに気に留めることではないのかもしれない。
リッシュ夫人は見た目は気難しそうに見えるが、意外と寛容なのだ。
部屋の真ん中には猫脚のテーブルとイス。
それには見事な金の装飾が施されていて、豪奢ながら上品なデザインだ。
そのイスに、脚を揃えて背筋を伸ばして座るリッシュ夫人の、なんと優美なこと。
普段、脚を開いて背を丸めて座るジュスティーヌは、心のうちで感服してしまった。
「どうぞ、お座りになって」
リッシュ夫人が、ジュスティーヌに微笑みかける。
「ええ、失礼しますよ」
リッシュ夫人に促されるまま、ジュスティーヌは彼女の向かいに座った。
「ヴァイオレット、悪いけれどわたくし、ジュスティーヌさんと2人きりでお話ししたいの。下がってくれるかしら?」
「かしこまりました、奥さま」
ヴァイオレットはお辞儀をすると、猫のように軽やかな足取りで部屋を出ていってしまった。
ジュスティーヌはできることなら、リッシュ夫人と2人きりというのは避けたかったし、ヴァイオレットには部屋にいて欲しかった。
このどこか食えないところがある、一筋縄ではいかなさそうなご夫人と2人きりなんて。
大げさな言い様だが、息が詰まって死ぬかもしれない。
しかし、女主人からの命令にメイドひとりが逆らえるわけもない。
そもそも、この賢明なる夫人に逆らう理由がないのだ。
この夫人がもう少し暗愚であったなら、ヴァイオレットだって少しは反抗したかもしれない。
──ベアトリーチェ様は、なんだってこんな庶民の女と2人きりになりたがるんだ?
ジュスティーヌは思わず身構えた。
「お招きいただき、誠にありがとうございます。あれからどうです?ここの皆さまとは仲良くやれていますかい?」
ジュスティーヌは大雑把に話を振った。
これからの会話の中で、リッシュ夫人の意図を探ろうとしたのだ。
「ええ。ヴァイオレットやジャルディニエはもちろん、#通__かよ__#いで来ている使用人のみなさんも、わたくしの言うことをよく聞いて、慕ってもくださいますよ。みなさん優秀で助かっています」
「そりゃあ、よかった」
ジュスティーヌはテーブルの上に置いてあるティーポットとティーカップ、皿の上に置かれたクッキーやマカロン、ティースタンドに置かれたカヌレやマドレーヌなんかの、大小さまざまな色とりどりのお菓子を見つめた。
相手がジュリエット嬢やエレオノールやマルグリットであったなら、がっつくようにして食べるところなのに。
いまは不思議とそんな気分にはなれない。
「特に、ベンジャミン様とジャルディニエとは仲良くやれていますよ」
リッシュ夫人が意味ありげにクスクス笑った。
「さすが高貴な生まれのお方は違いますな。順応性が高くていらっしゃる」
ジュスティーヌは皮肉混じりに笑い返した。
愛人がいることは承知の上で結婚したとはいえ、その愛人の名をこうも簡単に口に出すなんて。
まして、それを部外者たる自分に話すなんて。
──これは本妻の余裕というやつか。いや、ジャルディニエさんの気質とかもあるか?
ジュスティーヌはあれこれ思索した。
ジャルディニエはひかえめで気優しいし、出自は低いところから来ていて、容姿も地味だ。
あまりよろしくない言い方をすると、ジャルディニエは何もかもがリッシュ夫人に劣っている。
それを考えれば、リッシュ夫人が余裕な態度でいられるのも当然だ。
ありとあらゆる面で自分に負けている相手に、嫉妬や劣等感など生まれるはずもない。
逆に親切に接することだって、そう難しくはないのかもしれない。
「ふふふ。でもまあ、わたくしなどいないかのように目の前で熱く見つめあったり、ベタベタ触れ合ったりされるのは少し癪なので、そういうときはちょっとイタズラをしますよ」
「イタズラ?どんな?」
この真面目そうな夫人がイタズラなんて、ジュスティーヌには想像できなかった。
「2人が抱き合おうとしてるところをね、わざと大きな咳払いをしたり、ジャルディニエがベンジャミン様の部屋から出てきたところをわざと鉢合わせするように歩いたりするの」
リッシュ夫人が楽しそうに笑う。




