6. 魔声の罠
第三章 『古の海の魔物編』
つい先程まで怪魚だったエイが、女神の間のテラスをひらひらと、まるで翼をはためかせるようにして泳いでいる。
その様子を、私は窓越しに眺めていた。
怪魚の時は一軒の家ほどの大きさだが、浄化後はそれはそれは小さくなる。つまり、元の大きさに戻るのだ。
「だって、巨大エイより10倍くらい大きいリヴァイアサンですら、元に戻ったらチンアナゴだもんね……」
「チンアナゴではない。"ヘテロコンガー・ハッシ" だ」
「?!」
不意に、頬が大きな両手で挟まれてしまった。
「ところでリリィ。今俺が何と言ったか聞いていたか?」
「え? えと……」
「さては聞いていなかったな」
「ご、ごめん、シェリ……」
私は今、女神の間中央にある食卓椅子へと腰掛け、腕を組んで仁王立ちをしているシェリと絶賛対面中である。
さて、どうしてこのような図となったかというと……
先程の女神の間に現れた怪魚のことを国王に報告するため、ナプティムウトは王宮へと一旦戻って行った。
そして、当時の状況説明のために、私の侍女であるモネとルルも一緒に連れて帰っている。
さらにユーリはというと、何やら海の魔物について調べものをするということで、彼の実家であるエーギル家へと足を運んでいるのだ。
というわけで今、この女神の間には私とシェリの二人きり。
弁護してくれる人が一人もいないという、お説教にはもってこいの状況。
「怪魚がテラスの中には入って来れないと気付いたのなら、何故侍女たちと共に其方も女神の間へと避難しなかったのだ。何故一人で対処しようとした?」
「ええっと、それは、シェリたちは本拠地で緊急会議中だと思ってたから……」
「そうだとしてもだ。リリィとて危険な状況だったのは確かだろう。
其方への手紙も、ユーリへの言伝も、俺の筆跡を真似た犯行だった」
そう言って、シェリは忌々しそうに眉を寄せた。
「リリィ、本日からはこの女神の間にも24時間体制で護衛を置く。
本来は信頼のおける海人騎兵らを付けたいところだが、何せ皆、男ばかりだ。
それ故、騎兵団所属の戦闘鮫魚たちを女神の間に配置することになった」
「戦闘鮫魚たちを? でもそんなことしたら……」
「安心しろ。現在パートナーのいない鮫魚たちの中から選ぶ。
騎兵団の戦闘鮫魚はみな其方に懐いているから安心だとは思うが、ホメロスを群のまとめ役として付けよう。それで問題はないな?」
「そ、それは問題大ありだよ! だって、ホメロスはシェリのパートナーでしょう?」
「それで良いな?!」
「ええっ…… は、はい」
シェリにものすごい剣幕で押し詰められて、私も思わず承諾の返事をしてしまう。
「すまん、其方も色々と思うところがあるだろうがどうか納得してくれ。
……本当なら俺がずっと付いていてやりたいくらいだ」
自身の目頭を指で押さえながら、そう言葉にするシェリ。
彼が私たちのことを、どれほどに心配してくれているのかは分かっている。でも、これだけは伝えなければ。
「シェリ、一人で怪魚に立ち向かうなんて、危ない賭けをしてしまったのは分かってる。本当にごめんなさい。
でも、私はモネとルルの主人だもの。二人のことは、私が守らなくちゃ。
また歌に操られるかもしれないし、そもそも二人は可愛い普通の女の子だし……」
私は少し眉を寄せつつ、頸にある女神の紋章に手を添えた。
「……はあ。其方とてそうだろう」
すると、シェリは少し大袈裟に息をついた。そして私の腕を引いてその場に立たせると、ぎゅっと強く抱きしめてくる。
「シェリ?」
「祈りを唱えていた時、其方は震えているように見えたが? 遠目にもしかと分かるほどにな」
「そ、それは、あんな怪魚を目の前にしたら誰だって震えるよ! 顔もすっごく怖かったし」
「リリィ。リヴァイアサンを討伐した後、俺が言ったことを覚えているか?」
「え……?」
「俺の前まで我慢しなくても良い。無理に強く在ろうとするな」
「…………」
私は唇を一度きゅっと結んだ。
怪魚が怖くなかったか、と問われれば、答えはもちろん否だ。
私は顔を伏せたまま、おずおずと彼の背に手を回す。
「シェリ、いつも私のこと甘やかしてくれてありがとう。でも、ほんのちょっとは私も強くなってるって思わない?」
「……そうだな。すぐに泣いて子供のように拗ねていた頃が懐かしい」
「?! ちょ、ちょっと!」
「……本当に、頼もしくなったとも思う。
だが、其方が愛し子としてそう変わらざるを得なかったのは、やはり俺たちのせいだろう」
シェリは私を抱きしめながら、少し苦しげにそう言葉を紡いだ。
「……シェリこそ覚えてる? あなたと一緒に、私も王国の人たちを守りたいって言ったこと」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「私、愛し子に生まれて良かった。
もちろん、私はシェリたちみたいに戦えるわけじゃないけど、女神の神力で王国の人たちの命が助けられるなら、私は喜んで使うよ」
「………… そういう所が心配だと言っているのだ」
シェリは少し身体を離すと私の額に自身のものを押し当てた。
「いつか其方を失ってしまいそうで」
「シェリ、私の命がしぶといの良く知ってるでしょ? あっ、でもほとんどはシェリが助けてくれたからなんだけどね……」
少し目を泳がすと、シェリが私の瞼に口付けた。
「何度でも助ける」
「……なるべくお手を煩わせないようにします」
「それは大いに歓迎する」
シェリが少し眉を下げて笑ったので、私も釣られるようにして微笑んだ。
私は窓の外へと視線を移す。
外の海は、つい先ほどまで怪魚との交戦があったとは思えないほどに静寂だった。
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「リリアナ様、その後はいかがでしょう。戦闘鮫魚たちの様子は?」
女神の間にエイ型の怪魚が現れてから、丁度一週間程が経った。
本日、私とは横並びの席で書類仕事を行っているのはナプティムウト。
彼は宰相としての仕事もたくさん抱えているだろうに、変わらず私の護衛を引き受けてくれている。
「モネとルルも、初めは戦闘鮫魚たちを怖がっていましたけど、今ではおやつをあげたり、体に触れてみたりして、ちょっとずつ仲良くなっているみたいです。
ホメロスが他の子たちを、しっかりとまとめてくれています」
さまざまな種の獰猛な鮫たちが、女神の間付近を行き交う様子はなかなかに迫力満点。
しかし、そんな彼らのリーダー格なのがホメロスなのだ。鮫同士のちょっとしたいざこざも、ホメロスの一睨みで解決してしまう。
「戦闘鮫魚たちもそうですけど、ベルもホメロスをとても慕っているんです。
いつも彼の後をくっついて泳いでいて、まるで兄妹みたいで、見ていて微笑ましいです」
「あはは。種問わず、ホメロスは慕われているんですね。さすがはシェリのパートナーだ」
団長であるシェリの戦闘鮫魚を付けてくれたのは申し訳ない気持ちでいっぱいだが、ホメロスがいてくれると群が安定するのは確かだ。
「それに、ホメロスはリリアナ様にとても懐いていますからね。彼がリーダーなら安心でしょう。
ああ、でも貴方様のことがお好きなのは、ホメロスやベルに限りませんでしたね」
自身の愛鮫オリオンやユーリのパートナーであるイシスのことを思い出したのか、ナプティムウトがくすくすと笑う。
「ふふっ。そういえば、私の曾祖母も陸では動物たちに好かれていました! どうしてか行く先々で散歩途中の犬たちに囲まれたりして。
あ、犬っていうのは陸に住む動物なんですけど」
「……リリアナ様。そちらの腕輪は確か、その曾お祖母様から受け継がれた物だとか」
ナプティムウトが口元に少し笑みを残したまま、私の腕輪を見やる。
「あ、はい。この間ギルが届けてくれて……
これを付けていると、まるで家族がそばにいてくれるみたいで心強いんです。私のお守りです」
そう言って、私は腕輪に触れた。
「お守り…… ですか」
「ナプティムウト様も素敵なブレスレットを付けていらっしゃいますよね。すごく綺麗な糸で編み込まれていて」
「ありがとうございます。私のこれも、リリアナ様の腕輪と同様です。
……大切な人の形見なのですよ」
「え……?」
ナプティムウトは少し目を伏せて寂しげに微笑んだ後、その美しい漆黒のブレスレットに
静かに口付けた。
「リリアナ様。少し、私の思い出話にお付き合い願えますか?」
ナプティムウトは姿勢を正し私に向き直ると、彼の遠い過去のことを話し始めた。
「もう500年ほど前の話になるのですが、私は一人の女性に恋をしました。
彼女の名はアヤメ。漆黒の髪がとても美しい人でした。
……貴方様と同じ、人間の女性です」
突然、ナプティムウトがそのような話をし始めた。私は目を瞬く。
「……えっとそれは、ナプティムウト様の恋人さんのお話、ということですか?」
「そうです」
「…………」
正直、少し驚いてしまった。
ナプティムウトが自ら恋の話をしてくるなんて、今までになかったからだ。しかも相手は海人族ではなく、人間の女性。
だが、ナプティムウトがこんな話をし始めたのは、きっと今後の私に何か関係があるからだ。私はさらに彼に問いかけた。
「500年前ということは、アヤメさんという女性は、その……」
「もちろん、既に亡くなっています。人間の寿命が短いものだと知ったのも、その時です」
「……ナプティムウト様は、どうして私にこの話を?」
「これが、私が王位を継げない理由に繋がるからです」
「?!」
シェリが王位を継ぐと聞いた時から疑問に思っていたこと。
それは彼の姉兄である二人が、何故王位を継がないのかということだった。
私はさらに、ナプティムウトの言葉に耳を傾ける。
「当時は先王、つまり私の祖父が国王の座に着いていました。彼は私に人間の恋人がいることを知って、こんな提案をしてきたのです。
"100年間恋人に会わず、その間マーレデアム王国のために惜しまず勤仕するというのなら、その女性との結婚を認めよう"
当然、私は祖父に感謝をしましたし、彼女にもそのことを伝えました。
"役目を果たし、「すぐ」に迎えに行くから待っていて欲しい" と」
先王とは、あの海底戦争を収束させたという国王のことだろうか。
海人族の人たちには、きっと偉大な王として語り継がれている人だろう。
……だが。
「100年間って…… それは、つまり……」
「お察しの通りです。先王はもとより、私たちの結婚を認めるつもりなどなかったのです。
100年後、焦燥に駆られる思いでアヤメに会いに行きましたが、彼女は既に、その生を終えていました」
「そんな……」
「二人で逢瀬を重ねていた入江に、アヤメの墓が建てられていました。その墓石の前に、このブレスレットが添えられていたのですよ。
……私が美しいと、彼女に会う度に褒めていた髪で編まれたものです」
ナプティムウトはブレスレットに指を添え、ゆっくりとそれを撫で上げる。そして、核心の言葉を放つ。
「もちろんマーレデアム王国に戻ってすぐ、私は先王に楯突きました。
その時に王位継承権を剥奪されています」
「……楯突くって、その……」
「ええ。先王の足を剣で刺し、喉元にも突き立てました」
「?!」
普段の穏やかなナプティムウトからは全く想像が出来ない。
「本来、王に刃を向けるなど極刑に値するものですが、私が孫であり王子という身分でもあったのでそれでは外聞が悪かったのでしょう。
ただでさえ海底戦争の爪痕が残り、女神の愛し子も不在の状況で国も荒れていましたからね。
そのため、当時海人騎兵団の団長だった父の元へ騎兵団員として送り込まれました。そこで彼に、血反吐を吐き続けるほどしごかれてしまいました」
それまでは文官コースに所属していたので、と当時を懐かしむように微笑むナプティムウト。
アヤメさんという恋人のことは、もうすでに美しい思い出として心に残っているのだろうか。
「あの時は先王を恨み、心の底から憎んでいましたが、彼が亡くなって新時代となり、また私自身も歳を重ねたことで色々と見えてくるものもありました。
……海人族と人間の寿命の違いを知っていた先王が、私と彼女の双方に違う未来を与えようと、そう考えていたのかもしれないと思えるようにもなりました」
ナプティムウトの視線は、窓の外に向かっている。
それは、愛した女性と歩むことが叶わなかった未来への道筋を見据えているかのよう。
「歳の離れた弟に王位という重積を負わせてしまうことを、ずっと心苦しく思っていました。
……でも今は、シェリこそが次王に相応しいと心から言えます。もちろん、貴方様以外の国母も考えられない」
ナプティムウトは向かい合う私に、深く頭を下げ始めた。
「リリアナ様。この先もずっと、弟をお導き下さい。どうかお二人で、同じ時間を生きて欲しい」
私はナプティムウトの肩に手を添え、顔を上げるよう促す。
「もちろんです、ナプティムウト様。こちらこそ、よろしくお願いします。
……いつか、アヤメさんにも会いたいです」
「……ありがとうございます、リリアナ様。今度アヤメの墓を訪れる時は、彼女に義妹が出来ることを伝えなければ。
アヤメには兄弟がいなかったので、とても喜びます」
ナプティムウトはそう言って、とても穏やかに微笑んでくれた。
婚姻を結ぶということは、当人同士の感情だけでは成り立たない場合がある。
時期と状況と、王族であれば社会の情勢、異種族同士であれば寿命だって関係してくる。
シェリと私が結婚出来ることは、本来奇跡に近いことなのかもしれない。
ナプティムウトの話を聞き、私は改めてそう思わざるを得なかった。
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「ふむ。こんなものか」
騎兵団の制服の上に白衣を纏ったシェリが、出来上がったばかりの傷薬軟膏を見つめ、そう呟いた。
リリィとナプティムウトが書類仕事部屋で王位継承権の話をしていた頃、シェリは騎兵団の医務室でさまざまな用途の薬剤を調合していた。
今年は新人騎兵たちが多く入団したこともあり、例年よりも医薬品の消費が早い。
ベテランの海人騎兵ですら訓練中に医務室の世話になるのだから当然である。
そのため、騎兵団では唯一医学の知識があるシェリが、時々こうやって医薬品を調合、かつ補充しているのだ。
大方の仕事を終えたシェリが、ふう、と小さく息をついた時……
「シェリ、例の件調べがついたよ! って、すっごい薬臭いっ!!」
と、シェリのいる医務室にユーリがやって来た。
彼は鼻を摘み、目をパチパチとさせながらも、脇にいくつかの書物を抱えた状態で部屋へと入ってくる。
シェリはユーリに抱えられた本たちに目をやりながら、出来上がったばかりの調合薬たちを医療棚へと仕舞っていく。
「古の魔物と、ノワル・マクリルのことか」
「そ。まず一つ目、リリィが聞いたって言う歌声の主だけど、"セイレーン" っていう、古の魔物で間違いないと思う。ほら、ここの記述」
ユーリは持っていた書物たちをドサリと机の上に下ろすと、そのうちの一つをパラパラとめくり、シェリの前へと差し出した。
「歌声っていうと、なんだか聞こえが良くて
癪だから、今後は "魔声" って言うね。
そのセイレーンなんだけどさ。魔声で "人" を魅了して誘き寄せて、怪魚に食わせちゃうんだって。
もう、今回の件と完全に一致してるでしょ?
疑問は、なんでリリィには効かなかったのかってこと」
「……侍女らと違う点といえば、リリィが海人族ではなく、人間だということだな」
「僕も同感。これはほぼ決定じゃない?」
シェリは目を細め、書物にあるセイレーンの記述を見やる。
「もしそれを踏まえて意図的に謀ったというなら、悪辣にもほどがある」
「だね。リリィは侍女二人のことを、すごく大事にしてるから」
「その大切な者たちが目前で危険な目に遭えば、リリィがどう出るか。それを試していたということか」
シェリはそう言うと、白衣を脱ぎ騎兵団の制服を整えた。
「早急にセイレーンとやらを縛り上げねばならんが、我々をリリィから引き離すことに成功した、"手紙の主" もユーリの読み通りか?」
「……それは二つ目に繋がるんだよね。
守護者会議で王宮に大臣たちが集まった時、父上がさりげなくマクリル右大臣に、"養子" のことを聞いてくれたみたいなんだ。
でも、父上がそいつの名前を出した途端、右大臣は真っ青になって会議にも出ずに帰っちゃったんだって」
「ほほう。半年前に、わざわざ後継者として添えたその義理の子息に、何か弱みでも握られているのか?」
「さあ? 因みに右大臣は、意外と家族思いなんだよ。
父上に、美人な奥さんと優秀な "実子" らがいるってことをいつも自慢してたみたいだけど、それも半年前でパッタリ止んだみたいなんだよね」
ユーリが医務室にある、とあるものへと眼を投げた。
「あとはね、これはマクリル家近辺を探ってくれてたイシスからの新情報。
右大臣って案外芸術的でさ。どうやら毎晩、独唱会を開いてるみたいだよ」
「…… "歌" か」
「そ。歌い手は一体誰なんだろうね?」
シェリがユーリの視線をたどっていくと、そこには壊れた脚立が一台、無造作に置かれていた。
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「リリアナ様、そろそろご就寝のお時間ですわよ!」
「持ち帰りの案件だなんて…… 。騎兵団の書類仕事はそんなにブラックなのですか?」
私が食卓テーブルの上に仕事の書類を広げていると、モネとルルが盛大なため息をつきながらそう言った。
「ごめんね、二人とも。この資料だけどうしても早めにまとめておきたくて、持ち帰ってきちゃった」
今日はナプティムウトの思い出話に触れ、何だかしんみりとしてしまって、いつもより仕事を進めることが出来なかったのだ。
「でも、今丁度終わったから!」
私は古の海の魔物について書かれた資料を机上で整える。
「では、戦闘鮫魚たちにもリリアナ様の就寝を知らせてきますわ」
「うん、ありがとう」
モネとルルがテラスへと出て行ったのを確認した後、私は魔物資料の下に隠していたとある本を取り出した。
こちらは、ユーリの許可を得て医務室から借りてきた「海人騎兵の食事」という料理本。
(シェリとの婚約はまだ隠しておかなくちゃだけど、料理の研究くらいは許されるかな? 明日は仕事もお休みだし、試作品でも作ってみようかなぁ)
ついつい夢中になってそれを読み進めてしまった私。気が付くと、まさかの半分量ほどに到達していた。
(モネとルル、何だか遅いな。もう30分くらい経ってるよね?)
ホメロスがいるため、鮫同士の喧嘩の仲裁に入っている、なんてことは無さそうだが、一応確認のため、私もテラスへと向かう。
「モネ、ルル? 何か問題でもあった?」
しかし、テラスを見渡しても二人の姿はどこにもない。
不審に思った私はテラス端まで足を進め、柵から少し身体を乗り出すようにして下方を見やった。
「モネ、ルル、下にいるの?」
「いますよ。なので貴女も来てください、リリアナ女神様」
「?!」
下方へと身を乗り出していた私は、突然何者かに肩を掴まれ、柵を乗り越えるようにしてテラスの外へと引き摺り出されてしまった。
「わ……!!」
「大丈夫、ここは海底ですし落ちませんよ。ほら、ちゃんと僕が抱いていますし。この前の時のように」
「……へ? ノ、ノワルさん…………?」
そこにいたのは、何故かあの新人騎兵のノワル・マクリルだった。
「ご機嫌よう、リリアナ女神様。今夜は海蛍が綺麗な夜ですよ」
「どうして、あなたがここに…… あ! モネとルルは……?!」
「心配されなくても大丈夫ですよ。テラス続きの階段の上にちゃんといるでしょう?」
現状は未だ理解出来ていないが、何とか視線を階段の方へと向けた。ノワルの言う通り、そこには二人がいる。いるのだが……
「ご心配なく。お二人は気を失っているだけです。
それより、貴女が置かれている状況を理解するには、上方を見られた方が早いかと」
「上方……?」
もはや不審に思う暇もなく、私はただただ、言われた通りに行動していく。
……しかし、上方を見上げた私の眼には、とんでもない光景たちが飛び込んできた。
「……なに、これ…………」
上方に広がっていたのは群青の夜の海底ではなく、赤く染まった血色の海水。
そして、そこを浮遊しているのは眠りについた色とりどりの海水魚ではなく、数匹の巨大な怪魚と、肉片の塊たち。
……だが、女神の間を警護していた15ほどの戦闘鮫魚たちの姿は、どこにも見当たらない。
「以前の怪魚の件で、我々が女神の間に入れないことは分かっていましたので、テラスの外で待機せざるを得ませんでした。
あ、ちなみに怪魚たちを連れてきたのは僕ですが、戦闘鮫魚を食べろとは命じていませんので悪しからず。
先に攻撃を仕掛けてきたのはあちらの方でしたし」
私はやっと目が覚め、現状を理解した。
理解したら、全身から力が抜けていった。
力が抜けると、今度は涙と嗚咽しか出せなくなってしまった。
♪♪
ノワルが、口元で音楽を奏で始める。すると、モネとルルはゆっくりと、その歌に操られるようにして起き上がり、自らテラスへと続く階段を登り始めた。
(モネ、ルル……)
テラス内へと戻った二人は、その場でもう一度うつ伏せに倒れ込んだ。
「僕は貴女さえ来てくれればそれで良かったのですが、なかなか部屋から出て来られなかったので被害が大きくなってしまいましたね」
ノワルは唇に弧を描きながら、私のことを一度抱き直した。
ノワルから離れなければ。モネとルルの元に行かなければ。……シェリたちに知らせなければ。
そう思うのに、やはり全身に力が入らない。
私は唇を震わせながら、何とか核心の言葉だけを発する。
「……あ、あなたは一体誰……? 何が目的なの……?」
「リリアナ女神様。今から僕と一緒に、マクリル家の屋敷に来て下さい。そこで全てをお話しします。
貴女の大切な侍女たちまで、血肉の破片にはしたくないでしょう?」
ノワルはそう言って、私へと妖艶に微笑みかけた。
「貴女は類い稀なる、高貴な血を受け継ぐお方。その器は、到底、"王妃" などでは収まりきれません。
貴女にはもっと、"ふさわしい伴侶" がいます」
今夜訪れたのは、いつもの静寂な夜ではなく、無残な非日常。
穏やかな海底がほんの一瞬の間に奈落へと変わることがあるのだと、私はこの時知ってしまった。
"ヘテロコンガー・ハッシ" …… チンアナゴの学名です。ここではマーレデアム王国の呼び名として使っています。




