#18「孤独な追憶」
※本作は「カクヨム」にも重複投稿しています。
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「そういえば……日菜と約束したのっていつだったっけな……」
葵は生徒会室で一人、昔の出来事を思い出していた。
◆◆◆
約二年前。
小学校生活最後の日。卒業式。桜が巣立ちを迎える子どもたちを見送るかのように咲き誇っていた時のこと。散るのはもったいないと感じるほど桜は綺麗だった。
教室の黒板には「卒業おめでとう!」と白いチョークで中央に、その周りには桜やアニメキャラのイラスト、クラスメイトによるメッセージが隙間なく書かれていた。
外では卒業証書を片手に、桜をバックに写真を撮ったり、友達とツーショット、いや、「スリー」ショット、「フォー」ショット(つまり人数は限らない)で撮る友達だっていた。ここにいる全員にとって式が終わった自由時間は六年間の小学校生活の中でも一番充実しているように思えた。
『桜……綺麗……』
卒業したての葵は証書を胸に近づけて持ちながら一人、桜の木の下で見惚れていた。
桜の花びらが散る。
『……でも刹那だよね……こんなに綺麗なのって……それに──』
手の甲に降ってきた桜の花びらを見つめながら彼女は、美しい桜がいつかは散ってしまうことに寂しさを感じていた。いつまでも永遠に咲いてほしいのだ。
『あーおーいーちゃん‼︎』
『っ、うわぁ!』
日菜が後ろから葵に突進して飛びついてきた。その反動で葵はこけそうになる。
『……もう、日菜? ったく……。やめてよっ。もーっ』
葵は頬を膨らませて抗議するが、日菜は気にせず彼女の頬を人差し指で突いた。
『葵ちゃん怒ったー! えいっえいっ!』
『……はぁ』
葵はため息をつくと、もう一度、桜の木を見上げた。
散ってしまうことも、今のこの空気が過去になってしまうことも、全てを、葵は恐れていた。
『……ねえ、日菜』
『どうしたの?』
日菜は葵の腕に絡みついたまま、変わらぬ笑顔を向ける。葵は目を細め、消え入りそうな声を出した。
『……私たち、中学校に行ったら、別々のクラスになるかもしれないじゃん。部活だって、帰る時間だって、全部変わっちゃう。……そうやって、少しずつ遠くなって……いつかは忘れちゃうのかな。どうでもいいものになっちゃうのかな……』
葵の指先が、卒業証書を強く握りしめる。でも日菜は──。
『そんなことないよ! 葵ちゃんの心の中にはいつも、日菜がいるんだから!』
『……えっ?』
日菜の反応は葵の予想とは正反対。「あはは!」と笑い飛ばしたのだ。
葵の胸元を人差し指でツンと突いて、いたずらっぽくウインクしてみた。
『日菜が毎日、心の中で『おはよー!』って叫んであげるよ。だから、離れてても全然平気! 葵ちゃんが日菜のことを考えてる時、日菜も絶対、葵ちゃんのことを考えてるもん。それって、一緒にいるのと同じでしょ?』
『……何よ、それ。理屈になってないわよ』
葵は呆れたように目を逸らし、肩をすくめた。
けれど、日菜の無茶苦茶な理屈が、彼女の冷え切った心を、じわりと溶かしていくのを葵は感じていた。
『いいの! 日菜がそう決めたんだから! ね、笑ってよ。散るのが寂しいなら、日菜が隣でずっと、新しい花を咲かせてあげるから!』
日菜はそう言って、葵の手を引いて走り出す。
『“葵ちゃん! 中学校一緒に頑張って、同じ高校に行こうね!”』
日菜の告げられた『約束』。
舞い散る桜吹雪の中、引かれる手に導かれるまま、葵は小さく笑った。
その約束がもっと続いていれば今、苦労しなかったはずだ。
そう考えたくなる。いつまでも約束が続いてほしかったっていつも思いたくなる。でも──。
「破っちゃったよね……」
*
今から半年前。いや、中学に上がってすぐなのかもしれない。葵と日菜は別々のクラスになったから。
放課後の図書室の中の自習室。葵は一人、窓際の席で難しい参考書を広げていた。迫っている模試に向けて、勉強していたからだ。
イヤホンをつけて、落ち着いたピアノのBGMで葵は集中しようとするが──。
『……日菜、楽しそう……美桜と……一緒に』
その視線はページではなく、並んで外を歩く二人に向いていた。
『美桜ちゃん! 鼻にクリームついてるよ!』
『え⁉︎ 本当だ! やだ~恥ずかしい~』
そこに二人、日菜と美桜がアイスを食べながら帰る姿が目に映った。
── 楽しそう。私も、あの輪に入りたい……。
あの頃、自分にだけ向けられていた日菜の「えいっ!」という無邪気な突進が、今は美桜だけの特権になっている。そう考えると、葵は心がゾクゾクした。
『……私が、頑張りすぎているだけなのかな』
机に広げられた参考書にもう一度、視線を向ける。『日菜のために参考書まで解いてちゃんとしたい葵』と『参考書なんか気にせず、自由気ままに生きる日菜』とではなんだか違っている気がした。
『って、何言ってるのよ。私は私で頑張らなきゃ』
その後、日菜たちのことが気になりつつも、葵は一切参考書から目を逸らさなかった。
*
また別の日。
放課後の廊下がオレンジ色に染まった頃。
『あ、日菜だ』
生徒会の仕事が終わり、階段を降りて下駄箱へ向かおうとすると、そこには日菜がいた。ローファーを履いて、外へ出ようとしていた時だった。
『せっかくだし声かけてみ──』
『美桜ちゃん! 結月ちゃん! 待ってよー!』
その瞬間、日菜のローファーの音と彼女の背中がだんだん遠ざかっていく。
『あ……“席”とられた……。何よ、話そうと思ったのに……』
葵は数秒、ためらった。指先が空を切ったまま、止まる。
「生徒会の仕事、終わったよ」とか「一緒に帰らない?」とか。昔なら当たり前のように口にできていたはずの数々の言葉。
でも今。日菜が追いかけていった先には、美桜と結月が待っている。
「あはは」と三人の笑い声が心地よく、けれど葵にとっては残酷のように聞こえてしまった。
『……あはは、また。私、また『足遅い』じゃん』
葵は自嘲気味に笑うと、手に持っていた生徒会の資料のファイルを強く胸に抱き寄せた。
『……そうだよね、私には『生徒会』っていう大切な役割があるもんね。日菜と過ごす時間よりも、こっちの方が優先なの……当たり前なのよね』
葵は一人でそう呟いた。
今の日菜にとって、葵はもう『追いかける対象』ではなくなってしまった。
一番に見つけたい背中は自分で、一番に名前を呼びたい相手は美桜で。
今の葵には、それらの事実が、ガラスの破片を飲み込んだような痛みとなって胸に刺さる。
日菜のローファーの音が完全に聞こえなくなった後も、葵はしばらく動くことができなかった。
かつて自分が立っていたはずの場所。自分だけに見せられていた、あの太陽みたいな笑顔。それが、自分以外の誰かに向けられ、自分がいなくても幸せになっている。その事実が、葵の自尊心を、ゆっくりと、けれど確実に侵していた。
◆◆◆
「なんてことも、あったっけ」
そして今。
「……ずるいよ、日菜……。私だけ、置いていかないでよ……」
日菜たちがとっくに帰った後、葵は重い足取りで、スリッパからローファーに履き替える。オレンジ色の光の中で、彼女の落とした影だけが、どこまでも長く、孤独に伸びていた。




