#9「偽りの陰り」
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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美桜がいつものように登校し、教室の自分の席にバックを置いたとき、まず視線が向いたのは斜め前の席だった。
そこにあるはずの、弾けるような笑顔がない。
机の上は綺麗に片付いたままで、椅子の背もたれも静かに佇んでいる。いつもならHR前のこの時間は、日菜が「美桜ちゃーん!」と元気いっぱいに駆け寄ってくるはずの、1日の中で最も騒がしくも愛おしい時間だった。
「……日菜?」
ぽつりと呟いた声は、クラスメイトたちの雑談に揉み消されていく。美桜は胸の奥を小さな針でチクリと刺されたような、言葉にできない違和感を抱いた。スマホを取り出してメッセージアプリを開いてみるが、日菜からの既読はついていない。
「もしかしてまだ……」
ざわざわとした胸騒ぎを抱えたまま、美桜は席を立ち、廊下へと出た。ちょうど向こうから、生徒会のファイルを胸に抱えた葵が、凛とした足取りで歩いてくるのが見えたからだ。ハーフアップにした髪の白いリボンが、彼女の動きに合わせて小さく揺れている。
「あ、葵。おはよう」
美桜が声をかけると、葵はいつも通りの、どこか冷ややかで、けれど完璧な優等生の微笑みを浮かべて足を止めた。
「おはよう、美桜。どうしたの? そんなに険しい顔をして」
「ううん……ちょっとね。あのさ、日菜のことなんだけど。今日、まだ学校に来てなくて。葵、何か聞いてたりしない?」
美桜は葵の顔をじっと見つめた。昨日の放課後、生徒会室での手伝いを終えた後、葵が日菜を呼び止めてどこかへ連れて行った姿が脳裏をよぎる。
一瞬、本当に一瞬だけ、葵のまつげがピクリと跳ねた。だが、彼女の表情はすぐにいつも通りの澄ました水面のように戻る。葵は小さく小首を傾げ、人指し指を顎に当てて見せた。
「さあ? 知らないよ。昨日、少しだけ言葉を交わしただけだし。……まあ、もう十ー月だしね。急に寒くなったっていうか……頑張りすぎて、風邪でも引いたんじゃない?」
何でもないことのように、葵はさらりと言ってのけた。その声には一切の動揺も、悪びれる様子も含まれていない。
「風邪……そっか。日菜、たまに無茶するしね」
美桜はそう自分に言い聞かせるように納得し、小さく息を吐いた。
確かに最近の朝晩の冷え込みは厳しい。あの元気すぎる幼馴染も、体調を崩すことくらいはあるだろう。
「じゃあ、私は職員室にこれを届けてくるから。また後でね、美桜」
葵はそう言って、美桜の肩を軽く叩くようにして通り過ぎていった。
美桜はその背中を静かに見送ったが、胸の奥にこびりついた冷たい違和感だけは、どうしても消し去ることができなかった。
*
── 葵は、一体何を考えているの……?
疑問と不安が頭の中でぐるぐると渦巻き、視線が自然と足元に落ちる。そのため、曲がり角から勢いよく飛び出してきた人影に、美桜は完全に気づくのが遅れた。
「あ、危なっ──」
「きゃっとと……っ⁉︎」
お互いに短い悲鳴を上げ、寸前のところで衝突を回避する。ステップを踏むようにしてよろめいた相手の制服が、ふわりと揺れた。
「ふぅ……セーフ! ごめんねみおっち、急に飛び出しちゃって!」
弾んだ声とともに顔を上げたのは、スクールバックを肩にかけ、登校してきたばかりの結月だった。いつもの明るい笑顔──のはずだが、その瞳の奥には、隠しきれない焦燥と戸惑いが張り付いている。
「結月……? どうしたの、そんなに慌てて」
美桜が声をかけると、結月は周囲を小さく見回し、美桜の腕をきゅっと掴んだ。その手のひらが、かすかに震えていることに美桜は気づく。
「ちょうどよかった。あのね、美桜。葵ちゃんのことで話があるんだけどさ。……ちょっと、場所変えよ? ここだと、誰に聞かれるか分からないから」
「え……? あ、ああ、うん」
真剣な結月の表情に、美桜の心臓がドクリと嫌な音を立てた。葵と話した直後のこのタイミング。嫌な予感を胸に抱きながら、美桜は結月の手を引き、朝の喧騒から外れた校舎の裏手へと向かった。
美桜と結月が合流した校舎の裏手は、朝の喧騒から少し離れていた。
「……結月、それって本当なの?」
美桜の熱を帯びた声が、張り詰めた空気の中に響く。結月は小さく、けれど確かに頷いた。
その瞳には、親友を疑わざるを得ない苦悩と、昨日感じた違和感への恐怖が滲んでいる。
「うん。昨日の放課後、葵ちゃんに呼び出されて……。ひなっちがウチの恋愛のことを何か悪く言っていたみたいに告げられたの。でも、日菜ちゃんがそんなこと言うはずないって、ずっと思ってて。そして今、みおっちからひなっちが学校に来ていないって聞くとどうしても不安になって……」
結月の言葉を聞きながら、美桜の脳裏には昨日の放課後の光景が蘇っていた。
生徒会室で楽しそうにホッチキスを留めていた日菜の笑顔。その後、葵に呼び止められて、少し嬉しそうに廊下へ出て行った後ろ姿。
「葵が、日菜に嘘を……? なんで……?」
美桜の拳が、スカートを強く握りしめる。
いつも冷静で、生徒会の仕事を完璧にこなす憧れの存在だった葵。だが、思い返せば昨日の葵の笑顔は、どこか仮面のように張り付いていた。日菜を遠ざけ、孤立させようとするかのような明確な意図。
「ひなっち、今頃どうしてるかな……。ウチ、あんな話を真に受けたりしてない。ひなっちのことを信じてるって、ちゃんと伝えなきゃいけないのに」
結月の声が細く震える。
「……じゃあさ、行くよ、結月」
「……行くって……どこへ?」
美桜が前を向いた。その瞳には、いつもの穏やかさはなく、大切な居場所を守ろうとする強い決意が宿っていた。
「帰り、日菜の家に行こう。葵が何を企んでいるのかは分からない。でも、一番傷ついているのは日菜だから。あたしたちで、日菜を迎えに行こう」
「うん……!」
二人は朝日に染まる校庭を駆け抜け、教室へと向かった。
「美桜、結月……。無駄だって言ってるのに……」
その時、二階の誰もいない廊下の窓辺で、葵は遠ざかっていく二人の背中を静かに見下ろしていた。その表情には、目的を達した安堵と、決して拭い去ることのできない深い影が落とされていた。
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次回の投稿は、7月13日です。




