#8「眩しさと決別、そしてトゲ」
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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https://kakuyomu.jp/works/2912051600801871839
「〜〜♫ ……あ、あれは」
日菜が鼻歌を止めて、何かに気づく。昼休みの後、移動教室のため、一人、理科の教科書を胸に抱えて歩いていた時のこと。図書室の前に葵がいるのを見つけた。
「葵ちゃん! 何してるの?」
日菜は、胸に抱えた重い理科の教科書を少し持ち直しながら、いつも通りの元気な笑顔で声をかけた。
ハーフアップに白いニットリボンを揺らした葵は、日菜の声に気づくと、いつも見せるような凛とした、けれどどこか優しい微笑みを浮かべて振り返った。
「あ、日菜。ううん、今はちょっと調べ物。日菜はこれから移動教室? ……理科か。大変だね」
葵は教科書に視線を向けて言った。
「そうなの〜。教科書、地味に重いから……。あ、そうだ! 葵ちゃん、今日の放課後って忙しい? もしよかったら、美桜ちゃんと一緒に駅前でスイーツ食べに行かない?」
日菜は、昼休みに美桜と話していた楽しかった時間の余韻のまま、葵の手を誘うように一歩歩み寄った。
葵は一瞬、眩しい光を見るように目を細めた。
「……ありがとう、日菜。でも、今日の放課後はちょっとね。明日の委員会の準備しなくちゃいけないから」
葵は、寂しさを隠すように、いつものように人差し指を口元に立てて、少しだけおどけたようにウインクしてみせた。
「また今度、誘ってくれる? 日菜のおすすめのスイーツ、今度教えてよ」
「そっかぁ、残念。じゃあ、また今度絶対に一緒に行こうね! 約束だよ!」
日菜は、葵の言葉の奥にある小さな不安には気づかないまま、嬉しそうに何度も頷いた。
「じゃあ、遅れちゃうから理科室行ってくるね! 葵ちゃん、お仕事頑張ってね!」
タッタッタ、と廊下に響くスリッパの音。日菜の小さな背中と、肩にかかるくらいではねた茶色の髪を、葵は図書室の前で一人静かに見つめていた。
── 今日の放課後、美桜は日菜を連れて絶対に来る。だからその時……。
*
放課後の生徒会室は、開け放たれた窓から入り込む風が、白紙の匂いを優しく撫でていた。
パチン、パチン。
静かな室内に、小気味よい金属音が響く。
美桜に連れてこられた日菜は、長机の上に山積みになった資料と格闘していた。他の生徒会員たちは委員会の仕事で出払っており、この空間には、作業に没頭する彼女たちと、葵の三人しかいない。
「……ふぅ。疲れたよぉ。ねえ、美桜ちゃん。これ、あとどれくらいあるの?」
日菜はホッチキスを握りしめたまま、隣でテキパキと資料を揃える美桜を仰ぎ見た。
彼女が大きな長机に向かう姿は、どこか微笑ましい。
「あと少しだよ、日菜。ほら、手元が止まってる。がんばって」
美桜は、単語帳で日菜を励ました時のように、優しく、けれどどこか楽しそうに微笑む。美桜にとって、こうやって日菜と過ごす時間は、何物にも代えがたい『居場所』だった。
「ふふ、お疲れさま。手伝ってもらって助かるよ。ひ……『美桜』」
葵の声が室内に響く。その声には、結月と『恋バナ』をしていた時のような、柔らかい熱が含まれていた。
「葵! これくらい余裕だよ! あたしはやればできる子なんだから!」
美桜は『ドヤ顔』を作ると、再びホッチキスを動かし始めた。
「……自分で言ったね……日菜の真似した?」
横で日菜は小さく笑った。
*
「んじゃ、今日はありがと。おかげで助かったよ」
「こちらこそ。また忙しくなったらあたしたちのこと呼んでね〜」
お手伝いが終わり、二人が帰ろうとしていた時のこと。日菜は葵に呼び止められた。
「あ、日菜」
「ん? どうしたの、葵ちゃん」
「……今って空いてるかな?」
「……うん! どうしたの?」
「……これからのことで話したいことがあるの」
「……これからのこと?」
日菜は人差し指を口元に当てて、首を傾げた。
── “このこと”だけは伝えておかないと……。
葵はその一心で日菜を階段の踊り場へと連れていった。
静まり返った階段の踊り場。
この後、葵は噛みしめるように日菜の名を呼ぶ。
「……ねえ日菜」
「なーにー? 葵ちゃん」
日菜はいつものように、葵に向かって元気な声を向けた。
「日菜ってさ、いつも笑顔だよね」
「うん! 日菜はいつも元気だよ!」
誰にも負けないような笑顔を日菜は見せた。
「ふん」
鼻で笑うような、冷ややかな吐息。だが葵の瞳には、かつての親愛の欠片も残っていなかった。
「? 葵ちゃん。どうしたの? 元気ないけど──」
葵は日菜の言うことを遮るかのように話し始めた。
「ねえ。日菜は知ってる? 結月が付き合ってること」
「う、うん」
「結月、昨日の昼休み、日菜に聞いたらしいね。そのことを私に言ってきたの。日菜も知ってるでしょ?」
「……う、うん! 結月ちゃん、すっごく嬉しそうだったよ!」
日菜の記憶の中にある結月は、幸せそうに微笑んでいた。
「……『昨日』はね。でも『今日』。本当はこう言ってきたの」
「……え。なんて言ったの?」
「『昨日、日菜と話してから自分に自信を持てなくなった』ってね」
葵の言葉が、鋭いナイフのように踊り場の空気を切り裂いた。
「え? それって──」
日菜の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「ねえ日菜。『今日』、結月とは話した?」
「……え……今日はまだ……話して……ない」
葵は呆れた顔で日菜のことを見る。
「……やっぱりね。『昨日』、日菜には嬉しい顔を見せただけで、見えないところで泣いてたんだから」
葵の追求。でもそれは捏造された嘘。
一方で信じていた絆が足元から崩れ去っていく音を、日菜は聞いたような気がした。
「ちょっと待って! だからといって、葵ちゃんは嫌な思いをしてないよね⁉︎」
「してるよ」
即答だった。
「……え? 嘘でしょ?」
日菜が『仲良し』だと思い込んでいたその裏側で、葵の心は真っ黒な感情に侵食されていた。
「え。ちょっと待って、葵ちゃん! 思ってたんだけど今日はなんだか元気がないよ! 何か悩んでるんでしょ⁉︎ 日菜じゃ頼りにならないかもしれないけど、でも──」
「いつまでそうやっているつもり? ていうか、日菜に頼りなんかされたくないんだけど」
「え……?」
葵は突き放すような掠れた声を絞り出した。それに対し、日菜は動揺を隠せない。
「……そうね、結月には話したわ。でも、日菜には言うつもりなんてなかった。なんだかね、自分に全然自信が持てないの。やる気が起きない。……いいえ、正直、あんたを相手にする気力が、もう一ミリも湧いてこないのよ」
「え……?」
日菜の体が、冷水を浴びせられたかのように小さく震えた。葵はさらに──。
「結月といる時は、まだいいの。私の痛みを放っておいてくれるから。美桜は優しいから、本当のことは言わないだけだし、日菜が美桜の足を引っ張ってること、あんたが一番よく分かってるはず。でも、日菜。無邪気でそれらを解決するの。今の私にはただの苦痛でしかないし、鬱陶しいのよ」
「う、うっとうしい……? 日菜は、ただ、葵ちゃんと一緒に──」
日菜は必死に否定しようとする。けれども──。
「一緒にいて、どうするの? 逆に自分の惨めさが目立つだけ。あんただけのために笑う『やる気』すら起きない。……ねえ、私があんたを拒絶している本当の理由、分かった?」
「ねえ……さっきから何言ってるの……嘘……嘘でしょ?」
日菜は首を横に強く振る。でも葵の眼差しは鏡のように彼女の動揺を映し出すだけだ。
「なるほど。知らないってことね。じゃあ言っとくね」
「え?」
葵は一歩、日菜に歩み寄った。そして誰にも聞こえないように葵は口元を日菜の耳元に近づけ、囁くように言った。
「日菜のことが大っ嫌い」
「…………なんで…………日菜、心が痛いの痛いだよ。……友達なのに、なんでそんなこと言うの……?」
胸を押さえ、日菜は喘ぐように声を漏らした。
「分からないの? 顔も声も、この世で一番大っ嫌いだからってこと」
「……葵……ちゃん」
「じゃあ。さよなら」
葵はもう、振り返ることさえしなかった。乾いたスリッパの音だけを残して、階段を下りていく。
「あ、葵ちゃん! 待って!」
必死に伸ばした手は空を切り、日菜はその場に崩れ落ちた。冷たい床の感触が、自分が独りきりになったことを痛烈に突きつける。
「……ひどいよ……なんであんなこと言うの……日菜が何したっていうの……?」
日菜の頬を、涙が伝い落ちる。踊り場に響く彼女の泣き声は、夕闇に溶けて消えていった。
*
コツ、コツ。
家と家の間にある狭い路地に、ローファーの音が響く。葵は下を見つめたまま、ゆっくりと歩いていた。通る人なんか滅多にいないであろうこの路地。静かだ。
「……言えたけど……ちょっと言いすぎたかな……」
葵は一旦立ち止まって空を見上げる。屋根と屋根の隙間からは、夕焼けという名のグラデーションがかかっていて、『偽りのない美しい色』が瞳に入るのが分かった。
「……でも、何より『私の安全』のためにも」
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