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17. 契約と約束

第三章 『古の海の魔物編』



『リリアナ女神様、お下がり下さい』




足がすくみ、震えの収まらない私を庇うようにして、シリスハムが前へと出てくれる。




ギィィィィィィ



しかし、ヒュドラーと呼ばれた海魔が、私とシリスハムを威嚇するように咆哮ほうこうしてくる。



九つの頭それぞれから発せられるそれは、思わず耳をふさぎたくなるような獰猛どうもうな声色。


さらにその声に呼応するように地面が激しく揺れ動くものだから、私は身体のバランスを崩して思わず前のめりになってしまった。




『リリアナ女神様!』



シリスハムが咄嗟に私を支えてくれたお陰で、何とか地へと打ち付けられずに済む。



「海魔の愛し子はよほど其方そちが許せぬようだな」



相も変わらず、どこか楽し気にそう話すカリュブディスを見やりながらも、私は震える声を絞り出した。



「カリュブディス様。あなたの望む交渉と譲歩は、新たに海底戦争を起こさせないことを条件に、シェリ…… 王子殿下との婚約を白紙に戻せということですか?」



「そういうことだ。はテティスの娘と海人族王家との繋がりは歓迎せぬ。


そして其方そちは己の意思とは関係なく、我が妃となることしか道が残されていないということを、そろそろ理解して欲しいものだ」


「どうしてあなたとの結婚しか選択肢がないって言えるんですか?


確かに、あなたのお姉様のことを思うとどう言葉にしていいのか分かりません。


でも、私もマーレデアム王国側から沢山の提案をお預かりしているんです。王国とカリュブディス様の双方がより良い未来に向けるようにって……!



あなたが話し合いの場を持つことを承諾して下さったから、私は今日ここへ来たんです!」


「だから言っておろう? 納得でき得るだけの交渉と譲歩なら、望みを受け入れてやろうと。


其方そちがマーレデアム王国を離れて我が元へ来るというなら、海底戦争へは誘導させぬ」

 

「……っ、だから、」




「理由をお聞きになると、貴女はそれに応じられると思いますよ。


いや、"そうせざるを得なくなる" 。


あなたは大変に心優しく、ご自身のことよりも、この海に住む生命すべてに情けをかけられるでしょうから」



ノワルが私に向け、そう言葉を放ってくる。



「……どういうこと? 私がカリュブディス様と一緒にいなければならない理由があるってこと……?」




不安と焦燥が入り混じり、指先が冷たくなっていくのを感じながらも、私がそれを問おうとカリュブディスの方へと向き直ると。




ギィィィィィィィィーーーー!




「!?」



耳奥の鼓膜が刺激されるほどの轟音ごうおんと共に、凄まじい勢いで海魔がこちらへと迫ってくる。




『……っ、リリアナ女神様!」



シリスハムは、硬直し全く身動きが取れないでいた私を腕に抱きながら、海魔の攻撃を間一髪のところでかわした。



『おのれカリュブディス…………!』



「シリスハム、其方そちも良い働きをした。数百年と焦がれ続けた女を腕にいだく感触は、さぞや心地が良いだろう。



余との "契約" がなければ、其方そちはとっくに己のことも、リリアナのことも忘れている頃合いなのだがの?」



カリュブディスは地へと倒れ込んだ私たち二人を冷たく見下ろしている。




契約……?


そう言えば、王都の民家で会議をした時、確かシリスハムがそのようなことを口にしていた気がする。




『……お怪我はございませんか、リリアナ女神様。交渉は決裂となりそうですので、一旦ここを離れましょう』



シリスハムはそう言って立ち上がると、片方の腕で私を抱き上げ、もう片方の手中に長剣を創り出した。



ギィィィ!!




彼は海魔の攻撃に応戦しながらも、少しずつ、少しずつこの場を遠ざかっていく。



「お見事です、シリスハム。さすが長年第一部隊隊長を務めていただけありますね。


騎兵団を除籍されてから一年近くになると聞いていましたが、腕は落ちていないようです」



両口角を上げ、どこか愉快げに話すノワルを睨め付けながらも、シリスハムはなおも攻撃をかわしていく。



「シっ、シリスハムさ……」


『舌を噛みますから口を閉じていて下さい!』



シリスハムの息がだんだんと荒くなっていくのを感じるのに、私は彼に抱き抱えられたままで何も出来ない。



(守られているだけの自分が情けない……!


それに、私を庇ってくれているせいで、シリスハム様の疲労が大きくなってる。


……そうだ、お祈り。お祈りを捧げることなら私にも出来る……!)



言葉にしなくても愛し子のお祈り、もとい願いに祝福や浄化の効果があることは、皮肉にもリヴァイアサンの時に経験済みだ。



私が心の中で必死にお祈りを唱えると、女神の秘宝と私のうなじにある女神の紋章が同時に光を放ち、それがシリスハムと海魔の元へと降り注ぐ。



『…………これは』



祝福によって力がみなぎってくるのを感じているのか、シリスハムが驚いたように私を見る。



『これが、リリアナ女神様の祝福……』



彼は自身の力が増していく様子をしかと感じているようだが、




ギ…………!!



海魔は少しよろめくように、首を後方へと下がらせている。


こちらには、浄化としての神力が効いているのだ。





「……まこと、テティスの神力は大したものだ。


早々に我がものとせねばな。"海が崩壊してしまうしまう前に" 。


のう?リリアナよ」




だが、今度はカリュブディス自身が、まるで瞬間移動のように私たちの目前に現れたのだ。




『…………くっ!』



シリスハムが長剣を振りかざし、カリュブディスに攻撃を仕掛けるが、彼はそれをいとも簡単にかわしていく。



「シリスハム。其方そちといつまでも遊んでいるつもりはないぞ。


余の手でその心の臓を止めるか。それとも自身の、契約の期限が切れる時を待つか」




カリュブディスがニヤリと笑い、シリスハムの喉元に手を伸ばしかけた時。




「?! わ……!」



突如、何故か私たち二人の身体が宙を舞い、まるで疾風しっぷうのような速さでその場を遠ざかっていく。



一瞬、自身の身に何が起きたか分からず、口をあんぐりと開けてしまったが、シリスハムの手がそれを塞ぐ。



『リリアナ女神様、舌を噛みます。それに、この者は一体……?』




私たちを乗せ、驚くほどのスピードで泳ぎ進んでいくこの白くツルツルとした者の正体とは……



「ピピピ! ピピピ!」



「…………ベル? どうしてここに……」




なんと、女神の間で一度別れた私の愛獣。

白イルカのベルだった。




------




今から約、三十分ほど前のこと──




「ねえ、やっぱり何かおかしくないですか? トントン拍子に話がうまく進みすぎてるってゆーか……


今リリィがどうなってるのか、心配で仕方ないんだけど」


「シリスハムのことも気になるね。ノワルも言っていたけれど、"時間がない" っていうのは、一体何のことだろう」



「…………」




カリュブディスの別城城外で、ユーリとナプティムウトが怪訝けげんな面持ちでそう話す会話を、シェリは黙って聞いていた。



歯痒い。

今すぐにでも向かいたい気持ちがあるのに、リリィとマーレデアム王国のことを思うと簡単には動けない。


だが、まさにそう思った矢先に。



シャアアアアア




「?! 何だ?!」



突如ホメロス初め、騎兵団の者たちが従えている戦闘鮫魚たちが牙を剥き、別城に向かって威嚇をし始めた。



「ちょっ、どうしたのイシス!」


「オリオン、落ち着きない。みんなも突然どうしたんだ」



まるで獣が雄叫びをあげるような彼らの様子に騎兵団員たちも戸惑っていると……




「ピピピピピピーー!!」



あたり一面に広がる薄暗い海中に、白くて大きな塊が勢いよくこちらへと向かって来るのが見て取れた。



「お、おい、あれってもしかして」


「確か、リリアナ様に留守番言い渡されてしょぼくれてた……」



城外一帯が、さらにざわめき出す。





「ベル……? どうしてこんな所に……」



ホメロスに跨るシェリに気付いていないのか、ベルはただ真っ直ぐに前だけを見据えて

猛スピードで騎兵団員たちの横を通り過ぎて行く。




「?! 駄目だベル! 戻れ!!」



だが、どうやらベルが向かっている先は、まさにカリュブディスの別城だと気付く。


シェリは慌ててそう叫んだが、ベルは迷うことなくカリュブディスの別城へと突き進み、

あろうことか上方に設置されていた窓らしきものを蹴破るようにして、城内へと入っていってしまった。




「べ、ベルってばどうしたの? てゆうか、なんであの子がここに……


まさか、ずっとリリィの後を追いかけて来てたの?」


「戦闘鮫魚たちの様子も変だね。まさか、中で何かあったのか?」



ユーリとナプティムウトは眉をひそめ、ベルが突き破ってしまった窓の方を見やっている。




「…………まさか」



シェリの顳顬こめかみからも嫌な汗が流れ始める。


先程に感じた邪気を、己はカリュブディスのものだとばかり思っていた。



だが。

今まさにリリィが対面しているのは "1000年前の魔物であったカリュブディス" ではなく、"海神" の方である可能性が高い。



なら先程に、リリィが直感的に感じ取っていた邪気の根源とは、ノワル以外では "一人" しかいないはずだ。




「まさか………… リリィは今、海魔とも対面しているというのか?」




この別城は、一体何なのだ。

何故、"ヒュドラー " と呼ばれた巨体が、ここに収まっているのか。



握りしめていた拳が、情けなくも小刻みに震えている。


シェリは目前にそびえる魔物の別城をその金の瞳で鋭く見やった。




「……皆の者。恐らく、交渉は不成立だ。


隊列を組み直して整列せよ。今から、このカリュブディスの城へ突入する。



何としてでもリリアナ様を見つけ出せ。必ず、我々の女神の愛し子をお救いせよ…………!」




------




「閣下、いかがいたしましょうか?」




リリィとシリスハムが立ち去った方角を見据えながら、平原に残されたノワルは表情を崩さないまま、カリュブディスに問いかける。



「なに、くことはない。あやつの "寿命" が訪れるまで待つのも、また一興いっきょう


「リリアナ女神様はまた、大層悲しまれるのでしょうね」


「此度の娘は今までとは違い、少々頑固な愛し子のようだからな。


これくらいの罰に直面させてやる方が目が覚めるであろう?」  



いつの間にか、再び少年の姿になっていたカリュブディスが、楽しそうにそう話す。




「でも、正直少し驚きました。貴方に媚びない女性は初めて見ましたので」


「そうであったか? しかしあやつだけではないぞ。どうも、テティスの娘たちは余のことを敬わん。



それに比べ、其方そちの一族の女共は相変わらず、余の寵愛を巡って日々競っておるわ」



「はしたない。恥ずかしい限りです」


「可愛げが合って良いが、どれも同じでつまらんのは確かだの。


誰が一番余の寵愛を得ているか、誰が一番美しいかを常々競っておる。はたから見れば滑稽こっけいよ」



「その中に放り込まれるリリアナ女神様が少々不憫ですね。彼女には蹴落とし合いなど無理そうですし」



「……ほう? どうしたノワル。えらくあの娘の肩を持つではないか」


「肩など持ちませんよ。僕は女性が好きではありませんので」



「ははは。そうだったのう」



カリュブディスはそう言いつつ、ノワルを見やりながらけらけらと笑った。





「まあその話もおいおいな。今はゆっくりと我が仮妃かりきさきの後でも追うとしよう。


どこにいようが、この城内にあやつらの逃げ場などないからのう」




------




「ベル、助けてくれてありがとう。でも、どうしてあなたがここに……」




私とシリスハム、ベルの三人は、先程の平原を抜けて、どこかまた陸地の森に似たこの場所を突き進んでいる。


木々が生い茂り、人工的な通路など何もないここは、まるで陸上に広がる原始林のようだ。


でも、ベルがすいすいと走り泳いでいるのを見ると、やはりここが海の中であることを確信させられる。




『ずっと貴方様に付いて来ていたのでしょうね。団長たちですら気付いていなかったと思います』


「そっか…… すごいね、ベル。何だかスパイみたい」



私がゆっくりとベルの肌を撫でると、彼女は得意げに、その場で "泡の輪っか" なるものを作り出す。



「わあ……! ベル、それって、まさかバブルリング? すごい、初めて見た……」



『 は、ばぶるりんぐ……?


いや、とにかくこの者のおかげで助かりました。


この辺りも先程の平原と同様、陸地を思わせる雰囲気の場でですが、おそらくはカリュブディスの神力によってそう見えているだけでしょう。


私たちは間違いなく、まだ城内にいるはずです』


「出口を探さないといけませんね。


……それと、ごめんなさい、シリスハム様。せっかくあなたが会談の約束を取り付けて下さったのに……」


『いいえ、私の落ち度でした。1000年前のカリュブディスと現カリュブディスの繋がりを早々に把握していれば……



私にも良い関係の弟が一人おりますので、カリュブディスの気持ちは正直理解出来得るものがあります』




シリスハムは少し視線を落とし、自身の胸元に手を添えていた。



『リリアナ女神様、こんな状況の中で口にすることではないのは重々承知していますが、良ければ私に少し、昔話をしていただけませんか?』



「……昔話、ですか?」


『はい。リリアナ女神様の故郷やご家族のことをもっと知りたいと思っていまして。


……以前、私たち兄弟が不躾な言葉を吐き、貴方様を深く傷付けてしまったものですから』


「……もう、それは言いっこなしですよ、シリスハム様。誰にだって不意に人を傷付けてしまう時があります。


でも、あなたはそれを悔いて謝って下さいました。それに、今はもうお友達でしょう?」



そう言って、私はシリスハムに笑みを向けた。



『……本当に、心が綺麗すぎますね、貴方様は。この先心配になります』


「そうやって心配して下さるあなたの心も、私は綺麗だと思いますよ?」



『……リリアナ女神様には敵いませんね。では友人として、貴方様のことを色々とお教えいただけますか?』


「もちろんです。私なんかの話で良ければ」




この後、私はシリスハムに生まれ育った母国のこと、曾祖母と住んだ港町のこと、友達のこと、カフェでウェイトレスの仕事をしていたことなどを話した。


久々に母国での出来事を思い出し、懐かしくなってしまったせいで、終始私が一人で話していたような感じだったが。



それでもシリスハムはずっと、私の話を真剣に聞いてくれていた。



「何だかものすごい勢いでしゃべっちゃってごめんなさい。つい懐かしくて……


子供っぽいって思いました? でもこう見えても私、ちゃんと二年前に成人してるんですよ!


あ、そういえばシリスハム様って今おいくつなんですか?」



私ったら、また一人で話してしまっている。



『あはは。リリアナ女神様のことを子供だなんて思ったことはありませんよ。


ちなみに私は今年、350歳になりました』



「あ! やっぱり、ラドシェリム様やユリウス様と同年代なんですね!


じゃあ、良かったら今度、あのお二人も誘って、一緒に王都グルメツアーに行きませんか? 王都にも陸と同じような食べ物が結構あって面白かったんです。


引率はナプティムウト先生にお願いしましょう」



だが。



『……申し訳ありません、リリアナ女神様。それは、ちょっと難しいですね』


「へ……? あ! すみません、王都に行くのは、その、まだ駄目ですよね。ごめんなさい」



早々に断られてしまった。

……当然だ。軽率な発言をしてしまった自分を小突きたくなる。



シリスハムはつい先日まで罪人だったのだ。


しかも王都に大怪魚・リヴァイアサンを招いた張本人として。


民の人たちの記憶からは、きっとまだ消えていないだろう。



『いえ、そうではなくて…… でも、ありがとうございます』



シリスハムは少し眉を下げて笑ってくれた。



「……じゃあ、私が腕を振るわせていただくっていうのはどうですか?


シリスハム様、陸のお料理ってあまり馴染みがないでしょう?


無事にマーレデアム王国に戻れたら、みんなで帰還祝いしましょう」




こんな状況下に置かれているというのに、私は何とも能天気な話をしている。


でも。この別城を訪れた時からずっと何かが引っかかっていた。だから、私はシリスハムと未来の約束を取り付けようと必死になっていたのだ。



……カリュブディスとシリスハムの "契約" という言葉がずっと頭から離れなくて。




『いいですね。リリアナ女神様の手料理をいただけるなんて、もういつ死んでも本望です』


「ちょ、ちょっと、シリスハム様! 縁起でもないこと言わないで下さい!」


『これは失礼いたしました。貴方様があまりに嬉しいことを言って下さるものですから』



そう言って、シリスハムはくすくすと笑いながらも再び手を胸へと当てていた。




「…………」



『リリアナ女神様? どうかなさいましたか?』


「……あ、いいえ、何でも……」


『お話し下さってありがとうございます。では、引き続き出口を探しましょうか』


「は、はい」





やはり、何故か胸騒ぎがする。



(シリスハム様、さっきからずっと "胸” に手を当ててる。


前に王都の民家で会議を開いた時は、そんな仕草はしていなかったのに)




彼の動作は、まるで胸の内にある "何か" を確認しているかのようだった。

 




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