16. 海男神
第三章 『古の海の魔物編』
(幕間)
久しぶりに幼い頃の夢を見た。
私は海から離れた母国の都心に住んでいて、まだ父母が生きていて、祖父母も共に暮らしていて。
一人っ子だった私はとても寂しがり屋で、眠る時はいつも誰かと一緒だった。
そんな私を寝かしつける時、母と祖母がいつも歌ってくれていた子守唄があった。
眠れ、眠れ、我の愛しい子。
母なる海がお前を守り、
父なる海がお前を導く。
海神やここにいる。
海神や共に在る。
眠れ、眠れ。
我の愛し子。
彼らが事故で亡くなり、港町に住む曾祖母に引き取られてからは、彼女がこの子守唄を歌ってくれた。
「お前は海の女神様に愛された子なのよ」
夢の中で、懐かしい子守唄を聞いたからだろうか。
曾祖母のこの言葉が、今の私の切り火となってくれている。
------
王都民家で、シリスハムたちとの会議が行われてから二週間が過ぎた。
「相変わらず、リリアナ様はとてもお美しくていらっしゃいますわ」
「純白のロングドレスが、まるで貴方様の心の美しさをも現しているようです」
本日、私は二か月半ぶりに女神の間へと一時帰宅している。
今日は、カリュブディスとの会談がついに実現する日。
そのため、侍女のモネとルルが、面会を控えている私の準備を手伝ってくれているのだ。
「あとは装飾品を付ければお支度は終了です」
「わたくしたちが、お付けいたしますわね」
少し元気のない侍女二人が、心許なげに微笑んでくれる。
女神の秘宝が私の首にかけられているのはいつも通りだが、髪飾りは一族に縁のあるヒトデ型のものを選んだ。
私の耳に付けられたパールのイヤリングは、
この日のために、ユーリとナプティムウト、それにトリンティアたち三人が誂えてくれたもの。
右手薬指にはシェリから贈られた婚約指輪を。
そして、左腕には曾祖母から受け継いだ腕輪をはめる。
「ありがとう、モネ、ルル。
……そろそろ出発の時間かな。お留守番、よろしくね」
笑顔でそう伝えると、二人は "また"、涙を必死に我慢しながら私のことを抱きしめた。
実は約二月半ぶりの再会となってしまった彼女たちには、先程も大号泣されたばかりなのだ。
ノワルに女神の間を襲撃された日から今日まで、二人には一度も会えていなかったから。
「……行ってらっしゃいませ、リリアナ様。
貴方様のお帰りを、この女神の間でお待ちしておりますわ」
「リリアナ様がお帰りになられたら、また三人で川の字になって、マーレデアム王国の四方山話でもいたしましょうか」
「ふふっ、楽しみにしてるね。
あと私、モネとルルの恋のお話もそろそろ聞きたいなぁなんて思ってるの。
帰ったらまた、三人でたくさんお話ししようね」
涙を流しながらコクコクと頷いてくれる二人のことを、私が抱きしめ返していると……
「リリアナ様、お迎えに上がりました」
外からノックの音と共に、私を呼ぶ声が聞こえた。
テラスに出ると、ホメロスを伴ったシェリが私を迎えに来ていた。
ナプティムウトやユーリ、騎兵団の部隊も、各自戦闘鮫魚を従え、テラス階段下の小広場に集結している。
「ありがとう、シェリ。
ホメロスも元気になったんだね。ほんとに良かった……」
ホメロスは私の頬に自身の身体を擦り寄せると、甘えた声でキュ、キュ、と鳴いた。
すると……
「ピピピピピピ〜っ!」
「! ベル!」
テラスに潜んでいたのか、何処からかベルが姿を現し、私のドレスをくいくいっと引っ張ってくる。
「……ベル、今日はあなたを連れて行けないの」
海人騎兵団の同行が許されているのは、カリュブディスに指定された屋敷外までなのだが、この屋敷がどうやらカリュブディスの別城らしく、マーレデアム王国郊外地区よりもさらに数十キロ先にあるとのこと。
「お屋敷に向かう途中で、怪魚に出くわして
戦闘になる可能性だってあるみたいだから。
ベルはモネとルルと一緒に、女神の間で良い子で待ってて。……ごめんね」
ベルのつるりとした身体を撫でながらそう
言うと、彼女はしょんぼりしたようにテラス上方へと泳いで行ってしまう。
「拗ねちゃった」
「仕方あるまい。海人騎兵と共に訓練を受けている戦闘鮫魚ならともかく、あやつはリリィの愛獣として迎え入れた者なのだから。
其方が帰ってきたら、また存分に構ってやればいい」
「……そうだね」
私はベルが去った上方を仰ぎ見た。
先程唱えたばかりのお祈りのおかげが、辺り一面にキラキラとした水泡が立ち、カラフルな海水魚たちが生き生きと遊泳する様子が目に飛び込んでくる。
「……よし! 良い一日にしなくっちゃ」
「心配ない。必ずそうなる」
シェリは私の手を取ってホメロスに乗せると、自身も勢いよくその背に跨った。
「皆の者、これよりカリュブディスの別城へと参る。
道中はリリアナ様をしかとお守りせよ!」
「御意!」
------
ベルは女神の間上方から、進行していくリリィたちのことをじっと見つめていた。
そして、やがて主たちの姿が見えなくなると、彼女は女神の間を離れ、彼らが進む方向とはまた別の方角へと、ふよふよと泳いで
行った。
------
私たちの一行が王都郊外へ到着すると、そこにはすでに、シリスハムが待機していた。
「シリスハム、首尾はどうだい?」
『問題ありません。この者たちがカリュブディス別城までの案内係だそうです』
シリスハムが視線を向けた先には、大魚に跨る海魔族数名の姿が在った。
「うげっ…… 海魔族ってのは何回見ても気持ち悪い見目だな」
「あいつらとの戦闘はもうごめんだ。大して強くねえはずなのに、動きが早すぎてまあ体力が奪われる奪われる」
「なぁ、あの大魚も気味悪くないか? あいつらと同じ土色だし、何か鱗がバキバキで岩みたいじゃねえ?」
騎兵団の者たちは海魔族を見るなり、皆 揃って顔をしかめている。
「シリスハムだって、なぁ?
いくらリリアナ様をノワルからお救いしたとはいえ罪人には違いないのに、こんな重要任務に同行を許されてるなんて」
ちらりとシリスハムを見た元同僚たちが、複雑そうな表情を彼へと向けている。
……すると。
「はーーっ、もうやめやめ! こんな時に人の見た目どうこう言ってる場合じゃないでしょ?
それに、シリスハムは確かに過去に罪を犯したけど、今回ノワルからリリアナ様を奪還出来たのも、カリュブディス側と話し合う約束取り付けてきたのも、全部シリスハムの手柄だからね?
こそこそ文句言うくらいなら、堂々と団長に言いなよ!」
「お前たちの気持ちも分からなくはないが、
シリスハムを起用すると決めたのは俺だ。
異議がある者はこやつにではなく、直接俺に言いに来い。
身分 云々《うんぬん》関係なく、手柄を上げた者は取り立てる。
それが海人騎兵団の伝統だ」
ユーリの呆れ声とシェリのその言葉に、文句を垂れていた海人騎兵たちが押し黙る。
『……団長、ユリウス。申し訳ありません』
「べっつにー? シリスハムのためじゃないし。
出発前に嫌な空気になると、リリィが気にしちゃうでしょ?」
「今回の会談で一番危うい立場にあるのは他でもなくお前だろう。
カリュブディスを裏切り、マーレデアム王国側に付いているのだから」
シリスハムが拳を握り締めながら少し俯く様子を見て、私も彼へと声をかける。
「シリスハム様、あなたのおかげで会談が実現するんです。
後は私が何とか頑張ってきますから、応援してて下さいね!」
そう言って、ふんっと鼻息を鳴らす私。
そんな私を見たシリスハムは、少し眉を下げて微笑んでくれたのだった。
------
一方、ここはカリュブディスの別城。
「そろそろ愛し子が到着する頃合いか」
じめりとした空間に、凛とした少年の声が響く。
「……そうですね」
「其方はまだシリスハムに立腹中か?」
「裏切り者に制裁を与えることはお許しいただけますか?」
「ノワルよ。あの者の膳立てで、海人族共と戦わずとも愛し子との対面が叶うのだぞ。
むしろ大した手腕ではないか」
少年の、黒曜石のような瞳がどこか意味深に細められる。
「貴方が此度の会談に、二つ返事で了承されるとは思いませんでしたよ」
「そうか? 余は常に、海の平安を望んでおるのだぞ?」
「……ふふ。そうでしたね」
「全てが順調だとも。
当代愛し子を "取り込む" ことも、海人族共に絶望を与えることも。
これが結果として、此度の愛し子が望んだ
"マーレデアム王国を滅亡させぬための未来" へと繋がるのだから」
------
女神の間を出発してもう六時間ほどは経っているだろうか。
私たち一行は予想通り、やはり道中に何度か怪魚に遭遇していた。
「ねえ、シェリ。何だかこの辺りはマーレデアム王国よりも怪魚と会う確率が高いね」
「そうだな。其方の浄化が届きにくい場所になればなるほど、怪魚たちを懐柔しやすくなる」
「……それって、カリュブディスの別城に近づいてるってこと?」
「いや。まさに目前ということだ」
私を抱き寄せ、鋭い目つきで前を見据えるシェリに気付き、思わず息を飲む。
シェリが眼光を据える先に、マーレデアム王国に建ち並んでいるような近代的な建物ではない、どこか古びた屋敷が見えてきた。
周りには他の家々が一つもなく、ポツンと聳えるその建物を、私はゆっくりと見上げた。
「……何だか、この建物の近くは海水が冷たく感じるんだけど、私の気のせい?」
悪寒がするというか。
「気のせいではない。これが邪気だ。先程の怪魚たちなどとは比にもならんくらいのな」
「…………シェリ、それって、」
私があることを確かめようと口を開きかけた時。
「お待ちしておりました、リリアナ女神様」
「?!」
私の肌がゾクリと粟立ち、心臓がドクドクと激しく波打つ。
とても美しく妖艶なこの声色は、私の記憶を、あの女神の間を襲撃された日へと呼び戻す。
シャアアアーー!
私とシェリを背に乗せているホメロスも、その鋭く尖った牙たちを突き出すようにして、目前の男を威嚇し始める。
「久しいな、ノワル・マクリル。いや、ノワル・セイレーンと呼ぶべきか。
先日は随分と手荒な真似をしてくれたものだ。女神の間を襲撃してリリィを攫い、戦闘鮫魚たちを虐殺するとはな」
シェリは淡々と言葉にしているが、その額と顳顬には幾線もの青筋が浮き出ていた。
ノワルの登場に、騎兵団の人たちも次々と手中に武器を創り出す。
「待ちなさい。ここで戦闘をするために、私たちは訪れたわけではないよ。みな、武器を収めるんだ。
シェリも、落ち着きなさい。今日は彼らに、恨み言を伝えに来たわけではないのだから」
ナプティムウトのその言葉に、シェリは大きく息を吐いていた。何とかして心を落ち着かせるように。
私が少しばかり後ろを振り返ると、目の合った彼が眉を寄せたまま私の頬を撫でた。
きっと、私の顔色もすこぶる悪いのだと思う。
私は身体を戻し、もう一度前を向いた。
「……ノワル。ナプティムウト様の言う通り、今日は、あなたのご主人と話し合いに来ただけなの。
私たちは戦わないし、あなたたちに武器も向けない。
でも、お互いがルールを守らないと会談が成立しないから。だから、ノワルもここで誓って」
「もちろんですよ、リリアナ女神様。我々とて、争うために貴方がたをここへ招いたわけではありません。
我が主との会談のために、わざわざこのような辺鄙な場までお越しいただいたのですから。
お前たちも、ご苦労様。ここからは僕が案内しますね」
ノワルのその言葉に、案内係だった海魔族たちが静かに泳ぎ立ち去って行く。
「ああ、あと、シリスハム。貴方も一緒に来て下さい。
貴方はリリアナ女神様をカリュブディス閣下の元までエスコートして差し上げて下さい。
貴方には時間がありませんので急ぎましょうか」
「…… "時間がない" ?」
何かを探るように、ナプティムウトはシリスハムを見やったが、彼は表情を崩さないままだ。
そんな彼らを見やりながら、私も後ろを振り返ってシェリへと声をかける。
「じゃあシェリ。行ってくるね。また、後でね」
シェリに向けて精一杯の笑顔を作り、ホメロスから降りようとした時、
「?! わわっ……!」
シェリが再び私を抱き寄せ、自身の腕の中へと収めてきた。
「シェ、シェリ? みんな見てるよ?」
「……リリィ。絶対に無茶はするな。何かあればすぐに大声をあげろ。変な物を口にするなよ。あとは、」
「……もう、シェリってば」
私はシェリの腕中から顔を出し、彼の頬にほんの少しだけ、唇を寄せた。
……みんな見ているとは、どの口が言うのだと言われそうだ。
「心配ないって、シェリだって言ってたでしょう?
あなたの歩む未来がより良いものになりますようにって、願いに行くだけだよ」
私は照れ隠しのためにいそいそとシェリの腕を解いた。
そして、今度こそホメロスから降りると、ノワルに向かい真っ直ぐに歩いて行った。
『……リリアナ女神様、お手を』
「よろしくお願いします、シリスハム様。みなさま、行ってきますね」
私は進路途中、差し出してくれたシリスハムの手のひらに自身のそれを乗せ、騎兵団の皆にも言葉をかけた。
そして、ノワル、シリスハムと共にカリュブディスの別城内へと足を踏み入れて行ったのだった。
------
「リリアナ女神様は存外大胆でいらっしゃいますね。それに、なかなかに浮気な方だ。
これから貴女の夫となられる方と対面されるというのに」
屋敷内の通路を歩いている最中も、ノワルはそんな会話を持ちかけてくる。
「情夫と交わされるのは口付けではなく、別れの挨拶が妥当では?」
「カリュブディス様と結婚のお約束をした覚えはありません。
それに、会談がすぐに終わるなんて初めから思っていません。シェリたちとしばらくの時間、会えなくなるのは承知の上です」
でも、彼のそんな言葉にいちいち動揺はしない。
「……ふふふ、余裕ですね。主と対面された後もそう言えれば良いのですが。
ところで、先程からシリスハムが僕を睨んでくるのですが。
彼は裏切り者故、僕が睨めるのは分かりますが、逆は理解出来かねますね」
ノワルはそう言いつつ、私からシリスハムへと目を移し、一瞥した。
私も彼へと視線を向けると、確かにシリスハムは少し訝し気に眉を寄せ、ノワルの方を睨め付けていた。
「まあいいでしょう。主も、シリスハムがマーレデアム王国との架け橋となってくれたことを大いに喜んでいましたから」
ノワルは屋敷内最奥に位置する部屋の前で立ち止まった。
「おそらく、予想に反して話し合いにそれほど時間はかかりませんよ。結果なんて一つしか有り得ませんし」
「……え?」
「ほう。其方が新たな愛し子か」
「?!」
するとその時。凛然とした少年の声が、突然に私の耳奥に広がった。
いつの間に目前の部屋扉が開け放たれたのか。
……いや、そうではない。いつの間に、私たち三人は室内の中央にまで移動していたのか。
さらに言えば、私たちが佇むこの部屋は異様に大きかった。外から見た屋敷はとてもこじんまりとしていたはずなのに。
まるで、屋敷外と屋敷内は "別物" だとでも言うように。
だが、今は屋敷のこと云々《うんぬん》より目前の人物に集中しなければ。
……おそらくはこの少年こそが。
「……あなたがカリュブディス様ですか?」
「いかにも。長旅ご苦労であったな。それに、ふむ。やはり似ておるな」
彼はまるで王座のような、豪華な椅子へと腰かけ、私の瞳をじっと楽し気に見つめていた。
「よくぞ参った。テティスの娘よ」
この少年こそが、古の神・ポセイドンの子にして古の海の魔物たちの長。
この全海の生命を統率する海男神・カリュブディスその人なのだ。
ブラックダイヤのような黒い瞳を持ち、齢10ほどの、あどけない人間の少年のような彼が。
私はぐっと手のひらを握りしめ、一度深呼吸をした後、ドレスを持ち上げて拝礼した。
「カリュブディス様、初めまして。リリアナ・マリンクロードと申します。
この度は会談の場を開くことに応じていただきまして……」
「堅苦しい挨拶など良い良い。其方は我が正妃となる女だ。気にせず寛ぐが良い」
「……っ、あの。そのこのとについてもお話したいことが、」
「其方は度々陸へと上がっておるそうだな。母国は今どのようになっておる」
「母国……? 私が生まれ育った国のことですか?
それとも、グッセンスタシューン王国のことを言われていますか?」
「まあこの話はおいおいでも良いか。婚姻を結べば、時間などいくらでもある」
「あ、あの……」
「新婚旅行は陸でも良いぞ?」
「いえ! そ、そうではなくて! 」
(だめだ……! 会話の主導権があっという間に握られて、話が右往左往してる。
肝心の戦争回避の話し合いにも全然持っていけない。
いや、結婚話ももちろん後ほど全力でお断りするけど……!)
「海底戦争を繰り返すことは、余も望んではおらん。双方の力を削ぐ上、互いに何のメリットもない」
「へ…………?」
と、今度は突然。
今回の会談の最大目的、海底戦争回避の話題となる。
「テティスの娘よ、其方もそう思うであろう?」
「! はい……! それはもちろん!」
話はあの、マーレデアム王国歴史上最大の悲劇、海底戦争についてだと言うのにカリュブディスがにっこりと笑って子供らしい笑顔を浮かべるものだから、私はすっかり毒気を抜かれたようになってしまう。
(あ、あれ? 何だか、思ってたよりも話が良い方向にトントンと進んでる……?
まさか、ノワルが言ってたのってこういうこと? カリュブディス様も、実は私と同じ思いだった、とか?)
ガチガチに構えていた心に少し余裕が生まれ、少しほっと息をつけた。
「まあ、それも条件次第ではあるがな。
して。テティスの娘よ。
其方が海人族の王子を愛し、婚姻の約束まで取り付けておるとは誠か?」
……だが。先程の声色とは裏腹。
今度は突然、背筋が凍りつくような冷たい声が私に降りかかってきた。
「…………えっと」
「その右手薬指にはめられた指輪が答えか?」
コロコロと変わる話題や声色。
見目は幼い少年のようなのに、纏う空気にどこか恐ろしさを感じ、身体を強張らせてしまった。
「それとも、左腕に身に付けている腕輪が、其方の意思か?」
「腕輪……?」
冷んやりとした汗が背中に伝っているのを感じながらも、私は自身の腕を見やる。
「これは曾祖母にいただいたものですが……」
「テティスは本当に律儀な女よの。一体何千年間、それを受け継がせてきたのか」
……テティスから、受け継いできたもの?
「……どうして、あなたがこの腕輪のことをご存知なんですか?」
「その腕輪は、余がテティスとの婚約の儀の際にあれに贈った物だからの」
「…………」
ちょっと、話の理解が追いつかない。
これは確かに、曾祖母がとても大切にしていたもの。
私へと譲ってくれる時だって、代々受け継がれている家宝のようなものだから大切にするようにと、そう言われていた。
「……あなたが昔、テティス女神様と婚約されていたことはノワルから聞きました」
「その通り。その婚約の証を身に付けているということは、其方がテティスの代わりに余に嫁ぐ意思の現れだと見受けるが?」
「! いいえ……! そのような意味合いのものだとは知りませんでした」
「では其方は海人族の男と婚姻を結びたいと?」
「……はい」
「ほほう」
カリュブディスの黒い両の眼がまるで軽蔑するように、私のことを鋭く見据える。
「 二代目愛し子を凌辱し、テティスの血が色濃く残る陸王国を滅亡させ得る原因を作った者は、あの忌々しい海人族の王の息子だった。
だから "カリュブディス閣下" は、 "アレキサンドラ" を保護し、1000年の時をかけてマーレデアム王国への浄化と祝福を遮ったのだ。その報復は当然であろう?
だが、あの王は海底戦争を引き起こした。そして、カリュブディス閣下を死へと追いやったのだ。自分たちが起こした過ちなど棚に上げてのう。
其方は、そんな男の子孫に嫁ぐと申すか?」
カリュブディスの姿は、あどけない少年のそれから、怒りを滲ませた青年の容貌へと変化していく。
「リリアナよ。其方は海人族王家を許せるのか?
仮にもお主は、テティスやアレキサンドラの娘ぞ? 家人ぞ?
少なくとも、"我が実姉 、カリュブディス閣下” は決して許そうとはしなかったがの。
テティスの唯一無二の友であり、アレキサンドラの良き理解者であった姉は。
……それに。家人を奪われた余もまた然り。やはり、海人族王家が憎いのだ」
……シェリの言っていた通り、彼は海神 故、その姿形を自由に変えれるのか。
などと、今はそんな呑気なことを考えている場合ではない。
カリュブディスが放った今の言葉こそが、バラバラだったパズルのピースを急速に当てはめさせた。
唐突に理解した海底戦争の原因と背景。
そして、目前に在るカリュブディスと、1000年前まで "カリュブディスだった女性" との関係性。
それに、その女性とテティスの間柄も。
「おや、リリアナ女神様。お身体が震えていらっしゃいますね。主のお話を聞かれて驚かれましたか?
それとも、この部屋自体が蠢いているせいでしょうか?
"別異空間" への移動はすぐに終わりますからしばしお待ち下さい」
隣では、ノワルがそんなことを言っている。
やはり、この屋敷は人が創った普通の建築物ではないようだ。
何故ならノワルの言う通り、今のこの瞬間も、私たち四人がいる屋敷の一室が、陸地の大平原のような場所へと変化したのだから。
「この屋敷はカリュブディス閣下の身体の一部で出来ているのですよ。
つまり、大きさを変えるのも場所を移動させるのも、我々を異空間へと飛ばすことも閣下の意思次第」
ノワルの言葉に、今度は辺りを見渡してみた。
そして。この大平原には、とある巨大な影が何度も旋回していることに気が付いた。
「待ちくたびれたか? "アレキサンドラ" よ。
こやつがお主の子孫よ」
今度はカリュブディスが上方を仰ぎ見てそのように言った。
……顔色が蒼白になっている自覚はある。悪寒がすごい上、嫌な予感しかない。
しかし私は、その正体を確認せざるを得なかった。
見上げた先には、巨大な蛇がいた。
いや、蛇ではないのかもしれない。首が一つではなく、どうしてか九つもあるから。
しかし、全体像は今までに見た怪魚の比ではないほど凄まじい。大きさは、あのリヴァイアサンすら上回るだろうと思う。
…………そしてもう、私は気付いてしまっている。
この大海蛇の正体が何者であるかということを。
この者こそ、マーレデアム王国の人たちが、2000年に渡り恐れてきた古の海の魔物の一人。
"海魔" であるということを。
「海人族共が海魔と呼ぶこの "ヒュドラー" こそが、其方の祖先である先代女神の愛し子の成れの果て」
そして、未だ放心状態にある私の心情を抉るように、カリュブディスが言葉を続けてくる。
「さて、"三代目" 女神の愛し子、リリアナ・マリンクロードよ。
其方はこの二代目愛し子と我が姉の怨みつらみを回避出来得る術を、何か備え持ってはいるか?
其方の言う戦争の回避が論議の結果だと言うのなら、今からそれを "交渉 "し、"譲歩" へと進ませてみよ。
海人族の王子と婚約を交わしている其方には、大変に難しい条件であるがな」
その暗黒の両眼を私へと向け、皮肉な笑みを浮かべながら。




