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14. いばらの花嫁



今から約2020年ほど前。


テティス海女神を祖先に持つ、マリンクロード一族が治めるグッセンスタシューン王国に双子の王女が誕生した。



姉王女の名はアレキサンドラ。

妹王女の名はクリソベリア。



妹王女は傷一つない麗しい容貌を持って生まれたのに対し、姉王女は生まれつき、うなじに獣の爪痕のようなあざがあった。


しかし、それはこの姉王女がかの奇跡の乙女、女神の愛し子であるという証であり、王家にとっては名誉ある紋章だった。



女神の愛し子とは2000年に一度、テティス海女神の血を受け継ぐこの王家に生まれる乙女のこと。


浄化と祝福を施す神力を持ち、王国に富と繁栄をもたらすという言い伝えがある。



女王夫妻は大いに歓喜した。



双子の王女たちの姿形は大層に美しく、そして大きな病気こそなくすくすくと成長した。


ところが、姉王女が特に何の問題もなく健康体であったのに対し、妹王女は何故か足があまり丈夫ではなく、頻繁に外を出歩くことが難しかった。



だから隣国の、とある大国からの使者に姉妹のどちらかを隣国王の妃として輿入れさせるよう要求された時、グッセンスタシューンの女王は悩み抜いた末に、妹王女を行かせることに決めたのだった。



グッセンスタシューン王国は代々女系。

陸国々に未だ男尊女卑思想が渦巻く中、他国に臆さず対等に渡り合うためには、威風堂々かつ社交的、そして男たちにも物おじせず発言の出来得る女王が必要となる。


それに、何よりも姉王女は女神の愛し子としての責を与えられている。



姉王女には婿を取り、自国を継いでもらわねばならなかったのだ。



しかし、それを反対したのは姉王女自身だった。



妹王女は物静かだが、勤勉かつ的を得た論理的な思考の持ち主ゆえ、守護者をも唸らせる頭脳の持ち主。


対して姉王女は勉学はそこそこに、しかし好奇心だけは旺盛で、どちらかというと守護者たちには跳ねっ返りのような認識を持たれていた。



優秀だったがいかんせん身体があまり強い方ではない妹王女がたった一人で他国へ嫁ぎ、父ほど歳の離れた横暴な王の妻になどなって、話し相手もおらず、不憫な思いをすることは目に見えている。


他所者よそものの妃だと、王の愛人たちに虐げられるかもしれない。



それに、万一王との間に子が出来た場合、その子供を守るすべを妹王女は持ち合わせてはいない。



優しく心の澄んだ妹が悪者に利用されないとも限らない。

だから、隣国へは己が行く、と姉王女は申し出た。



祖国の浄化と祝福は、別に此国にいなくとも良いはずだ。祝福は飛ばせるものだと古書にも書いてある。何なら隣国共にそれを与えても良い。


グッセンスタシューンの未来は聡明な妹が先導し、隣国から祖国を守るのが自身の役目だ。

そうして二人で、この女神が建国したという美しい王国を繋いでいくのだ。



……そのはずだったのに。

自身は祖国にとって、とんだ疫病神だった。




姉王女は心内こころうちでそう思っていた。


己の荊棘いばらの道は、この時から始まったのだと。





------





ギィィィィィィィィ!




「宰相様! 海魔がまた暴走し始めちゃったみたいです!」


「そのようだね。リリアナ様たちはどこの異空間にいるんだろうね。シェリとギルが付いているはずだから、大きな問題はないと思いたいけれど」




「ピピピピ〜!」


キュキュ、キュキュ!



つい今しがたに、まるで強光に吸い込まれるようにして三人だけが消えてしまった。


ベルとホメロスは主人たちが突然いなくなってしまったことに動揺しているようで、ずっと落ち着きがない。



「二人ともどうどう。シェリとリリィには殺しても死にそうにないギルがついてるから?  きっと大丈夫だよ」



「それに、三人とも頭が切れるからね。どのような状況に置かれても冷静に行動出来るはずだよ」




遺跡郡異空間に残っているユーリとナプティムウトが獲物を構えつつ、そう口々にした時。




「リリアナたちは今、あれの体内にいる」



「?!」




突然に背後から低く落ち着いた声が耳をかすめたため、二人は思わず後方へと勢いよく振り返った。




「げ?! 海神……!」



「エーギル副団長、口を慎み下さい。


貴方の腕は確かですが、主相手では一たまりもありませんよ」



 

気配もなく、突如として二人の目前までやって来ていたのはアランフォルスとノワルだった。



「ちょっと待て! 今、リリィたちは海魔の体内にいるって言った?! 


それって三人とも食べられちゃったってこと?!」


「ユーリ、落ちつきなさい。今度は君が取り乱してどうするんだ。


カリュブディスとノワルの態度から察するに、恐らくはそうではないと思うよ」




真逆の反応を示すユーリとナプティムウトの様子に、カリュブディスがくく、と笑む。



「さすが其方そちは落ち着いておるの、もう一方の海人族の王子よ。


まあ、正確に言えば子宮という "胎内" の方であるがな。


其方そち小弟しょうていは今、"海魔の血飲ちのみ子" と共に、あやつの中におるのだ」




其方そちらの血縁よの、と、アランフォルスが少し皮肉気に言葉を足す。



それを聞いたユーリがこれでもかというほどに瞳を大きく開き、「ち、乳飲み子?!」と素っ頓狂な声を上げた。

信じられない、と困惑している。



……無理もない。

一体誰が、海魔の中で彼女の子が今日までざいしていたと思うだろうか。



しかもその姿は2000歳の老淑女ではない。

あどけない赤子の姿のままなのだ。



「……彼女が懐妊したのは2000年前。

マーレデアム王国に降臨し、海魔となってしまう前の話だね。


まさか、その時に宿っていた子が今まで生き延びていたっていうのか……」




ナプティムウトも眉を寄せ、そう呟く。



"血飲み子" とは実に批判的な物言いである。


アランフォルスは血を受け継ぐ者ではなく、血をむさぶる者と言いたいのだろう。



しかし、この言葉は赤子や海魔に向けられたものではない。



海魔の愛し子を凌辱させた、海人族王家に投げられた言霊だ。


ナプティムウトは思わず、獲物を持たないもう片方の手を固く握りしめた。




「今、海魔の心と身体は別の物だと考えた方が良い。


身体は理性とは関係なく、当時の怒りと憎しみのまま本能的に高ぶっている状態だからの」




再び興奮状態にある海魔を見据えつつ、アランフォルスはそのように話した。



「……ふうん。その割には随分と落ち着き払ってるんだね、海神サン」




海魔を見つめていたアランフォルスは、彼にそう声をかけたの人物の方へゆっくりと顔を動かした。


アロピアス・ペラジカスに跨り、アランフォルスに鋭い視線を向けていたのはユーリである。



「……ほう?」


「初対面だけど分かる。それに、何だか憑き物が取れたみたいな顔してるけど。


何で? リリィたちが海魔の中に入った時からだよね。リリィと海魔の赤ちゃんを、そんなに会わせたかったの?」




アランフォルスはほんの少し、いつもよりまぶたを上げ、ユーリを見やった。



「そう言えば其方そちは誰だったかの」


「今それ言う?!」


「まあどうでもいいが」



「!! ユリウス・エーギル! 海人騎兵団の副団長だよ!


過去に、あんたの部下にさんざんな目に合わされた一人って言えばいいかな?!


怪魚に殺された戦闘鮫魚たちのこともシリスハムのことも……僕はあんたを一生許さないから」




ユーリがアランフォルスに噛み付く。

シェリやナプティムウトよりも少し色素の薄い金の瞳が、黒曜の眼を睨め付けた。



「アランフォルス様、エーギル副団長。呑気のんきに会話をしている場合ではないのでは? 海魔が今にもこちらへ向かって来そうですよ」



「ユーリ。気持ちは分かるけど、君と私は今、シェリから騎兵団を預かっている身だからね。


こちらから攻撃を仕掛けるつもりはないけれど、興奮状態の海魔がいつ我々に再び牙を向けるか分からない」




ノワルに向かっては、「海神にはお前の話をしているんだ」とユーリは声を張り上げたが、ナプティムウトにそう悟されてしまうと彼も口をつぐむしかなかった。



ナプティムウトはそんなユーリを横目に見つつ小さくため息を漏らしたが、何故だか視界の隅に映ったアランフォルスが、ほんの少しだけ、ユーリに好奇の目を向けているような気がしたのだった。


しかしナプティムウトは、今はリリィたちの心配が先だとあまりそれを気にしないようにする。




「シェリ、ギル。リリアナ様と御子を頼むよ」




決して切ることの出来ない、しかしもろく細々しい糸で結ばれているかの者たちを案じるように、ナプティムウトは彼の腕に巻かれた美しい漆黒のブレスレットにそっと額を寄せ、祈った。



(……アヤメ。あの子たちの未来を、どうか一緒に守ってくれ。


彼らが共に、そして少しでも長く、同じ時を刻んで行けるように)




海魔の威嚇と咆哮は、未だこの異空間に鳴り響いている。





------




遺跡が連なる異空間とはまた別の空間に、私たち四人は降り立っていた。



しかしこの場は先程、海魔の愛し子の赤子を見つけた場所のように薄暗い場所ではない。


何故なら、先ほどから景色が次々と、まるでスクリーンを取っ替え引っ換えしていくように目前の場面が変わっていくからだ。



「今、私たちが見ていたのはアレキサンドラ様が女神の愛し子になられる前の出来事だよね。


……お二人が双子だったってことも知らなかったな」




一年半かけても古書では知り得なかった情報たちが、たった数十分の間に次々と脳内に入ってくる。


ご先祖様の名前だって、今初めて知った。



「俺も知らない事実ばかりだった。王宮書庫の古書内にも、このような記述は見たことがなかったからな。


マーレデアム王国王家にも伝わっていないということは、海魔の愛し子が自身の家族の話をそれほど海人族たちに公にしなかったのだろう」




海魔の愛し子はリリィとは違い、海人族たちと積極的に交流を持とうとはしなかったのだから、とシェリは少し眉根を寄せ、そう付け加えた。



決して、幸福という一言だけでは表せなかったであろう先人たちの幼少時代。


彼女たちは王族 ゆえに、運命にあらがえず、回避するすべを持たなかったこともままあっただろう。



過去はもう過ぎ去ったものであり、今さらそれを変えることは出来ないと分かっている。

むしろちゃんと理解しているからこそ、今度こそはと寄り添いたくなるのだ。



私は顎を引き、自身の腕中をそっと見やる。


相変わらず、私のそこには赤子が収まっている。

彼女はすっかりシェリのマントが気に入ってしまったようで、それに顔を寄せ、気持ち良さげにスヤスヤと寝息を立てていた。



……彼の、騎兵団の団長らしい重厚なマント。


そこには王家の紋章である、美しい二枚貝の刺繍が施されていた。



王家のマントと、まだまだ庇護の必要な赤子というアンバラスな組み合わせが、この時、ほんの少しだけ寂しく思えてしまった。



(……シェリも寂しかった? 生まれたその瞬間から王になることが決まっていて。


国を背負う運命は、たった一人でスタートさせなきゃいけなかっただろうから)




同じ王族として生まれたアレキサンドラとシェリを重ね合わせてしまい、私はほんの少し胸が痛み、ため息を漏らした。


すると、それに気付いたシェリが、何故だかハッと息を飲んだ。



「すまないリリィ! 其方、ずっと御子を抱いていたな。重いだろう、変わるぞ」




私は目をパチクリさせてしまった。

どうやらシェリは、私の腕を心配してくれているらしい。




「……ふふっ、ありがとうシェリ。慣れてないからかな、ちょっと腕がしびれちゃって」




見当違いではあったが腕に痺れが走っていたのは本当だったので、シェリが両方の腕を差し出してくれた時、私は素直に彼に赤子を預けた。



《……ふぇっ》


「「?!」」




渡す時の微動のせいか、赤子がくしゃりと目と口を歪めた。


シェリと私はあせあせと左右に身体を揺らしたり、お腹の辺りにトントンと手のひらを当て、赤子を落ち着かせようとした。



「だ、大丈夫だよ! よしよし……!」


「い、良い子だ、良い子だ」


「わ〜っ、泣かないで! でもこの子、表情はコロコロ変わるのに、声は全然出さないね」



「……言われてみればそうだな」




何かにひっかかりながらも、私たち二人は何とかして赤子をなだめようと焦っていると、




「……けっ」



という、少々吐き捨てたような、それでいて呆れているような、気怠気けだるげな声が聞こえてきた。



声の主人は、何か物思いにふけっているような、そして何故かずっと沈黙して私たちを観察していたと思われるギルだった。




「あ、もしかしてギルも抱っこしたい?」




「可愛いよ」と付け加えると、ギルは「遠慮しとく」、と手を空中でヒラヒラとさせる。



「んなことより辺りを見てみやがれ」




ギルが顎で、シェリと私の視線を誘導する。




「……今度はスクリーンがグッセンスタシューン王国じゃなくて、海の中に変わったね。


今とは少し違うけれど、これはマーレデアム王国かな」




私たちの目前に、今度はマーレデアム王国と思しき景色が映し出された。




『あなたの予測の通りです、リリアナ。ここからはわたくしが海魔となるに至った映像となります』



「アレキサンドラ様……」




再び海魔の愛し子の声がこの異空間に響く。


ふと、シェリの腕に収まった赤子を見やると、彼女は小さな口を突き出したりすぼめたりしながら、もう一度寝息を立て始めたようだった。



(……この子も、お母さんがお話してるって分かるのかな)




私はたまらず、赤子の頬を指の背でゆっくりと撫でる。


こんなに無力な赤子に恐れを抱くほど、海魔の愛し子は追い詰められていたのだろうか。



映し出された海の国は私のよく知るマーレデアム王国と同じくらい澄んだ景観だった。


しかし。




"女神の愛し子がやっと降臨した!"


"女神の秘宝を身に付けさせたか?! あれがないと人間はすぐに溺れ死んでしまうそうだ"


"愛し子を決して死なせてはならぬ。我が王国にその血を残すまでは決して"





スクリーンから聞こえてくる数々の声は、どこか殺伐とした空気をまとったものばかりだった。





------






隣国に嫁ぐ前日、己は妹と共に海岸を散歩していた。もちろん、王女の身分であるのだから、何人ものお付きも連れてはいる。



その日の天候は晴天であり、雲一つない美しい青空が上空に広がっていた。



今日がグッセンスタシューン王国で過ごせる最後の一日なのだと思うと心に寂しさがともってはいたが、それよりも妹と二人で祖国を守れるということの方が誇らしく思えていたのだ。



何だが心が楽しくなってしまった己は妹を誘い、入江付近にまで足を延ばした。


お付きの者たちが、そんなに海に近付いては波に足を取られますよ、危ないですよと口々に言っていたが全く気にしなかった。



妹は身体、取り分け脚があまり丈夫ではないのでゆっくりと歩みを進めていたが、幼い頃からお転婆で跳ねっ返りと言われていた己は

お付きの者たちの小言にも耳をかさず、海面ギリギリの陸の地を走る。


妹が気を付けて、と困ったように笑ったので、全くもって問題ない、と返答した。


そう。しっかりと地に足を付けていたはずだ。それなのに。



燦々《さんさん》とした陽光が突如として遮断され、何故か入れ替わるように雷鳴が鳴り、嵐が起き、大波が押し寄せて己の身体を攫うなどとは一体誰が予想しただろうか。



突然目に見えない力によって後方から腕や脚を取られ、海中に引きずり込まれていく恐怖。


しかし同時に、温かい羽毛布に包まれ保護されているかのような、不思議な感覚を味わう不可解な展開。




前方には、愛おしい妹が可哀想なくらいに真っ青な顔をして手を伸ばしている姿が見える。


だが、それもゆがみがかり、段々と遠のいていく。





気が付くと、己は群青色の髪に金の瞳を持つ、"海人族" と呼ばれる者たちに取り囲まれていた。


初めて見る人間以外の種族に恐怖を覚えた。


一刻も早くグッセンスタシューン王国に帰りたいと、そう願った。




なのに、今度は何故。

海に沈む王国などに嫁ぐことになってしまったのだろうのか。



こんな所にいる場合ではない。

至急祖国に戻らねば、あの横暴な隣国の王が何を仕掛けて来るか分からない。



女神が築いた陸王国として一目置かれていた存在だった故、奇跡的にも今の今まで他国に侵略されることは一度もなかった。


しかし、それを知ってもなお婚姻を申し出て来た隣国と、大国との抗争を恐れその要求を受け入れてしまった自国の重鎮たち。



もし、公約が破られたと祖国が責められてしまったら。


あるいは己の代わりに妹が連れ去られてしまったら。



自身たち姉妹が夢見た、祖国の、多幸なる未来へ繋ぎゆく糸が断ち切られてしまう。




早く、早く戻らねば。




……だが、やっとの思いでグッセンスタシューンへと戻った時。



かの祖国は、皮肉にも火の海へと姿を変えてしまっていた。




------





『遠い記憶とは薄れゆくもの。女神の愛し子が海に戻る運命にあることを、おそらくは父母も知らなかったのでしょう。


私はおおよそ一年をマーレデアム王国で過ごしました。



……海森からやっとの思いで祖国に帰った時、わたくしの胎内にはすでに海人族の子が宿っていました。


その先はあなた方が知っている通りです。


子をみごもったまま、わたくしは古の海の魔物、カリュブディスに願い、海魔となった』

 



私はシェリの腕に抱かれている赤子に視線を移す。


先程ほんの少しだけ泣いたからだろうか、目尻にはうっすらと涙の跡がある。



『あの時、わたくしの感情は怒りと憎しみに満ち溢れていて、子を生み祝福を与えるという選択肢は皆無だった。


わたくしを凌辱した海人族も、祖国を滅亡させた人間共も、わたくしは憎くて憎くて気がおかしくなりそうでした』




それなのに、とアレキサンドラは続ける。



『……はらんだ子を殺すことだけは何故か出来なかった。決して、愛していた訳ではないというのに』




私は思わず、赤子の目尻に残る涙を指でそっと払った。


彼女は相変わらず、シェリの腕中で彼のマントに顔をこするようにして、むにゃむにゃと口を動かしながら眠っている。



その姿は母親ではない私ですらも本当に愛おしく、自然と心がぎゅっと掴まれる。




「……でも、あなたは無意識に、姫様をお守りしようとしていたのですね」




気が付けばそんな一言を紡いでいた。

シェリとギルの視線も、私へと向けられる。



八体の首が、主軸の九つ目の首を守るように攻撃してくるとシリスハムは言っていた。


海魔の愛し子が我が子を恐れたのは、決して憎い想いからではないはずなのだ。




『子を海へと生み落とせば、今度は子が、そのにえとなりましょう』




……ほら、やはりそうなのだ。


海魔の愛し子が恐れていたのは赤子自身にではない。


赤子が自分を辱めた海人族王家の血を引いているからでも、グッセンスタシューンに帰る足枷あしかせになったからでもない。



真実という蓋の中には、海魔の愛し子の "母心" が隠れていたのだ。


もし、赤子を世に誕生させてしまったなら、自身と同じ悲しい運命を背負わせてしまうかもしれないという "恐怖" があったからだ。



それを愛だと言わずして何と言えるのか。


海魔の愛し子はそれに気付いているのか、あるいは気付かないふりをしているのか。




『ヒュドラー の急所はお察しの通り、中心の軸首です。それを滅し、どうかあなたに全ての因縁を断ち切ってほしい』



「アレキサンドラ様……」




私は熱い思いが身体中に広がるのを感じる。

この人を解き放ってあげたいと、心から思う。




「……おいてめえ。さっきから聞いてりゃ好き勝手言いやがって」




しかし、それに待ったをかけたのはギルだった。



「何が自分を滅して解放しろ、だ?! んなことリリアナに頼むんじゃねえ!


こいつにお前を討たせるつもりか? ケリつけたいなら自分でやれ!


殺した後の後味残って胸クソ悪ぃのはリリアナなんだぜ?!」




ギルが声を張り上げてそう叫んだ。

私は殺す、という単語が聞こえたことに硬直する。


ギルが舌打ちをした直後、ほんの少しの間、沈黙が漂ってしまった。




「俺が引き受けよう」




しかし、赤子をじっと見つめながらもその沈黙を破ったのはシェリだった。



「シェリ……?」


「……ラドシェリム。てめえもそれでいいのかよ。


"女神の愛し子殺し" を生涯背負って生きてくってのか?」



「女神の愛し子ではない。ヒュドラー と呼ばれた、海の魔物退治をするだけだ」




シェリはギルを見やり、そしてニヤリと余裕のある笑みを彼へと見せる。



「俺もけじめを付けねばと思っていたのだ」



「……はん、そうかい。なら勝手にしやがれ。そう言うんなら俺が騒ぎ立てする義理はねえ」



そう言いつつ、ギルはまた、けっ、と吐き捨てるようにそっぽを向いてしまった。


その様子が可笑しかったのか、シェリがクッと僅かに声を上げて笑う。



私は赤子の目元に寄せていた手を、そのままシェリの頬へと移動させた。


すると彼は穏やかに微笑んで、私の手にその頬を擦り寄せてくる。



「本当に、これで終わりにしよう。恨みも憎しみも、悲しみも因縁も全て。


次代に生きる者たちにまで、この題を持ち込ませたくはない」



「……そうだね。私も、心からそう思うよ。


2000年間も一人きりでいたこの子に、これからはずっと、何の心配もなく過ごさせてあげたい」




シェリもそれを同意するように、それでいてとても愛おしそうに腕の中の赤子へと視線を移していた。




「……目に毒」


「え?」


「ラドシェリムもついにリリアナに毒されたな。ほんっとお似合いだぜ、お前ら。


あ、お前らってのは、そのちっこいのも入ってるからな」




赤子をちろりと見て腕組みをし、その後はこちらへと視線を戻して、そう言葉を突いてくるギル。


彼が目を糸のようにシラッと細めている様子に、私はきょとんとしてしまった。



「何だギルストロン。この光景が羨ましいのか?」




シェリはそう言いながら、何故だか片手でしっかりと赤子を抱き直し、空いた方の手で私の腰を自身へと引き寄せてくる。


そしてこれでもかというくらい、意地の悪そうな顔を悪友へと向けていた。



一瞬目をまたたいて何事かと思ったが、今度はギルがシェリに対し、はいはい羨ましい羨ましいと、これまた白々しい眼を向けつつ言葉を発していた。



(えっと……この状況は一体何?


でも、二人って全然違う性格なのに、全く会話が途切れないんだよね)




もちろんシェリとギルに、「二人って仲良いよね」、などと言えば、声をピッタリ揃えて「違う!」と言われるのが目に見えているので、言葉にはしない。



それでも、二人のおかげで私は今日初めて、やっとほんの少し、笑顔になれた気がしたのだ。




赤子の目尻に溜まった涙も、いつの間にか乾いていた。



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