そして冒頭に戻る
リッシュ氏の現状や今までの発言を見るに、おそらく離縁はしないだろうし、するとしてもかなり遠い未来のことのように思う。
だって、リッシュ氏は結局、爵位や他の若くて美しい人より、ジャルディニエとの日常を選んだのだから。
話し込んでいるうち、玄関ドアが開く音がして、けたたましい足音が聞こえてきた。
足音の主は相当急いでいるらしい。
リッシュ氏が、帰ってきたのだ。
「おや、帰られた。では、リッシュ氏と話してまいりますので、失礼しますよ」
ジュスティーヌがジャルディニエに手を振る。
「はい、ジュスティーヌさん。旦那さまをよろしくお願いします」
ジャルディニエが深々と頭を下げる。
「ええ」
ジュスティーヌは窓を閉めると、リッシュ氏のもとへ向かった。
「大変長らくお待たせ致しました。ジュスティーヌ嬢」
帰ってきたリッシュ氏は息が上がっていて、ほんのり汗をかいていた。
「とんでもない。待ってる間ジャルディニエさんと話したんですがね、なかなか人柄優れた方でした。リッシュ様がなぜ惚れ込んでしまうかわかるくらいにはね」
ジュスティーヌは、ひやかし半分にウインクした。
「ええ。本当にいい子ですよ。子どもの頃からここにいるんですが、律儀な子でね。まだ若くて体格もいいし、いいとこの貴族からお声がかかったこともあるのに、それを断ってまで、ずっとここにいてくれてるんです。忠義なもんでしょう?私など、こんな金があるだけの中年なのに」
同様の話を、先ほどジャルディニエから聞いた。
やはり、この2人は似たもの同士なのだ。
「…リッシュ様もジャルディニエさんも、どちらも素晴らしい方ですよ」
ジュスティーヌは、他者には聞こえないくらいの声で呟いた。
「ジュスティーヌ嬢、何かおっしゃいましたかな?」
「ああ、さっきの続きを話しましょうと言ったんですよ。ラフィヌモン侯爵夫人のプライドを守りつつ、上手く婚約破棄する方法をね」
リッシュ氏に毛取られないよつに、ジュスティーヌはサッと平静を装った。
「ええ、では、まずはジュスティーヌ嬢の素性についてです。そこらへんの設定を練りましょう」
「そうですね」
2人が綿密に話し合った結果、ジュスティーヌの大まかな設定が決まった。
ジュスティーヌは下級貴族の令嬢でかつ、エレオス嬢ことマルグリットの知り合い。
リッシュ氏とジュスティーヌが出会った時期は、ラフィヌモン侯爵夫人と婚約する1ヶ月ほど前。
場所はマルグリットが主催するパーティー。
そこで2人は知り合い、意気投合。
そこから次第に愛し合うようになり、リッシュ氏はラフィヌモン侯爵夫人との婚約を破棄して、ジュスティーヌと結婚することを決意する。
「こんなもんでよろしいですかな?」
「ああ。これならきっと、彼女も納得するだろう。金は払うし、後に破局したとなれば、胸のすく思いにもなるはずだ。これなら、いける」
リッシュ氏が自身たっぷりに笑ってみせた。
そうして迎えた婚約破棄計画実行の日。
リッシュ氏は計画通りにラフィヌモン侯爵夫人に、婚約破棄を言い渡した。
「ほら、ジュスティーヌ。こちらにおいで」
誘われるまま、ジュスティーヌはリッシュ氏の隣に座った。
「ああ、ベアトリーチェ様、お許しくださいませ。わたくしは、ベンジャミン様を愛しています」
ジュスティーヌは、若い女がいかにも恋人にするように、リッシュ氏の肩に寄りかかった。
自然と、リッシュ氏の耳元に唇が近づく。
そこでジュスティーヌは、聞こえるか聞こえないかくらいの声でこっそりと、「これでいいのですね」と尋ねた。
リッシュ氏が、それにアイコンタクトで応える。
これも計画のうちだ。
「…その方は、どういった方ですの?」
ラフィヌモン侯爵夫人が、ジュスティーヌを睨むように見つめた。
──おお、恐ろしい…
ラフィヌモン侯爵夫人の目が、この上もなく鋭く光る。
その射抜くような視線は、いつかの国王陛下を思わせた。
ラフィヌモン侯爵夫人の佇まいは、いかにも大きな家の女主人といった風情で、威厳を感じる反面、少し怖いとさえ思う。
夜の闇のように真っ黒な髪と瞳。
鋭い目つき、高い鼻、薄い唇、面長気味の輪郭。
白い肌には年相応のシワが刻まれているが、間違いなく美人だ。
その一方で、近寄りがたいピリピリとした雰囲気をまとっているため、人によっては「キツい」という印象を抱きそうだ。
そんなラフィヌモン侯爵夫人に対してジュスティーヌは、纏う空気がどこかマルグリットに似ていると思った。
──貴族のご婦人は、みんなこんなカンジなんだろうか
真剣な話し合いの途中なのに、ジュスティーヌは悠長にそんなことを考えた。
「この子は、ジュスティーヌというんだ。マルグリット・エレオス侯爵令嬢といえば、あなたも知っているでしょう?ジュスティーヌは、彼女の知り合いなのです」
リッシュ氏が、この日のためにあらかじめ考えておいたジュスティーヌの設定を明かした。
いつ正体を勘繰られてもいいように、マルグリットとも口裏合わせ済みである。
「なるほど、そうですか」
ラフィヌモン侯爵夫人か、何か考えこむようにして、視線をやや下のほうに落とした。
「本当にすまない。慰謝料は払う。あなたの欲しい金額分を払うから、どうか…」
リッシュ氏が、わざと辛そうに哀願してみせた。
目に涙さえ浮かべている。
──リッシュ様もなかなか役者だなあ
リッシュ氏の意外な演技力に感心しつつ、ジュスティーヌはラフィヌモン侯爵夫人の様子を伺った。
「……わかりました。婚約破棄を認めましょう」
少し間を持たせてから、ラフィヌモン侯爵夫人が答えを出した。
──おや、案外あっさり引いた?
もう少し難儀するものと思っていたジュスティーヌは、肩透かしを食らった気分だった。
「しかしですね、ベンジャミン様。嘘はよろしくありませんわ」
ラフィヌモン侯爵夫人が切り出した。
「へ?」
驚きのあまり、リッシュ氏が間抜けな声を出す。
「あなたのいい人は、そちらの女性ではないのでしょう?」
ラフィヌモン侯爵夫人の口が開く。
その声色から察するに、明らかに確信をもって述べているのが、嫌でもわかる。
──なぜバレた⁈
ジュスティーヌの背中に、嫌な汗が伝っていく。
「……なぜ、そう思う?」
リッシュ氏が、ラフィヌモン侯爵夫人を睨むように見つめた。
必死で平静を装ってはいるが、額には汗が滲んでいて、あからさまに動揺しているのが見てとれた。
「知っていましたので」
「は⁈」
リッシュ氏の声が大きな上擦った声をあげた。
相当驚いたようだ。
「ジェンティーレ様から伺っていましたのよ。ベンジャミン様には長く思い合っているいい人がいらっしゃると、庭師の男と深い仲にあると」
ラフィヌモン侯爵夫人が淡々と話す。
異常なまでに焦っているリッシュ氏とは対照的だ。
「ちょいと失礼。ジェンティーレ様とは?リッシュ様にほかに恋人がいると知った上で、なぜ婚約なさったのですか?」
ジュスティーヌは驚きのあまり、思わず口をはさんだ。
このときにはもう、お上品な口ぶりすら忘れてしまったし、リッシュ氏を「ベンジャミン様」と呼ぶのもやめてしまった。
だって、もう嘘はバレているのだ。
いまさら、どこぞの令嬢のフリなど無意味であろう。
「ジェンティーレ様というのは、わたしにベンジャミン様を紹介してくださった人です。わたしがベンジャミン様と婚約したのはね、わたしはあくまで、ベンジャミン様の持つ財産で、財政危機に陥った我が家をどうにかしたいだけですから、愛人の有無などどうでもいいことなのです。ただそれだけなのです」
「なるほど…」
やんごとなき生まれだというのに、かなりくだけた口を聞くジュスティーヌの態度などものともせず、ラフィヌモン侯爵夫人は淡々と続ける。
「今日、呼び出されたのは、そのことについての話し合いだと思ったのです。あの庭師の恋人を紹介されるものと、深く愛し合った仲であると打ち明けられるものと。だのに、紹介されたのは、聞いていた話とまるで違うお嬢さんではないですか。驚きましたよ」
「…そうか」
ラフィヌモン侯爵夫人の追及は止まらない。
それに、リッシュ氏は反論できないようだった。
「ジェンティーレ様がウソをつくなんて思えない。そんなことをしたところで、彼には何の得もない。つまり考えられるとしたら、あなたがウソをついているのですわ。理由はおそらく、恋人との今後を考えてのことでしょう。違いますか?」
リッシュ氏もジュスティーヌも、だんまりになった。
どうやらこの婦人、ジュスティーヌが思っている以上に聡明で勘が鋭いようだった。
追及はまだまだ続く。
「明確に名前を出したあたり、エレオス侯爵令嬢もこれに協力したのでしょう?」
恐ろしいくらいの洞察力である。
すべて当たりだ。
「ラフィヌモン侯爵夫人、まったくもってその通りだ。すべて、あなたの言うとおり」
「そうなんですの」
ラフィヌモン侯爵夫人は、眉ひとつ動かさない。
あまりの冷静さに、傍観者のジュスティーヌも唖然とするばかりだ。
「ええ、ですから。婚約破棄はしてくださいませんか。どのみち、相手がいるのは変わらないのですから。そして、これを機会に、彼に危害を加えないと違ってください」
「わたしは、あなたに愛人がいても気にしません」
「私は違うのです。この国にいるからには、彼とは結婚できない。ならばせめて、生涯独身を貫くことが、彼に示せる精一杯の誠意と考えているのです」
リッシュ氏が懇願する。
その表情は真剣そのもので、彼がいかにジャルディニエを愛しているかよくわかる。
その愛の深さに、ジュスティーヌが感心していると、ラフィヌモン侯爵夫人が思わぬ答えを出した。
「それならば、結婚できるようにすればいいではありませんか」
「は⁈」
「え⁈」
ラフィヌモン侯爵夫人の突拍子もない言葉に、ジュスティーヌもリッシュ氏も間抜けな声を出した。
「わたしと形だけの結婚をするのです。それであなたは爵位が手に入るわけです。爵位を持てば、出世しやすくなりますわ」
「出世?」
リッシュ氏がキョトンとする。
「あなたなら、末は大臣も夢ではないと思いますの」
「……つまり、私が大臣になれと?この国の法律丸ごと変えろと?」
リッシュ氏が、信じられないという顔でラフィヌモン侯爵夫人を見つめた。
「そうです。元は小規模な運送業者だったところから、いまは誰もが知る実業家になったあなたの手腕をもってすれば、可能なのでは?それに、あなたと懇意にしているエレオス侯爵令嬢は王族に通じていますし、人脈も充分」
「壮大な話だな…」
リッシュ氏は口をあんぐりと開けた。
ジュスティーヌも同様である。
「悪くはない話でしょう?わたしは家の再建ができる。頃合いを見計らって、形だけの離婚をすれば、あなたは晴れて愛しい恋人と添い遂げることができる。素晴らしいことでしょう?」
「それは、そうだが…」
ラフィヌモン侯爵夫人のすさまじい提案に、リッシュ氏はタジタジであった。
「ねえ、あなたの愛しいジャルディニエのことを考えてくださいませ。独身でいるよりも、何が何でも彼と結婚できるように腐心してやることが、いちばんの誠意ではありませんか?このまま、愛人という不安定な立場に、彼を置き去りにするのですか?結婚できないとあっては、あなたの死後に財産を受け継がせることすらできません。子どもだってなし得ないから、彼に遺してやれるものなどございません。それでも、いいのですか?」
ラフィヌモン侯爵夫人が畳みかけると、リッシュ氏の肩がピクリと跳ねるように動いた。




