8. 神と魔物
第三章 『古の海の魔物編』
"セイレーン"
古から存在する、海の魔物の一種。美しい歌声で "人間" の船乗りたちを惑わし、その血肉を怪魚に食わせる、あるいは自身で食らうという、"女系" の者たち。
女神の間が襲撃される前に目を通した資料には、このように記載されていたはずだ。
だが、目前にいる "セイレーン" は少し違う。
惑わされたのは人間ではなく海人族だった。それに、ノワル・セイレーンは男性だ。
でも、今はこの事実どうこうよりも問いたいことがある。
「あなたの主っていうのは誰? セイレーンの長? あと、私が希望になるって具体的にはどういうことを言ってるの?
……あ、あと、妃って、何の話? 女神の間でも、伴侶がどうとかって言ってたよね?」
動揺が抑えられず、思わずノワルに質問攻めをしてしまう私。
声が少々うわずっていたせいか、ノワルはくすくすと笑いながら私を見下ろした。
「では、まずは後者の説明から。
まあ、そのままの意味なのですが、貴女は我が主の "正妃" となられる女性です。これはもう、"1000年前に決定" していますので変えることは出来ません」
ノワルが淡々とそう話すので、私は思わず、口をあんぐりと開けてしまった。
セイレーンの長に嫁ぐことが、1000年前から決まっていた?
誰が決めたのだと声を大にして言いたい上、私はまだ18歳だ。1000年前など生きてはいない。
「おや、貴女が知りたいのはそのことではありませんでしたか?
……ああ、もしや "あちら"の心配事ですか?
確かに、あのお方はとても精力的でいらっしゃいますが。
しかしそんな不安がらずとも、主には他にも側妃が大勢いますから、貴女だけが閨のお相手をしなくても大丈夫ですよ」
「…………は?」
「まぐわいのことを気にしておられるのでしょう?」
「な、な、何を言っているの……!!」
先程に開いた口がさらに大きく大きく開き、塞がらなくなってしまった。
「失礼だし、下品にもほどがあるよ! そもそも結婚なんてあり得ないから!!」
思わず声を張り上げてしまい、肩で息を繰り返すことになった。
「落ち着いて下さい、リリアナ女神様。レディがそんな大きな声を上げてはいけませんよ」
「私はあなたの求めるレディにはなれません!」
私が真っ赤になって怒っている姿が面白かったのか、ノワルはさらに声を上げて笑い出す。
「あはは! あのお方のおっしゃる通りだ。
"女神らしからぬ百面相を持ち合わせ、高価な贈呈品よりも人との触れ合いや労働によって喜びを見出す。
愛し子らはその姿形も人格も、「自身の婚約者だった」テティス海女神の生き写しのようだ" 、と」
「……婚約者……?」
「ええ、そうです。本来ならテティス女神が主の妃となるはずだったのですが、彼女は別の男を追って陸へと上がってしまったので仕方がありません。
初代愛し子は独身を貫きましたし、二代目は1000年前に海魔となってしまいました。だからその役は、三代目愛し子の貴女に引き継いでいただきます。
1000年前に定まった婚約というのは、そういうことです」
ノワルの言う意味が、もう全くもって分からない。
そもそも、ノワルの主と結婚するはずだったのは、私の祖先であるテティスだった……?
でも。
「テティス様は女神様でしょう? どうして海の魔物が神様と結婚なんて出来るの?」
「おや。私の主が "魔物" だなんて、一体いつ言いましたか?」
ノワルが少し首を傾げ、質問返しをしてくる。
……彼の主人は、セイレーンの長じゃない? その上、魔物でもないっていうこと……?
背中に汗が伝い出す。
海女神であるテティスに、元々に定められていた婚約者。
……もしかして、その "地位" は。
「気付きましたか?
僕の主も、元々は "海神" 。
今はその力を失ってはいますが、あのお方は間違いなく神の血を受け継いでおいでです」
"不老不死と言えば私には神様しか思いつきませんけど、魔物でもいるんですね"
"不老不死な上、テティスがまだこの海を治めていた時から存在してると言われている"
シェリがプロポーズをしてくれた日に交わされた言葉たちが、脳内に蘇ってくる。
1000年前と言えば、ちょうど海底戦争が収束された時だ。もし、"ノワルの主" が未だ敗北を恨んでいるとしたら、私を取り込みたい理由は一つしかない。
"三代目愛し子に海の浄化と祝福を行わさせないこと"
これこそが、マーレデアム王国への間接的報復になる。
ノワルの主は、テティスの身代わりとして、そしてマーレデアム王国への脅威となるよう、私を取り込みたいのだ、
……なんとということだ。
海の浄化を行う私は、"あの人" にとっては
邪魔な存在で、命を狙われているとすら思っていたのに。
「我が主は、海男神・ポセイドンの "実子" 。
海人族や人間には海の魔物などと呼ばれていますが、主はれっきとした海神の力を受け継ぐお方です。
貴女の夫となられるのは、
カリュブディス閣下ですよ」
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「ひっさびさに来たなぁ、マクリル右大臣の屋敷。相変わらず派手な装飾だね」
海人騎兵団の長剣部隊を引き連れたユーリが、マクリルの屋敷へと到着した。
ユーリは幼い頃の記憶をたどる。
昔、父親に連れられ一度だけここを訪れたことがあったが、その時の右大臣ときたら、この家の調度品はやれ高価だ、やれ有名な作家の物だなどと、やたらと自慢していたのが印象的だった。
しかし同時に、マクリルは家族思いだという印象も持った。何故なら、自身の妻は美人だとか息子二人はすこぶる優秀な息子だとか、これまた自慢話をしていたから。
家具や食器には興味がなかったが、複雑な家庭状況で育ったユーリには、家族を他者に自慢できるという環境が少し羨ましく思えたものだった。
「あの家族大好きなマクリル右大臣が今さら後継を変えるなんて、まああり得ないよね」
ユーリはそう呟いて、屋敷を見上げた。
「副団長、いかがいたしましょう! このまま突撃しますか?!」
「早くリリアナ様をお助けしなくては。ノワルは本当に、一体何を考えているのだ……!」
騎兵団の者たちが怒りと焦りを露わにしている。ユーリはそんな彼らに静かに言葉をかけた。
「落ち着いて。まずは敵の出方を見なきゃだよ。おそらく、古の海の魔物が絡んでるだろうから。
だから一先ずは待機。宰相様からの連絡を待つよ」
「しかし、副団長……!」
「リリアナ様が人質に取られてるようなものなんだ。
……あの方は、いざとなったら自分のことより僕たちの命を優先する。だから、絶対に失敗出来ない任務なんだよ」
ユーリは部下たちに落ち着いた口調で話してみせるが、当然、心はそうではない。
「このまま突っ込みたいのは僕だって同じ。でも無闇矢鱈に動いちゃうと、逆にリリアナ様を危険に晒すことになるかもしれないんだ」
以前、自身がギルに船上で捕まってしまった時だってそうだった。
リリィは他者の命を守るためなら、たった一人で敵将に交渉を持ちかけにいくような女の子だ。
怖いだろうに、不安だろうに、決してそれを表には出さず、相手に食らいつく。
自覚のない自己犠牲ばかりを行うリリィに対し、彼女がこのまま自分たちの前から消えてしまうのではないかという錯覚さえ起こしてしまう。
「……副団長なのに、なっさけないな」
ユーリは長剣を持つ手が少し震えていることに気付く。
リリィがいなくなる想像なんて、心が弱っている証拠だ。
「リリィ、必ず助けるから。
君を守るのはあいつでも、突破口を照らすのは僕の役目だ。
シェリにだって、リリィのお日様の座は譲らないよ」
ユーリはそう言うと、己を鼓舞するよう拳に力を込め、長剣を握り直した。
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「 "カリュブディス" と結婚するなんて、そんなの無理に決まってるじゃない……!」
私は真っ青になりながらも、目前にいるノワルを睨め付ける。
「リリアナ女神様。僕にはその言葉こそが理解が出来ません。
主は海女神・テティス様が座するはずだった正妃の席を、当代愛し子の貴女に受け渡すとおっしゃっているのですよ。
それを名誉なことだと思わないのですか?」
少し眉を寄せ、ノワルがそう言葉を紡ぐ。
「ちなみにここにいる海魔族たちは、血を分け与えられることを泣いて喜んでいたそうですよ」
「……血?」
「カリュブディス閣下の血を飲んだ者だけが海魔族となれますので」
「?!」
「まあ、もう当時のことなど覚えていないかもしれませんが。
ご覧の通り、海魔族になると両生体となるだけでなく、言語障害、あと軽い脳障害が引き起こされるようですから」
……何故、それが名誉なことになるのか、こっちこそ理解不可だ。
少なくとも、マクリル右大臣の家族たちは海魔族になることを望んでいたとは思えない。
戦闘鮫魚たちへの無慈悲な行いをしたこと。罪のない海人族を強制的に海魔族へ変化させたこと。
一体それらのどこに、心を許せる部分があるというのだ。
私はさらに、ノワルへと鋭い視線を向ける。
「カリュブディスが本当は海神だとか、そんなことはどうでも良いの。結婚なんて絶対にお断りだから」
「……ふう、やれやれ、なかなかに頑固な姫君ですね。
少々手荒になりますがお許し下さいね、リリアナ女神様」
ノワルがそう言いつつ、こちらへと手を伸ばしてくる。
『……デンレイ、デンレイ……』
するとその時。数人の海魔族たちがノワルの前に跪いた。私たちの後方から姿を現したため、彼らはこの地下にいた人たちではなさそうだ。
『……ソトニ キヘイダンノ ブタイアリ。
ソノカズ150 ……』
「!!」
「……とんだ邪魔が入ったようですね」
「もしかして、騎兵団の人たちが来てくれたの……?」
「そうみたいですよ。やはり団長の戦闘鮫魚は殺しておくべきでしたね。
テラスに倒れ込まれたせいで、とどめを刺せなかったのが悔やまれます」
「?!」
ホメロスが、生きている……?
あんな悲惨な状況の中で、彼は生き伸びてくれていたのか。再び涙が溢れ出てくる。
おそらくはホメロスが、超音波信号を発して女神の間襲撃のことを騎兵団の人たちに伝えてくれたのだ。
(……しっかりしなきゃ。泣いてる場合じゃない。何とかしてノワルから逃げないと)
思考を巡らせている私の隣で、ノワルが左手に青白い光を宿し、長槍へと変化させた。
そしてもう片方の手で私の腰を掴み、強い力で引き寄せようとする。
「触らないでってさっきも言ったでしょう!」
「今は聞き入れられません。舌を噛むといけませんので、貴女はもうお黙り下さいね」
ノワルはそう言うと、腰に手を添えたまま私を抱えるようにして階段を登り泳いで行く。後ろには海魔族たちが付き従っている。
屋敷玄関口へと到着すると、その重厚な扉を海魔族たちが開いていった。
「……おや? エーギル副団長ではないですか。てっきりポセイドン団長が来たものだと思いました」
ノワルはそう言って一旦私を地へと下ろすと、今度は肩を抱き寄せてきた。
完全に開かれた扉の向こうには、戦闘鮫魚たちに跨る騎兵団の人たちの姿が在る。
彼らの中央にいるのは、イシスに跨るユーリだ。
「あいにく、団長は別件で席を外してるよ。
……ふーん。それがお前のホントの姿ってわけね。てゆーか、その手なに? 何できったない手でリリィに触ってんの?
その子はお前なんかが気安く触れていい女の子じゃないんだよ」
「それは僕のセリフです、エーギル副団長。
誰よりも高貴なこの女性を、女神の間とかいう辺鄙な日陰に閉じ込めているのは、一体どちらですか?」
「はあ? リリィは日陰の女なんかじゃないし。
その子は僕たちの救世主なんだ。勝手なこと言わないでよね」
ビキリ、とユーリが顳顬に青筋を浮かべ出す。
「さっき、早魚が宰相様からの手紙を持ってきてくれたよ。長槍部隊を待たずに出撃してオッケーだって。
みんな、用意は出来てるよね?」
ユーリの言葉に、彼の後ろに控える騎兵団の人たちがみな一斉に獲物を構え直した。
「……やれやれ。本当に血の気の多い人たちだ」
ノワルはそう呟いた後、その身体をゆっくりと地から浮上させていった。もちろん、彼に肩を掴まれている私も同様にだ。
海底から少し離れると、ノワルは再び口元から音楽を奏で始めた。彼の手に力が込められたせいか、その爪が私の肩に食い込み、血が滲み出す。
しかし。彼はそんなことなど気にも留めていないように、頭にジンジンと痛みが響くようなメロディを口ずさんでいく。
「う、ぐ……!」
「これが副団長の言っていた "魔声" の威力か……!」
ノワルの魔声を初めて目の当たりにした騎兵団の人たちは、思わず顔を歪め、自身の手を両の耳に当てていた。
「やめて、ノワル!」
私は咄嗟に自分の両手を使い、ノワルの口元を押さえ込んだ。
……しかし。
「?!ひゃあ……!」
ノワルは私の手のひらにベロリと舌を這わせた。そして、長槍を持っている方の手で彼の口元にある私の手をを引き剥がしていく。
「……っ、いい加減にしろよ…………!」
すると、その様子を見ていたであろうユーリが怒声を上げ、素早い動きでノワルの間合いに入ってきた。
ノワルは私の手を離すと、ユーリの長剣を自身の獲物で素早く受け止めた。
「僕の歌を聞いた後でも咄嗟に動けるなんて、さすがは副団長だ。
怒っていらっしゃるのは僕の歌がお気に召さなかったからですか?
それとも、リリアナ女神様を "味見した" ことが気に食わなかったとか?」
「うるさい! リリィを返せ……!」
ユーリは私の肩へと目をやるとその表情をさらに険しくさせ、ノワルを追い詰めていく。
周りを見渡すと、やはり他の海人騎兵たちも海魔族たちと戦闘を始めていた。
「……リリアナ女神様。危ないので少し席を外して下さいますか?」
「えっ?」
ノワルは私を支えていた手を突然にパッと離し、さらに私の身体を横へと押し出した。
「リリィ?!」
「エーギル副団長、貴方の相手は僕ですよ」
ユーリが伸ばしてくれた手はノワルによって遮られ、私はそのまま下方向へと落ちて行く。
(落ちる……!)
海中のため、地へと強く打ち付けられることはないと分かっていても、思わず身体が強ばり、力が入ってしまった。
だが。
(……え?)
急下降していた私の身体は、突然誰かによって後方から抱き留められた。
そして、その "誰か" は私を抱えたまま、その場を移動していく。戦闘現場から、少し遠ざかるようにして。
波打つ鼓動と、ヒヤリとした汗が一向に収まらないのは、ノワルに放り出された衝撃のせいか。それとも、私を抱えるこの人物に恐怖を抱いているからなのか。
背中越しに触れる "彼" の身体はとても冷たい。
その人の腕には海人族特有の鱗。だが、海人族の人たちには決して見ることのない、ゴツゴツとしたフジツボのような物も所々にこびりついている。
私はゆっくりと、その人の方を振り返る。
「……シリスハム、様」
私を後方から抱いているのは、海魔族へと姿を変えたあのシリスハムだった。
「シリスハム、リリアナ女神様を連れて離れていて下さい。後で合流しますから」
『……御意』
シリスハムはノワルの言葉に頷くと、私を横抱きに抱え直し、マクリルの屋敷から離れて行こうとする。
「ま、待って、シリスハム様……!」
そう言葉をかけても、シリスハムは私の方を見ようとはしなかった。
彼はノワルの指示通り、ただ前だけを見据え、私を連れてその場から立ち去ったのだった。
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「ふふ。エーギル副団長、大丈夫ですか? お顔がさらに真っ青ですよ?」
シリスハムがリリィを連れ、マクリルの屋敷からどんどん離れて行く。
ユーリはその様を、ノワルの攻撃を受け止めながらも必死に目で追った。
「なん、であいつがお前と一緒にいるわけ……?! それにあの姿は……!」
「ああ、貴方もお知り合いでしたか。確かシリスハムも元海人騎兵だとか」
ノワルはくすりと妖艶に笑いながら、なおもユーリへと攻撃を仕掛けていく。
ユーリの顳顬に汗が滲む。
シリスハム。あの男はかつての同僚でありながら、己の欲のために怪魚を使って全海人族の命を危機に貶めた者だ。
……そして、女神の愛し子であるリリィを、自身と同じように焦がれ続けた男。
ユーリは怒りに任せるよう、ノワルに向けて勢いよく長剣を振りかざした。
「ふっざけんなよ、お前もシリスハムも……! リリィに何かしたら殺してやる!!」
「リリアナ女神様は大人気だ。まあ、大海神の正妃となられるお方ですから当然ですね」
「?! な、んだって…………?」
ユーリは、リリィとシリスハムの後ろ姿を視界に映しながら、ありったけの声を発する。
「リリィ、僕たちが絶対に助けるから!
シリスハム、お前は何も覚えてないのか?!
その子に守られた命の恩すら忘れたっていうなら、今度こそ死んでも許さないぞ……!!」
海人騎兵たちの雄叫びと海魔族の奇声らが
幾重にも交差する深夜の海底。
激しい怒りを露わにした、ユーリのその叫び声は、喧騒の中にも決してかき消されることなく、まだ夜の明けない海の底へと響き渡った。
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「……っシリスハム様、と、止まって下さい……!」
『……』
シリスハムは相変わらず、一言も言葉を発さない。
私を抱え、ただひたすらに走り泳いでいる。
口を開けば舌を噛みそうなくらい、速く。
(もしかすると、シリスハム様は私が "愛し子" っていう認識だけ持ってるのかも。
……私自身のことはもう、忘れちゃったのかもしれない)
そんな考えを巡らせていると、やがて彼の動きがピタリと止まったことが閉眼越しにも分かった。私は恐る恐る、目を開けてみる。
すると……
「?! ここは…………」
目前に広がっていたのは私のよく知る、紅白のサンゴとカラフルな海水魚たちが織りなす場所。幾度となく訪れている、あの美しい海底の森だった。
何となく、リヴァイアサンの巣穴の時のような、もっとおどろおどろした場所へと連れて行かれるのだと思っていた私は、少し拍子抜けしてしまう。
彼はそんな私のことを、この海森ににゆっくりと下ろした。
「……シリスハム様。あの、ここって海森、ですよね……?」
『……』
しかし、シリスハムは未だ私から顔を逸らし俯いたまま。
彼はどうして私を海森に連れて来たのだろう。ノワルとの落ち合い場所が、ここだとでもいうのだろうか。
……いや。こんな王宮の目と鼻の先に隣接しているような場所を、ノワルが指定するはずがない。
「……シリスハム様、私のことは分かりますか? その、覚えていますか?」
顔を覗き込むようにしてそう言葉をかけると、彼の視線がゆっくりと私の方へ向けられた。
だがその瞳に、やはり光はなかった。
(やっぱり、私のことは何も覚えていないのかも。ここに来たのは単なる偶然?
……シリスハム様にも聞きたいことがたくさんあったのに)
表情のない彼としばし見つめ合いながら、私がそのように思っていると……
グンッ
「へっ?! な、なに突然……?!」
上方にある何かに引き寄せられるようにして、私の身体が突然、その場から浮上し始めたのだ。同時に、私の首にかかる女神の秘宝も白い光を放ち出す。
何が起こり始めたのか意味が分からず、私はあたふたと焦りながらも下方を見下ろした。
しかし、シリスハムは私のこの事態をただ見やっているだけだった。追いかけて来る様子もない。
海底をどんどん遠ざかっていく私。気が付くと、シリスハムはもう見えなくなってしまっていた。
(どういうこと……? それにこれって、"あの日" と同じ現象だよね……?)
しばらくの間海中を浮上し続けた後、私は当時と同じように、 "誰か" に腕を掴まれ、そのまま勢いよく海上へと引き上げられた。
当時とは、マーレデアム王国を攻めさせまいと海を離れ、"陸王国" へと赴くことを決意した日のことだ。
つまり、私の腕を掴んでいるのは……
「よーお、リリアナ」
「ギル……!」
深紫の瞳を細めながら不敵に笑ったその人は、
やはりグッセンスタシューン王国の現国王、ギルストロン・アムレート二世だった。
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リリィが遥か上方と上っていく様を見届けた後。
『……時間が、ない……』
シリスハムはたった一言だけ、そう言葉を発した。
そしてすぐに踵を返し、元来た道を再び走り泳いで行った。




